蟻のダンジョン
世界には無数のダンジョンが存在する。
そしてそのひとつひとつが、名を持ち、性質を持ち、意志を持っている。
そんな中でも“蟻のダンジョン”と呼ばれる迷宮は、冒険者たちから極端に嫌われていた。
理由は単純。広く、何もなく、ドロップが渋い。
「……いつ来ても、鬱になる構造だな」
そう独りごちるのは、ひとりの中年にさしかかる男――ノア・ノーム。
冒険歴は十年を超えるが、決して名のある英雄ではない。
人気も名声もない辺境ダンジョンばかりを請け負い、モンスター掃討、罠の無力化、構造調査などを黙々とこなす。
派手な魔法もなければ、伝説級の武器も持っていない。
ただ慎重で、準備を怠らない。
「今日は、左の層から崩れてきてるな……こっちの道は後回しだ」
手にした地図は、彼自身が三年かけて作った手描きのものだ。
ドロップがない分、調査成果の売却で生活を立てている。
そんな生活を続けていたら、”働きアリ”――《ワーカー》なんて通り名がついた。
“蟻のダンジョン”には、ディグアントと呼ばれる大型の蟻がポップする。
本来、ダンジョンの壁は破壊不可能なはずだが、あいつらだけは例外だ。自力で巣を掘り広げ、時に迷宮の外にまで拡張していく。
放っておくと、町の地下まで巣が伸びてくる。
だからギルドは定期的に、見回りと巣の縮小を目的としたクエストを出している。
……とはいえ、ディグアントの素材は使い道が少ないし、このダンジョンから出るアイテムも総じて渋い。
おまけに戦闘より探索がメインで、ソロでもこなせる内容だ。
当然、報酬金も安い。
だから誰もやりたがらない。
だがそんな他の奴らが見向きもしないクエストが、俺の専門。
狭く、息苦しい通路の奥。ノアは静かに足を止めた。
――いた。
目の前に現れたのは、明らかに通常種とは異なる異様な蟻だった。
全身が黒光りする甲殻に覆われ、顎は通常よりも一回り大きい。
背には細かい棘が生え、腹部が異様に膨れ上がっている。
《変異ディグアント》。
自然発生か、それともこのダンジョンの深層で何か異変が起きているのか。
「……変異体か。やっかいだな」
ノアは腰のポーチから小瓶を取り出す。中には、粘性のある黒い液体。
蟻用誘導液――事前に回収したディグアントのフェロモンと、果物から絞った蜜を混ぜた手製の餌だ。
「少しだけ、こっちに意識を向けてもらおう」
壁の影、敵からやや離れた位置に誘導液を塗りつける。
変異ディグアントは一瞬たじろいだが、すぐに嗅覚で液体に反応。音もなくそちらへ向かって歩き出した。
その瞬間、ノアは手元の閃光玉をディグアントの眼前へ投げつける。
バンッ!
白い閃光が通路を満たし、変異ディグアントが暴れ出す。
「視覚を奪えた……!」
ノアは脇差しほどの長さのハンマーを振り上げ、全身の体重を乗せて頭部へ一撃を叩き込んだ。
ガンッ! 金属を殴ったような鈍い手応え。だが――効きが浅い。
「……やはり、装甲が厚いか」
敵は一瞬たじろいだが、すぐに顎を鳴らしこちらをにらむ。
反撃の気配を感じ、ノアはすぐに後退。敵が突進してきたその瞬間を狙い――再び頭部へ、今度は軌道を変えて横から強打!
ガゴッ!
変異ディグアントが仰向けに倒れ、数秒間の硬直――スタン状態。
「今だ」
ノアは間髪入れず、敵の右前脚の関節部に狙いを定めてハンマーを振り下ろす。
ガシャンッ――鋼のような外殻が砕け、白い体液が飛び散った。関節の可動を失った敵はバランスを崩す。
さらに左脚の関節へ一撃、そして首元――甲殻が継ぎ目になっている部分に叩きつける。
変異ディグアントは痙攣し、ついに動かなくなった。
ノアは息を整えながら、血と体液が混じったハンマーを床に突いた。
「……正面から殴り合う相手じゃないな。想定通りとはいえ、硬かった」
静かになった通路に、彼の独り言だけが静かに響いた。