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縁と扉と妖奇譚  作者: 秋月
第六章 天城編

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第八十五話 痛みよりも

 眼前のあやかしを前に、咲光さくやはフッと息を吐いた。


 ヒレの針は労せず斬ることが出来たが、スイスイと自在に逃げる動きは斬りつけてもかわされる。厄介だ。もう何度目か分からないが、速く鋭く刃を振るう。

 と、妖がえた。魚の姿からは似つかない高い声。それに呼応するように、バキバキッと音をたて、鱗が舞い上がった。


 フッと息を呑む。宙に舞い上がった鱗は、ブンッと勢いをつけて飛んで来る。襲い来る鱗の嵐を、咲光は刀で弾き、避けると繰り返す。



(ただの鱗じゃない…! 刃のようになってる…!)



 しかも針よりも硬度があり切り捨てるのが難しい。


 距離をとった時にはいくつか裂傷が出来ていた。が、そんな事は気にせずフッと息を吐く。



(突き刺さるか、大きく斬られない限りは…深い傷を与えてくるような攻撃じゃない)



 だが、無数に飛ぶ鱗を前に、一枚だけに対処できない以上、その危険が大きい事は解っている。



(大丈夫。一人でも出来る)



 今まで何度も「頑張る」と言っていた照真。その想いは自分も同じなのだから。


 飛び回った鱗が妖の身体へと戻る。その瞬間、咲光が地を蹴った。と、妖がぷくりと頬を膨らませた。


 何か来る――

 直感と同時に横へ跳び避けた。元居た場所には、噴き出された大量の水がかかる。



「!」



 打ち付けられた水は水たまりになってしまう。



(あれだけの水を被ると、殴られる衝撃と変わらないかも…)



 距離を詰めて刀を振るうが、ひらりひらりと躱される。切っ先が鱗にこすれれば、身震いするように距離を開けた。

 今度は突進してくる。避ける動作を見せない咲光に、体当たりをしてくるかと思った妖が、突然姿を消した。



「!?」



 慌てて周囲を見るが姿はない。一瞬逃げられたかと思うが、感じた妖気に目を瞠り、振り返った。

 途端、水の噴出に襲われた。刀を前にしていてもその勢いは凄まじく、身体ごと押し返される。



「げほっ」



 少し飲んでしまった水を吐き出す。水から守るように狭めた視界の向こうには、川の上に浮く妖の姿があった。



(いつの間に…?)



 バシャッと川へ飛び込めば、今度は水たまりから姿を見せた。

 その動きに、咲光はすぐに理解した。



(水と水の間を移動できる。それで町中水のある所に……。雑鬼ざっき達が行ってた突然消えるっていうのは、こういう事だったんんだ)



 妖に近づかない雑鬼達には、摩訶不思議な出来事に映ったのだろう。


 夜の空気に少し肌寒さを感じながら、咲光はグッと刀を握り直す。そんなしぶとい咲光に、妖がバキバキと鱗を立たせる。



「咲光さん……?」


「!?」



 聞こえた小さな声。家の扉を開け、外へ出ている穂華ほのか。その目が不安を乗せている。



(っ……マズイ!)



 智世さよは恐らく、自分が何かを察して飛び出したと分かっている。この妖気は智世も感じているはず。だが穂華は、その時その場に居なかったのだ。

 胸中が焦りで満たされる咲光の前で、魚の鱗が舞い上がる。



「逃げて!」



 咲光の引き攣った怒声に、穂華がビクリと肩を跳ねさせた。


 自分に襲い来る鱗を捌く中、別の鱗が穂華へ襲いかかる。それが視界に入ると体が動く。しかし、鱗が邪魔をする。



(間に合え……!)



 自分に襲い来る鱗より、穂華を襲う鱗しか視えていなかった。


 だから必死に手を伸ばす。驚きと本能的な恐怖から身の竦んでいる穂華を、腕の中に包み込む。

 背から感じた、今まで感じた事のないような痛みで意識が飛んでしまいそうになっても、その腕だけは絶対に解かなかった。






♢♢




 台所へ水を飲みに行ったら、外から物音がした。今はお姉ちゃんの心労が大きいから、また何かあったのかと思って、外を覗いた。何かがお姉ちゃんの所に来たのかもしれない。そうなら何とかしないと。そう思った。

 だけど、見えたのは、刀を振ってる咲光さんの姿だけ。なんだかとても真剣な顔をしていて、刀が何かを弾いてるみたいに音をたてていた。


 咲光さんが何をしてるのかなんて分からない。でも、照真しょうまさんも神来社からいとさんも、何か視えないものに関わる事をしてる。

 だから、今もそうなのかなと思った。


 お姉ちゃんと同じモノが視えてる人達。私も、同じモノが視たかった。だから思わず一歩足が出て、すぐに後悔した。


 外の空気が、昼間とは全然違う全く知らない怖いモノだったから。重たくて、知らない内に呼吸がしづらくなって、すごく恐くて。

 だから思わず、咲光さんを呼んでしまった。


 咲光さんは驚いて、青い顔をした。「逃げて」と言われても、私の身体は動かなかった。足が動かなかった。


 そんな私に走って来た咲光さんの腕が、私を包み込んでくれる。あったかい腕の中はホッと出来たのに、突然背中から噴き出た真っ赤な血に、私の身体は力が抜けて崩れ落ちた。




♢♢






 へろへろと座り込んだ穂華は、それでも自分を放さない咲光の腕をぎゅっと掴んだ。



「…さ……さく…」



 喉の奥が熱くて、絡まって。言葉が震えて、出てこない。泣きたいわけじゃないのに涙がボロボロ溢れてくる。喉が熱くて心臓だってうるさいのに、身体が冷えていく。


 穂華の震えに、咲光の瞼が震えるとゆっくり開かれ、身を起こした。


 背の痛みより。冷えていく体より。今は――



「……大丈夫?」



 目の前で涙を溢れさせているこの子に、安心を――







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