第八十九話 姉の後ろに、姉の隣に
「姉さんは安静にしてれば大丈夫だって、お医者様も言ってくれたから。大丈夫だよ」
「……ん…」
微かな声は返ってきたが、それ以上は何も発しない。
照真も無理に話をする事はなく、苦でもない沈黙を保つ。が、穂華にとっては苦しくて仕方がない。身内が自分の所為で傷ついたのに、照真は何も言わないから。
グッと唇を噛んだ。握った拳が痛かった。呼吸がしづらくなった。
「…穂華ちゃん? 気分悪い? もしそうなら少し休んで……」
「……め…い…」
「…?」
心配そうに見つめてくれる視線も、俯く穂華には見えない。
姉が一緒なら。そう思った。きっと自分よりも先に口火を切って謝ってくれたから。
でも。姉がいなくて良かった。総十郎がいなくて良かった。今の自分を見ているのが照真だけで良かった。
自分を責める事が出来る人だから。
「ごめんっ…なさいっ……! ごめんなさいっ! 私が外っ…出ちゃっ…。だかっ咲光さっ……ごめんなさいっ…!」
いくらでも、自分を責めてくれていい。だって一番辛いのは、弟である照真だから。
「ごめんなさいっ! ごめっ…なさっ…!」
泣いちゃいけない。なのに零れてくるものが止められない。だから必死に拭った。
そうしていると、そっと温かい手がその手を掴んでくれた。
「そんなに擦ったら駄目だよ」
「…………」
「ちょっと待って」
そう言うと、照真は懐から手巾を取り出し、それを咲光の頭元に置いてある桶の水で濡らした。
冷やしたそれを穂華に差し出す。
「はい。これで冷やして」
「…………」
あまりにも自然にしてくれる照真に、穂華は手渡された濡れた手巾を見つめた。
「…な……で…?」
「穂華ちゃんに責任はないと思ってるし、姉さんもそう言うと思うよ」
そんなはずない。そう思うってぎゅっと手巾を握る穂華に、照真は変わらず優しく告げた。
「それに、穂華ちゃんがすごく責任感じてるっていうのは、痛いくらい伝わってくるから」
「でも……」
「それに、俺も姉さんと警護するって手もあったのにしなかった。これは俺の判断の所為」
「…………」
「姉さんは大丈夫。だからそれ以上謝らなくていい。変わりに信じてて」
ね、と笑う照真に、穂華は呆気にとられると同時に心が晴れた気がした。謝罪の気持ちを忘れてはいけないと思っている。けれど。
(もう、照真さんは次を、前を見てる…。凄い…凄いなあ…)
不安はきっとあるはずなのに。それでも信じてる。
その笑顔の後ろに一体どれだけの想いがあるの? どうしてそんな風に思えるの?
(いいな……)
もっと二人の事を知りたいな、と思った。そんな思いも表情も隠すように、穂華はもらった手巾で目元を押さえた。
長いような短いような時間、照真はただそっと寄り添い続けた。
やがて落ち着いてきた穂華とゆっくりと話を始める。
「今日は一人で来たの?」
「ううん……お姉ちゃんも一緒。今は神来社さんのお手伝いしてる」
「そっか」
昨夜、穂華を連れて戻った時の、自分を見つめていた智世の表情が脳裏をよぎる。
それでもそれは口にせず、照真は隣を見た。
「穂華ちゃんと智世さんは本当に仲良いね」
「うん。うちはお兄ちゃんもお姉ちゃんも仲良いの。優しいし……ちょっと厳しいけど」
最後はぼそりとこぼれた言葉に思わず照真は笑った。
「でも、叱ってくれるのは穂華ちゃんの事大事だからだよ」
「そう、かなぁ……。照真さんは咲光さんに叱られた事あるの?」
「あるよ。姉さんは声を大きくして叱らないけど、ちゃんとはっきり言ってくれるから。怒るのは、一歩間違えれば大怪我するような、危ない時にガッと怒られた事はあるけど…」
「……何したの?」
「………………子供の頃に、樹の枝に上ってあやうく落ちそうになった」
「えぇ。照真さんそんな事したの?」
嘘ぉと言いたげな穂華の表情に、照真はツツッと視線を逸らした。
子供の頃の話。まだ物心ついてないような頃だが、今でも怒られたことははっきりと覚えている。庭にある桃の木に登り、降りられなくなって落ちそうになった。父が助けてくれなければ大怪我をしていたか、命に関わっていたかもしれない。あの時は母と一緒になった姉にしこたま怒られた。
(たぶん、その時からだ。姉さんの言葉をちゃんと守るようになったのは…)
自分の為に言ってくれているのだと、はっきりと分かったから。
照真の話を聞いて、穂華も自分の兄や姉を想う。
「でも、お兄ちゃんもお姉ちゃんも怒るけど、その時にビシッて短く言うだけで。後からは何も言わないの。だから私も嫌じゃないって思うよ」
「いいお兄さんとお姉さんだね」
「うん。それに、同じくらい褒めてくれるのは子供の頃からずっと変わらなくて」
嬉しそうに笑みを浮かべる穂華に、照真も兄弟の仲の良さを想う。
兄や姉も妹をとてもとても大切に想ってくれている。そして穂華もそれをちゃんと受け取っている。
「なんだ。楽しそうだな」
「あ、神来社さん。智世さん」
そこへ二人が戻って来た。
智世の謝罪も照真は「気にしないで」と優しく包み返した。それからは楽しい話に花が咲き、智世と穂華は昼近くに家へと帰って行った。




