第八十七話 引きづられない、信じてるから
「ありがとうございます。でも、このまま戻ると、姉に叱られますので」
「……照真さん」
何かあったのだ。それは何となく分かる。なのに照真は…。
智世はキュッと唇を引き結ぶと、少しだけ強くはっきりと告げた。
「では、後三十分だけお願いします。穂華はたぶんこのまま寝てしまうので、私ももう休みます」
「分かりました。では、三十分後には声をかけず、俺は戻ります」
「はい」
照真の姿はすぐに消えた。それを見送り、智世は震えそうになる体を叱咤して、穂華を連れて部屋へ戻った。
三十分が経ち、照真は静かに屋敷を後にした。幸いにも、一連の事は家人にも気づかれていない。
屋根から屋根へ跳び、照真は神社へ急ぐ。それでも、不思議と三十分前程心は焦ってはいなかった。
(姉さんと二人だけだったら、すぐにでも飛んで行ったかも。でも今は、神来社さんが居てくれるから)
今もきっと咲光の傍に付き添ってくれているだろうから。
総十郎の存在がとても頼もしくて心強い。ありがたいような泣きたいような気持ちになった。
血を流していた咲光の姿が脳裏をよぎる
(でもさ、やっぱり怖いよ。覚悟はしていても、やっぱり……)
もう失いたくないのに。咲光を見て、妖と戦うのとは全く違う恐怖に襲われた。
そこまで考え照真はブルブルと頭を振った。
(悪い想いは悪い方へ引きづられる原因! 大丈夫大丈夫! 俺が信じなくてどうする!)
自分にそう言い聞かせ、照真は神社へ急いだ。
♦♦
神社へ一足先に戻った総十郎は、咲光を抱えたまま神主の部屋へ飛び込んだ。
夜遅い事を詫び、急いで医者を呼ぶよう頼むと、咲光を見て顔色を変えた神主はすぐさま動いてくれた。
医者が到着するまで、総十郎は部屋に咲光をうつ伏せに寝かせると、冷えた体を温めるために手拭いで水気を拭いた。
「悪い、咲光」
無礼を承知ですぐに夜着に着替えさせ、傷に触らないよう布団をかけ身体を温めるようにする。同時に暖を取れるよう炭をくべる。
咲光は意識を失っているが、その表情は苦し気だ。髪を除けて見える傷口からは少し血が出ている。
「咲光、頼む。頑張ってくれ…!」
大丈夫。傷は深くない。ただ少し開いてしまっている。
ずっと腕に感じていた冷えた体。苦し気な表情。悪い気を払うように総十郎は首を振った。
「大丈夫。お前は大丈夫だ」
悪い気は良くないものを引き寄せる。人の手でどうにかできる事態でなくても、心が堕ちてはいけない。
だから総十郎は心に想い続ける。信じ続ける。それが時には良い事を引き寄せる力になると知っているから。
そこへ、慌てた神主と医者が飛び込んできた。すぐに医者と交代すれば処置が始められる。医術に関して総十郎が出来る事はないので、医者の手伝いに回った。
「神来社さん! 姉さんは…!」
「処置中だ。大丈夫」
それから少し、戻って来た照真はすぐに総十郎と共に駆け回った。
「照真。血の付いた布は焼き捨てるからまとめといてくれ」
「はい。でもこれ、焼くんですね」
「血はそのまま捨てると良くない。連想させる負が強いからな。浄化の意味を込めて焼く」
「成程」
小さな焚き火を作ってすぐに焼き捨てる総十郎。えっさえっさと手伝いに奔走する照真。
焚き火の灯りを前に、総十郎は照真を見た。出会ったばかりの頃は畑の傍で蹲っていた姿が今はどうか。
朝日が昇る頃、処置を終えた医者と神主が部屋から出て来た。それに気づいた照真はすぐに駆け寄る。不安で仕方ないという表情は、その後ろにいる総十郎も同じだった。
「先生。姉さんは……!」
「安心せい。処置は上手くいった。後は傷がこれ以上広がらんように絶対安静じゃ。よう持ちこたえた。立派な姉さんじゃ」
「っ! ありがとうございますっ…!」
何かあればすぐに来るよう念押しし、医者はひとまず帰って行った。同じように何かあればすぐにと念押しし、神主も戻っていく。残された照真と総十郎はそっと部屋の扉を開けた。
空気が澱まず、咲光に直接風が当たらないよう、少しだけ部屋の扉や窓を開け二人は咲光を見つめた。
顔色も随分良くなっている。表情も穏やかで呼吸も落ち着いている。
「……っ、はぁー…っ」
照真と総十郎、揃って安堵の息が深く長く零れて床に座り込んだ。目許を覆ったり、天井を仰いだり、二人もやっと緊張から解放された。
「よかっ……本当に……」
「あぁ…。照真。少し休め。ずっと緊張してただろ?」
「神来社さんだって…。先に少し休んでください。俺なら…」
「これくらいの徹夜は慣れてる。ほら」
そう言って、照真の背を押した。そのぬくもりとどこか姉に似た空気に、照真は咲光が落ち着いているのを見て眉を下げた。
きっと総十郎は先に休まないだろうなと姉との経験から分かる。それが少しだけ嬉しいような悔しいような気がした。
「分かりました。先に少し休みます」
「あぁ」
言葉に甘え、照真が隣室へ入って行った。それを見送り総十郎は咲光を見つめた。
うつ伏せにされ、布団の代わりに総十郎の羽織をかけている。
そっとその頬に触れれば確かに温もりがあって、総十郎は優しくも泣きそうな表情で咲光を見つめていた。




