026.これで充分
久々に弁護士事務所を訪れている。前回は母と紗里がついて来てくれたけれど、今回は蒼司が来てくれた。
裁判なんて人生初だから、どうやるのかさっぱりな私に、弁護士さんが流れを説明してくれた。
原告──つまり私が裁判所に訴状を提出する(弁護士さん頼みだけれど)。受け取った裁判所が訴状内容を審査して、問題なければ受理され、審理期日が通達される──裁判所に行く日が決まるということらしい。その後、被告になる山下と阿津子に訴状と期日呼出状が送られる、と。なるほどなるほど。
「裁判所から訴状が届いて和解になることが多いですね」
必要となる書類への記入を終えた後、弁護士さんが言った。
「そうなんですね」
ドラマにあるように出廷するのかと思っていた。
「訴状内容にもよりますが、相手が法人ですと双方が答弁してから和解に向かうか決裂するかですが、私人対私人の場合は、裁判記録が残ることを恐れて答弁前に和解することが多いです。時折、被告側が答弁そのものを二回無視し、欠席裁判になり、敗訴というものもありますが」
欠席裁判の正しい使い方をこんなことで知るなんて思わなかった。
裁判となれば私も出廷しないと訴えを取り下げたということになるらしいから、そうなったら課長に相談して有休を取得しないといけないな。
やると決めたけれど、及び腰な自分がいる。裁判なんて物語の中だけのもので一生無関係だと思っていたから。被害者なのに、悪いことをしているような気持ちになる。
頑張れ、私。
弁護士事務所からの帰り道、蒼司とカフェに寄った。そのまま帰ってもよかったんだけれど、ちょっとひと息吐きたかった。なんとなく現実味がないというか。
「すぐ終わるから安心していいと思うぞ」
「そうなの?」
「馬場は退職済みだから払えないとして、今後の生活を考えたら光太郎は退職できないだろう?」
「払いたくなくて転職するかもしれないよ?」
「ありえない話じゃないが、面接でなんて言うんだろうな」
不貞して裁判で敗訴したけれど、支払いたくないから退職しました、なんて馬鹿正直には言わないだろうな。
「支払いよりも会社が居心地悪くなって転職はあるかもしれないね」
「それもありえる」
悪手に悪手を重ね、更にまた重ね……た結果がこれなのだから、山下と阿津子は自業自得だと思う。
「時代劇みたいにはいかないものだよね」
これが時代劇なら、悪は成敗されて失われたものが戻ってきたりするんだけれど。
「勧善懲悪なんて実際にはないから人気なんだよな。世の中が白と黒しかなかったら分かりやすいだろうが、それはそれで生きづらいだろうと思うよ」
「たしかに」
白黒つけたくなることもあるけれど、現実では曖昧にしておいたほうが良いこともある。白黒ついてほしいものに限って黒よりのグレーだったりして。世の中ってそういうものだよね。ままならないことのほうが多い。
そんな中でも、私は私にできることをしたと思ってる。
「やることはやったから、あとはもういいかな」
「そうか」
慰謝料が減額されても、もらえなくても。山下は針の筵に座る気持ちで仕事を続けるのか、慰謝料払いたくなさに退職するのか。裁判をすると伝えたのもあって、サークルのメンバーは二人の結婚式には出席しないと決めたらしい。
人によっては物足りなさを感じるかもしれないけれど、私はこれで充分。やり返した。
「凛子は優しいな」
「優しくないよ。もし優しく見えるんだとしたら、皆が味方になってくれたからだと思うよ」
これが一人だったなら。家族がいなかったら。家族が味方になってくれなかったら。サークルのメンバーがあの二人を応援していたなら。上司が理解を示してくれなかったら。蒼司が寄り添ってくれていなかったら──どれか一つでも欠けていたら今の私じゃなかったかもしれない。
「ありがとう、蒼司」
「どういたしまして」
蒼司が私の手をぎゅっと握ってきた。
「え、なに?」
ちょっと恥ずかしくて、思わず聞いてしまう。
「まだ完全に片付いてないから、フライングだけど、オレのことを見てほしいなと思ってさ」
「……蒼司って本当、恥ずかしいことを平気で口にするよね?」
「前から言ってるが、平気じゃない。オレだって若干恥ずかしい」
「若干なんだ」
「若干だな」
頷くと、もう片方の手で私の手を包み込む。その温かさに、なんだか目の奥がうるっとする。人肌ってなんでこんなに優しい温かさなんだろう。
「こうやってはっきりと口にしないと、凛子は逃げそうだからな」
はっきり言われすぎて恥ずかしくなって、逃げたくもなるけどね。恥ずかしさに隠れて、嬉しいと思っている自分に最近気が付いた。
そう、蒼司の行動や言葉を、嬉しいって感じる。
「今日、何食べたい? 頑張った凛子の食べたいものを作りたい」
作ってやる、とは言わない蒼司。私がオレ様が嫌だと言ったからなのか、こうしたちょっとしたところに、気遣いを感じる。
「蒼司の作るものはなんでも美味しいから、悩ましいんだよね」
「そんなに褒めても料理しか出ないぞ」
「出るんじゃん」
「凛子の胃袋を掴むためにな」
思わず笑ってしまった。
「もう掴まれてるの知ってるくせに」
「まぁな」と答えて笑う蒼司。
阿津子被害者の会で再会して、なんやかんやあって同居し始めて、蒼司の色んな笑顔を見てきた。
「イケメンの笑顔は有罪だと思う」
「そのイケメンはオレのことと思っていいのか?」
「他に誰がいるの」
「今までそう呼ばれても嬉しいと思ったことなかったんだけどな、凛子に言われるとなんだかくすぐったいな」
蒼司は有罪も有罪、重罪だなと思う。
その笑顔は本当に罪作りだよ。
「オレにとっても凛子は有罪だぞ」
「えぇ?」
「どうしてこんなにオレの心をくすぐる言動ばっかりとるんだ」
あぁ、側から見たら私と蒼司、バカップル以外の何者でもないな。でもそれすらなんだか嬉しく感じる自分がいる。軽傷かと思っていたのに、実は重症なのかもしれない。
「有罪です」
「二人してどうしようもないな」
「本当にね」
繋いだ手が、パズルのピースがハマったようにぴったりくっついて離れない、そんな錯覚がする。それぐらい、蒼司の手を放しがたい。
素直に認める。私は蒼司に好意を抱いてる。あぁ、我ながらなんてチョロいんだろう。チョロすぎるって思うけど、これが夢なら醒めないでほしい。そうすればずっと幸せな夢は続く。
「大丈夫だ」
まるで私の心を読んだかのような言葉に驚いていると、蒼司が少しだけ困った顔をした。
「気付いてなかっただろうが、少し悲しそうな顔をしてたぞ」
眉間に皺でも寄っていたかと、指で触れて確かめてしまう。
「オレがモテたいのは凛子だけだ。凛子のことだけを見てるから安心しろ」
またそうやって恥ずかしいことを、とツッコミたいのに、涙の奥がじんと熱くなって思わず目を閉じてしまった。
「うん」
未来は分からない。でもね、今はこの言葉を信じるよ。
(裁判ついては調べて書いていますが、間違っていたら申し訳ありません)




