010.進むことは痛みを少しずつ捨てていくこと
弁護士事務所での話し合いは、思うよりもあっさりと進んでいった。拍子抜けしている私の顔を見て、担当になってくれた女性弁護士はほんの少し困ったような笑顔を見せた。その隣の女性はひたすらキーボードを入力している。助手なのだろうな。
「表現はよろしくありませんが、緑川様の件は大変分かりやすく、対応がしやすい案件といえます」
面倒だと言われるよりは良いことなのに、複雑な気持ちになってしまうのは仕方のないことだと思う。隣に座る母と紗里はいつも通りというか、怒りや呆れ、そういった感情も浮かんでいない。場慣れしているのかと聞きたいほどの落ち着きだ。でも、自分のことじゃなければ私も同じように澄ました顔で座っていただろうな。
「結納も済み、お相手の女性は親交のある方で、婚約関係を認識の上での不貞です。妊娠もされているということですから、言い逃れも不可能ですし、緑川様が録音もしてくださっていたので、こちらとしましては粛々と慰謝料を請求させていただくのみです。結婚式を中止にすれば元婚約者の方は職場の方にあれこれ詮索されることは間違いありませんし、もし新婦を変更して式を挙げても同様かと。なにしろ招待状に書かれた新婦の名前が異なりますので」
母と紗里が頷く。遅れて私も頷いた。
弁護士の方が言うように、光太郎も阿津子も、悪手も悪手で何故こんなことをしたのかと違う意味で質問したいぐらいだ。
「あちらとしては緑川様にもご納得の上、穏便に結婚相手が変わったということになさるおつもりでしょう。その点について緑川様のご意向を確認させていただけますでしょうか」
光太郎と阿津子の社会的な死を望むか、慰謝料をもらってさっさと忘れるか、そう聞きたいのだろう。
「……早く忘れたいというのが、正直なところです。元婚約者のことを想っていなかったわけではありませんが、相手が相手で、その……昔から異性関連でトラブルを起こしていたことを知っていたにも関わらず、こんなことになっているので」
すらすらと話せず、少し辿々しい私の話に、絶妙な相槌を打つ弁護士さんに、さすがだなぁ、と感心してしまう。いつもこんな話を聞かされて、内心うんざりしているかもしれないのに、そんな態度をおくびにも出さず、こちらの気持ちに寄り添うような反応をしてくれる。
「慰謝料の減額はお認めになりますか?」
「いえ」
そこは大人なのだからちゃんとしろと言いたい。どうせこうなるならもっと早くに行動に移してくれていれば、こちらにだってやりようはあったのだから。
「一般的な慰謝料を一括でお支払いいただければ、こちらとしては何も言うことはありません。どちらが多く負担しても構いません。お金に名前はありませんし、苦しめることにも興味はないのです」
「可及的速やかに収束を望まれるということですね。もしそれが叶わない場合の交渉は私にご一任いただけますか?」
任せてもらえるかと聞いた時の笑顔が、それはそれは良い笑顔で、あ、この人こういうの好きというか得意なんだろうなと思った。
「お願いできるならこちらとしても大変助かります。二度と関わりたくないので、いただけるものをいただいて終わらせたいんです」
紗里と話して気持ちに変化があった。新しい恋だのなんだのはさておいて、前向きに生きていこうと思えたところなのだ。煩わしいことには一切関わりたくない。
「かしこまりました」
こうして弁護士への依頼は済み、その足で新しいスマホを契約した。
家族や一部の友人にのみ新しい連絡先を伝えた。信用していないとかではなくて、何がきっかけで阿津子達に新しい連絡先を知られるか分からなかったから。ちなみにこれは紗里の助言。念には念を入れたほうがいいと二度も言われ、大袈裟だとは思いつつも言う通りにした。
心から私のことを思って言ってくれている人の助言は聞いたほうがいいし、私は抜けているらしいから。きっと私が知らないことや気付いてないことがあってそう言ってくれているのだと思う。
「お姉、刺繍男子に連絡先教えないの?」
妹の中で唯山のあだ名は刺繍男子になった。紗里にその話をしたところ、目をまん丸くして凄い! と心から感心していた。紗里が男性が刺繍?と言うような子じゃなくてよかった。さすが私の可愛い妹。
「唯山に? 別に必要な」
必要ない、と言っている瞬間に、スマホが鳴った。
喜美子とまさかの唯山からだった。喜美子からは唯山に連絡先教えたから!との事後報告と、唯山からはこれからよろしく、という謎の挨拶。
微妙な顔をしてスマホを見ていたのだろう。紗里が私の手の中のスマホを覗き込み、「さすが喜美子先輩、お姉のことよく分かってるね」と感心していた。
「……私の気持ちを置いてけぼりにされている気がする」
「お姉よりお姉の気持ちが分かってるからこうなってるんでしょ」
本人より気持ちが分かるなんて、そんなことあるわけないと言おうとして、いや、そんなことあるかもしれないと思い直す。
私が酷いことをされた時にも、私より先に喜美子は私の怒りだとか痛みに気付いてくれていた。自分の気持ちを飲み込むというか、認識するのにワンクッション必要とする。自分の感情に正面から向き合うのが、子供の頃から苦手で。親から抑えつけられて育ったわけではないから、そういう性格なのだと思う。
……分かってるんだけど、自分、不器用すぎない?
「そうなんだけど、受け入れる時間がちょっとほしい」
私のことを思って言ってくれていることも、行動してくれていることも分かってるから、止めてくれとは言わないんだけど。
紗里は笑って、「それは確かに」と言った。
喜美子には私のことを考えてくれての行動だとは分かっているけど、ほどほどでお願いしますと送っておいた。私のこともいいけど、喜美子自身は忙しい身なんだから、自分のことに時間や気持ちを使ったほうがいいと思う。
唯山には、オレ様は苦手なので、よろしくお願いしますと送ったらすぐに返事が来た。
『心得ておりますが、口説く余地はお許しいただきたく』
妙に畏まった返事に笑ってしまう。
『アイツらのことで何かあったら遠慮せずに連絡して。不安だとか、遭遇したとか、何でもいいから』
口説くつもりだからといって、こんなに親身になってくれるものだろうかと、唯山のメッセージを見つめていたら、紗里が「これは本気だね!」と若干興奮した口調で言った。
「男子って、遊び相手と本気相手には送る内容が天と地ほどに違うから」
本気。婚約していた光太郎は私に対して本気だったはずだけど、親身に感じるようなメッセージをもらったことってあんまりなかったような気がする。
つまり、妥協して結婚してやるか、程度に思われていたということなんだろうな。
前ほど胸は痛まなかったけど、なんだか情けない気持ちになった。
「お姉はこれから幸せになるの!」
断言する妹に、笑顔で頷いた。
「頑張る」




