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私達はいつだって正解を探してる  作者: 黛ちまた


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016.覆水盆に返らず

 当然部屋は別なのだけど、部屋数に驚く。五部屋?! キッチンもやたら広いし。絶対高いのが分かるソファが鎮座するリビング。

 私にあてがわれたのはお客様用の部屋らしく、ベッドも設置されている。クローゼットに持ってきた荷物を詰め込んである。実家に戻ってからも、実はそれほど荷解きしていなかった。どちらにしろ実家からは出なくてはならない。必要なものだけ出していた、そんな感じだったから、こちらに持ってきたものは、私にとっての生活必需品。

 

 唯山が淹れてくれた紅茶の入ったカップを手に、思わず呟いてしまう。緑茶ベースの紅茶なんですって。とっても飲みやすい。香りも良い。紅茶の入っている缶は、私でもわかる有名な奴だった。

 

「……そぐわないなぁ……」

 

 今日から在宅勤務。何故か唯山も在宅。

 豆粥の十分粥に昆布と山椒の佃煮、塩麹、きゅうりとにんじんの糠漬け。食後にはほうじ茶。

 助けて、同居人が胃を攻めすぎる。

 

「そのうち慣れる」

 

 私の呟きを拾い上げて、唯山が答えてくる。

 

 ……慣れちゃいけない気がする。

 

「唯山の元パートナー、今頃後悔してそう」

 

 それにしても、だ。唯山の元パートナー、刺繍ぐらいでこの生活を捨てるの、すごいな。

 

「らしいな」

「えっ?」

「勢いで言ってしまったけど、本心じゃなかったの、と涙目で言われたけど、しらじらしくてな。あれだけ言っておいて」

「なんて言われたの?」

 

 そこまで言われるっていうか、これは聞けと言ってるんじゃないとか。要するに知りたい。

 

「『きもっ!! 刺繍?! ありえない! 生理的に無理!!』なんて言っておいて、勢いだったとか言われても信じないだろ?」


 声真似こそしていないものの、多分一言一句違わないだろう、自分に向けて吐かれた暴言を、口にする唯山は困ったように笑った。

 

「それは確かにしらじらしいね……」

 

 なにごとも、勢いだけに任せてはならないなと、認識を新たにした瞬間。

 

「幸せをつまらないことで逃すタイプなんだね、その人」

「嬉しいことを言ってくれるな、凛子」

「私も唯山も、合わない人と結婚しないで済んで、むしろ良かったよね」

 

 今現在大変な状況は継続しているけど、最近来ているという光太郎母からのメッセージの内容は、弁護士さんの一言で言えば、私はうちの光太郎ちゃんの幸せを邪魔する自己主張の強い守銭奴、だそうで。良かったじゃないですか、そんな人間と結婚せずに済んで、と弁護士さんに言ったら、本当にそうですよね、と電話の向こうで笑っていた。

 結婚していたら、嫁いびりされていた確率高め。

 

 美味しくて、ついつい飲んでしまうお茶。

 

「これ、なんていうお茶?」

「TWGのゲイシャ。美味しいよな、飲みやすいし」

 

 今度自分でも買ってみようかなと軽い気持ちで検索し、値段に恐れ慄く。私には軽々しく買えるシロモノじゃなかった。

 唯山と私、生活水準がかなり違う気がする。

 

「オレはパートナーに経済力を求めているわけじゃない」

 

 凄い良い顔で言ってるけど。

 

「やはり凛子はオレの理想的なうっかりな奴だ」

 

 うっとりした顔でぽんこつと朝から言われてしまった……泣いていいと思う。

 

「凛子、出社の日は合わせような。それで帰りに弁当箱を買いに行こう」

 

 漆がいいか、曲げわっぱがいいかと楽しそうに呟く唯山に、「楽しそうでなにより」と、つい言ってしまった。

 しまった、嫌味に取られたらと思った瞬間、唯山は笑顔で頷いた。

 

「凛子には申し訳ないけど、楽しくて頭がおかしくなりそうだ。出社の日に着るシャツにもアイロンかけるからな、遠慮はいらないぞ」

 

 ……心配の必要もないぐらいに、本心から楽しそう……。

 そんな唯山を見ていたら、なんだかおかしくなってきた。光太郎にはよく、私のうっかりしているところなんかを、気が抜けすぎだとか、段取りが悪いだとか言われていた。でも唯山は私のそんなところが良いという。理解はできない。光太郎が言うように、自分の不注意に反省したり、効率よくできない自分に落ち込んでいたのに。

 

「どうした?」

「朝、私がうっかりして洗面所で水をこぼした時、光太郎だったら呆れた顔をしただろうなって思っていたの。注意力が足りないぞ、って言われていたと思う」


 唯山が首をかしげる。

 

「あれぐらい、誰だってやるだろう?」

「いやいや、結構こぼしちゃったでしょ」

「凛子は自分で拭いたよな?」

 

 そうだよ、と頷く。まさか、人に拭かせたりなんてしない。

 

「凛子、そんなことは忘れろ。拭けばいいし、思いの外こぼしたらオレを呼んでくれれば一緒に拭く」

「わざわざ呼ぶの?」

 

 驚いて聞き返せば、唯山は頷いた。

 

「二人で拭いたほうが早いだろ? さっきも言ったが、それぐらいオレもやる。誰だってやるだろう。そんなことに文句をいうのは狭量というものだ」

 

 そう言って、唯山は私のカップに紅茶を注ぐ。

 

「唯山って心が広いんだね」

「広いわけじゃない。気になるものは気になるし、自己嫌悪にだってなる。ただ、気にはしないようにしている」

「そうなの?」

「子供の頃に趣味を幼馴染に笑われてさ、自分はおかしいのかと何度も思った。人の目が怖くてたまらない時もあったよ。でも、オレはオレだ。誰だって秘密はあるし、間違いもする。それだけだ」

 

 唯山の趣味である刺繍。確かに男性がやっているのは珍しいことだと思う。でもやってはいけないことではないと思う。刺繍が嗜みだった時代もある。でも、少なくとも現代には自由があるはずだ。犯罪ではないのだから、もっと誰もが自分の趣味を恥じずに堂々と言える、そんな世の中になればいい。

 もし刺繍が今も女性の嗜みなら、私は落ちこぼれも落ちこぼれ。嘲笑われていたのではないかな。

 

「私も唯山も、現代に生まれて良かったよ」

「そうだな」

 

 今はまだ色んなことが過渡期なのだとは思う。誰もが自由であり幸福、というのが理想なんだろうな。でも現実はそうじゃないし、自由は意外と困るところもあるらしい。決まっているからこその自由。決まっていない自由は、何を選べばいいのか分からない人には苦痛。

 要するに、その理想の世界はなんだかんだと遠い。でも、好きなものは好きなのだから仕方がない。まだ唯山のことで知っていることは多くないけれど、きっと趣味を断念しようとだってしたのじゃないかな。だけど、それでも止められなかった、なんてこともあったのかもしれない。

 

「今度見せてね、刺繍」

 

 唯山はばっと自分の口元を手で隠した。

 

「あまり喜ばせないでくれ。オレだけ夢中になりそうだ」

 

 その言葉にどきりとする。

 

 大袈裟に見えるぐらい喜ぶ唯山。ずっと隠してきて、結婚をしようと思えるパートナーと出会えたのに、自分にとって大事な趣味を"生理的に無理"と言われたなら、百年の恋も冷めるというもの。覆水盆に返らずとは、よく言ったものだと思う。相手を想う気持ちは木っ端微塵になったことだろう。

 私にとっても、唯山にとっても。光太郎や阿津子、唯山の元パートナーにとっても。

 手で掬うしかない幸せは、簡単に指と指の隙間からこぼれおちるのだろうな。どれだけ気をつけていても。

 一瞬で。

 

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