025.幸運の神には前髪しかない
決めた。裁判をする。
慰謝料が減額されても構わない。あの二人のことは元より許す気はなかったけれど、ここまでこちらの言うことを無視するのだ。お望み通り裁判にしてさしあげようと思う。
「馬鹿は死ななきゃ治らないっていうけどな、あれは嘘だ」
山下と阿津子を訴えようと思うと蒼司に伝えると、頷きながらそう言った。
「嘘?」
「馬鹿なまま死ぬんだから、馬鹿なままだろう」
「つまり、治らないって言いたいのね」
「その通り」
この前裁判する、みたいなことを口にしてしまったし。訴えると言って訴えないのは脅迫罪になるとかなんとか。先日のことを課長と電話でやりとりした際、そう教えられた。そんな罪があるとは……。
「裁判するって言っちゃったし、いくら言っても分からないみたいだし。民事裁判だから慰謝料が減額してしまったり、払わないで逃げられてしまうかもしれないけれど」
「まぁな。でも手間はかかるが強制執行の手続きは可能だぞ」
「退職しちゃったら払えないじゃない?」
まず阿津子が既に無職で払ってもらえない。これで山下が会社に居づらくなって退職したら慰謝料はもらえない。破滅を望んでいるわけではないからいいけれど、そのぐらいの覚悟がこちらにはあるのだと分からせたい。
「支えるから、やりたいところまでやるといい。嫌になったら止めてもいい。凛子の今の気持ちは、金銭云々を通り越しているんだろうから」
「うん、ありがとう」
あの二人との関係を完全に終わらせたい。
影を踏まれて動けないような、こんな状況にうんざりしている。
前を向いて歩き出したい。それが、今の私が思う正解。
弁護士さんにも裁判の意思を伝えた。先日の襲来も伝えてあったので、やむを得ないことですと言われた。
家族と喜美子、それから課長と仲の良い先輩後輩にも。
『遠慮なくやっておしまい!』と、喜美子にも背中を押してもらって、少し勇気が出てくる。
蒼司も家族も賛成してくれた。それが正しいと言う言葉ではなくて、悔いのないようにやりたいようにやりなさいと言ってくれた。
間違いに怯えてきた私にはなによりの言葉だった。
私の予想では、実際に裁判となったら阿津子はともかく、山下のほうが焦ると思う。皆が情報収集した結果、会社には不貞の結果、結婚相手が変わることが知られて、女子社員達から総スカンを食らっているらしい。この上裁判なんてなったら……と考えるのではないかと。
ちなみに、山下の母親は本当にうちの実家に突撃した、らしい。母親や近所のおばさま達に迎撃されたとか。喜美子がエスパーすぎて怖い。
怖いもの見たさという奴で、その時のことを母に尋ねる。
「また守銭奴だとか言ってきたの?」
『そんなことも言ってたかもしれないわねぇ。本当に来たと思ったらテンション上がっちゃって、皆に召集かけちゃったわよ!』
……テンション上がっちゃうのか。
そこからは私が何も聞いてないのに、事細かに話してくれた。
うちの光太郎の結婚を妨害するなと玄関先で大騒ぎしたらしく……。妨害したっていうか、されたのは私のほうではと言いたくなったけれど、話の腰を折らないよう心の中でツッコミを入れた。
あらかじめ示し合わせていた通り、近所のおばさま達で山下の不貞なのにどの面下げて、と吊し上げたのだそうだ……想像しただけで怖い。そして本当に強い、母とおばさま達。
『うちの娘を傷付けておいて乗り込んでくるなんて、あの親にしてあの子ありよ! 言いたいこと言えてすっきりしたけど』
「ご近所にも迷惑かけちゃったから、今度お詫びしないとだね」
『それはしておいたから大丈夫よ。昼ドラみたいで楽しかったって逆に感謝されたわよ』
ハハ、と渇いた笑いしか出てこない。
まぁ、会ったらお礼をしよう、うん。
『裁判をチラつかせれば、あっちも折れるでしょ』
「私もそう思っているんだけど、どうだろうね」
『次にまた来たら警察呼ぶと伝えておいたし、また会社に来るならストーカー被害を届けなさい』
「こてんぱんにしたいとは思うけど、藪蛇は避けたいかなぁ」
それが正しい手段なのは分かっているけれど、実際何かあったら被害に遭うのは自分や家族。それは嫌。
『一気に追い込めばそうなるかもしれないわね。でもそういうつもりじゃないんでしょ?』
おっしゃる通りで、さすが伊達に私の母親を何十年もやっていないな、と思う。
「破滅させたいんじゃなくて、終わりにしたいだけだからね」
もう私に関わらないでくれればいいだけだった。それがここまで悩まされるなんて思わなかった。
蒼司が言ってくれた言葉を思い出す。
──沢山傷付けられたし、自信を失ったかもしれない。でもな、自信は取り戻せる。
嫌な思いも沢山して、何度も呆れて、うんざりした。自分が無価値に思えて泣いた。あんな思い、もう二度としたくない。……ただ、その中にあって友人達、家族の温かさに触れられたことは幸せなことだった。皆がいなかったら打ちのめされて立ち上がれなかったと思う。
『ところで、刺繍君とはどうなの?』
母の中で蒼司は刺繍君に落ち着いたらしい。
「どうって、付き合っているけど?」
紗里から聞いているだろうに、わざわざ聞いてくるんだから。
『その先の話よ』
「前向きに検討中」
『あらぁ、凛子も大人になったのね』
「もうずっと前から大人ですー」
親からしたら子供はずっと幼い頃の印象を引きずるんだろうけれど。
「あの時は、もう誰ともそんな風に思えないだろうって思っていたのに、私、案外図太いみたい」
『なに言ってるのよ。誰だって幸せが目の前に現れたら掴みにいくもんでしょ。なんだったかしら、ほら、幸運の神様には後ろの毛しかないから掴めないって奴よ』
「後ろの髪なら掴めるでしょ」
『あらほんとね。じゃあ前髪ね』
幸運の神様には前髪しかないのは有名な話。この縁がたとえ不幸になったとしても、その時はその時だ。
人との関係は自分だけでは作れないと誰かが言っていた。どれだけ良好な関係を築きたいと努力しても、相手もそうでなければなりたたないのだと。
私との関係を育てていきたいと言ってくれた蒼司。私も同じ気持ちだ。
サークルでは特に親しくも不仲でもなかった。軽口を叩くだけの関係だった蒼司と、恋人になるなんて思いもしなかった。
未来が神様にしか見えないのなら、心配ばかりしても無駄なんだろう。
『どうせ何をしても後悔するんだから、やりたいことやって後悔なさい』
亀の甲より年の功というべきか、母の言葉には重みがあった。
「うん、そうする」
口にはしないけど、ありがとう、お母さん。




