ディグアント・ナイト
変異ディグアントの死骸を観察しながら、ノアは眉をひそめた。
「……おかしいな。こいつ、フェロモンの量が多すぎる」
体内の分泌腺が過剰に発達している。それは巣の防衛中枢に近い個体、つまり女王の近衛種であることを意味していた。
「まさか……巣の中心が、こんな浅い層に?」
数年間このダンジョンを歩き回ってきたノアだが、女王蟻の姿を目撃したことは一度もなかった。女王はもっと深く、誰も到達できない層にいると考えられていた。
だが、変異体の出現と、この個体の生態異常――
「……深層から逃げてきたか、それともこの層に新しい巣を?」
ノアは床に落ちたフェロモン袋を慎重に取り外し、専用の小瓶に収めると、歩を進めた。
通路は次第に狭く、湿り気を帯び、やがて人工物の匂いが失せていく。
自然洞窟のような岩肌の先――そこには、巨大な空洞がぽっかりと口を開けていた。
ノアは息を呑んだ。
「……女王の部屋か」
中は蟻の巣とは思えないほど広く、天井にはぶら下がるような繭が多数形成されている。おそらく、新たな変異個体の孵化を待っているのだろう。
巨大な空洞の中心——
そこにいたのは、ノアの予想を遥かに超えた存在だった。
ディグアント・クイーン。
全長五メートルを優に超え、深紫色に輝く甲殻。膨張した腹部は繭や卵塊と管でつながり、ダンジョンの“心臓”のように律動している。
「……さすがにでかいな」
ノアは囁くように呟いた。
だが、その脇に――さらに三体。
女王の護衛、ディグアント・ナイト。
通常種よりも二回り大きく、分厚い前脚は盾のように硬質化していた。脳の半分を防衛本能に割いたような、極めて攻撃的な個体。
「まずはこいつらからか……」
ノアは腰のポーチから、手のひらサイズの黒煙玉を取り出す。
中身は特製の毒煙。神経伝達を微弱に阻害し、対象の動作を遅らせる薬剤が仕込まれている。
「昆虫型なら、神経節に効くことは実験済み」
乾いた音と共に地面に投げつける。
パシュッ!
瞬時に濃灰色の煙が周囲に広がり、視界が霞む。ノアは毒素に耐性のある呼吸フィルター付きマスクを素早く装着した。
煙に包まれたディグアント・ナイトたちは即座に動きが鈍くなる。
前脚の振りが遅れ、顎の噛みつきもタイミングがずれた。
「効いてるな……!」
ノアは煙の中を滑るように走り、1体のナイトに対し、脚部の関節を狙ってハンマーを振り下ろす。
ゴン!
乾いた音と共に関節が砕け、ナイトがバランスを崩す。続けざまに炸裂玉を顎へ放り込んだ。
爆音。
甲殻が弾け、体液が飛び散る。
「よし、1体」
だが次の瞬間――女王が反応した。
触角がうねり、巨大な頭部がノアの方を向く。
「毒煙……効いてない、か」
ディグアント・クイーンはまったく動じず、触角を震わせて周囲の煙を“感知”する。ナイトを守るように、管の一部が警戒するようにうねった。
煙が徐々に薄れてくる。
時間がない。
ノアは、煙が切れる直前を狙って動いた。
懐から閃光玉と音爆弾を同時に取り出し、地面へ叩きつける。
パァンッ!!
閃光が洞窟内に白い稲妻のように走り、直後に耳を劈く爆音が鳴り響いた。
近衛のナイトたちは触覚と聴覚を攪乱され、その場で立ち尽くす。
ノアはすかさず飛び出す。
「鈍った、今!」
2体目のナイトへ背後から接近し、首の根本をピンポイントで強打。
ヒビが走った甲殻に、追撃の杭打ち式爆弾を突き刺す。
「沈め!」
ゴゥン!
鈍く炸裂し、ナイトが崩れ落ちた。
だがその直後、クイーンが動いた。
触角を大きく震わせ、腹部からぬめりのある管が伸びる――
次の瞬間、嘶くような音とともに、強酸の弾が飛来した。
「ッ――!」
ノアは咄嗟に横へ飛び退く。
地面に着弾した酸が石を溶かし、白煙を上げる。
「援護か……!」
クイーンは動かずとも、周囲の状況を把握し、即座に反応していた。
防衛本能――それすら戦術的に機能している。
しかし――
残る1体が動いた。
咆哮のような鳴き声を上げて、毒煙が残る空間を突き破って突進してくる。
ノアは即座に判断を切り替え、正面から迎撃に転じる。
蟻用誘導液の小瓶を取り出し、ナイトの顔面めがけて投げつけた。
液体が甲殻に付着した瞬間、ナイトがわずかに進行方向を乱す。
ドガンッ!
そこに合わせて、ノアのハンマーが側面から打ち込まれた。
「落ちろッ!」
地響きと共に、最後のナイトが動かなくなる。
ノアは息を整える間もなく、クイーンの方へ目を向けた。
――その瞬間だった。
クイーンの腹部から伸びていた複数の管が、ぬるりと蠢きながら卵塊から抜け落ちる。まるでへその緒を断ち切るように。
管の付け根から噴き出した粘液が床に滴り、煙を立てる。
「……来るか」
甲殻が軋む音を立てながら、ディグアント・クイーンがゆっくりと巨体を持ち上げた。
先ほどまでただの“巣の核”に見えていた存在が、今、戦うための“女王兵器”へと変貌しようとしている。
目のような複眼が、確かにノアを見据えていた。
ノアは静かにハンマーの柄を握り直した。
深層に潜み続けた支配者が、ついにその殻を破って動き出す。
女王戦、開始