002.母の勘? 女の勘?
あの二人が直接家に来たら面倒だから、実家に避難させてもらおうと思う。光太郎はうちの父が少し苦手なようだったから、来ることを躊躇うだろう。
電話をかけると母にすぐに繋がった。
『あら、凛子。どうしたの?』
「あの、ね、その、婚約が駄目になったの」
何でもないことのように話そうとしたのに、声がかすれた。そんな自分に、思っているよりもダメージを受けているのだと思い知らされる。
え? と電話の向こうで母が聞き返す。
「話すことは色々あるんだけど……とりあえず家にしばらく置かせてもらいたいんだけど、いい?」
『いいけど、いつから来るの?』
「その、出来たら今日の夜から……」
『……分かったわ。しばらくということは、荷物も持ってくるってことよね?』
「うん」
母の切り替えの早いところ、尊敬する。どういうことだと騒ぐ人だっているだろうと思う。
『持って行くものを選別しておいて。車を用意してお父さんとすぐに行くから』
「え? 迎えに来てくれるの?」
思いもよらない言葉に、間抜けな声を出してしまった。
『凛子がそんなことを言うぐらいだもの、よっぽどのことがあったんでしょう? 住所も分かっているし、前にも行ったことがあるから大丈夫よ。あぁ、そうそう、電話の電源切っておきなさい』
母親からの電話だと思って出たら光太郎と阿津子だった──ありえる話だ。それよりもやたら母親が手慣れている気がしてならない。
スマホの電源はさすがに切る気にはならなかったけど、音は消した。LINEに阿津子と光太郎からのチャットがひっきりなしに届いている。二人を通知オフにして、荷造りをする。
捨てていいものは置いていこう。光太郎にもらったものも、二人で選んだものも、どれだけ気に入っていても、もう要らない。手にして嬉しいと思う日は二度と来ない。
夢中になって選別していたら、インターホンが鳴った。光太郎と阿津子ではないと思うけど、そっと確認する。お父さんとお母さんの顔がモニターに映っていた。
通話ボタンを押す。
「お母さん」
『着いたわ。開けてちょうだい』
ロックを解除してから数分後、両親がやって来た。いかにも複雑な心境です、といった顔の父と違って、母はいつも通りだった。
「荷物の選別は終わったの?」
「悩むものもあるけど、必須なものはまとめたよ」
「積めるだけ持っていけばいいわ。戻ってから捨てればいいんだから」
お邪魔するわね、といって母が部屋に入る。手にはダンボールがある。未使用に見えるんだけど、何処で手に入れたんだろう。
「思った以上にまとまっているわね」
……それは、結婚に向けて荷物を整理していたから。まさかそれがこんな形で役に立つなんて思っていなかったけど。
「とりあえず入れていくわよ」
「うん、ありがとう」
三人で黙々と荷物をダンボールに詰める姿は、傍から見ると異様だったろうと思う。
さすが主婦というべきなのか、母は一番手際がよく、父は苦手そうだった。時折母が父の詰めかたを見て口や手を出していた。長年連れ添った夫婦から滲む空気感。……私も、父と母のようになるのだと思っていたんだけど、なり損ねてしまった。
「夜はうなぎを頼んだわよ」
あんなことがあったのに、うなぎ?!
驚く私に、母親は何てことなさそうに言う。
「まだ詳しく聞いていないけど、こんな時期に婚約が解消になるんだもの、どうせ女でしょ?」
女の勘なのか、年の功なのか分からないけれど、母の言葉は正しい。
頷く私を見て、父親は傷ましそうな視線を向けてくる。
「結婚する前で良かったわよ、そんな男と縁が切れるんだもの、うなぎを食べて祝わないとね」
その言葉に笑ってしまった。涙も出てきた。
「親不孝で、ごめんね」
「何が親不孝なもんですか、親不孝はあっちの息子でしょ」
言いながらも母の手は動き続けて、どんどん荷物がダンボールに詰め込まれていく。
「……そうなるのかな、子供が出来たみたいだから、むしろ喜ぶかもしれない。私はしばらく子供はいいと思っていたから」
顔合わせの時に、光太郎の母に仕事は続けるのかと問われた。続けると言っても反対はされなかったけど、残念そうな顔をされた。仕事を辞めて家庭に入り、子供を産め、そういうことだったのではないだろうか。
「もしあちらの親御さんが出てきたら言いなさい。こっちで対応するから」
「それなんだけど、弁護士さんに間に入ってもらおうかと思ってるの」
結婚間近に、妻となる人間の友人とそういった関係になるような男性と、友人の婚約者と関係を持って妊娠するような女性、倫理観のおかしな人間と直接やり合うのは、どう考えてもこちらのダメージが大きい。
厚かましくも友人なんだからと慰謝料の減額を言い出してくるような気もしてる。結婚前だからなんら問題ないでしょと言わんばかりの様子だったのだから。
なにより、あの二人の顔も見たくないし、声も聞きたくない。私の世界からなくしたい。なかったことにするのは無理でも、もうほんのわずかも煩わされたくない。
「そうね。こんな非常識なことをしてくるような相手だもの、そのほうが良いかもしれないわ」
「弁護士のツテはあるのか?」
首を振る。
早急に探さなくては。
「光太郎君とその相手は、自分の非を認めない可能性もあるのか?」
「うーん、非は認めざるをえないと思う。その、録音したから、やりとりを」
二人がぽかんとした顔をする。
「録音なんて、よく思いついたわね?」
「あー、それは先輩がそう言ってて」
「先輩?」
浮気された先輩が夫を問い詰めたところ、その場では認めたものの、次の時は認めなかったらしく。録音しておけば良かったと何度も言っていた。その話を聞いた時は自分には関係ないだろうと思っていた。でも、何かあった時のために、録音アプリは便利かもしれないと思って入れていた。
近頃連絡が取りにくくなっていた光太郎から、女の陰みたいなものを感じていた。その相談をしていたのは阿津子だった。よりによって浮気相手に相談していたなんて、自分のバカさ加減に笑ってしまう。それはそれとして、阿津子もどういう神経をしてるのかと思ってしまうけど。
……結局なんだかんだ言ったところで、光太郎が選んだのは私ではなく阿津子だということ。
私は、どこを間違えたんだろう──。