第七十六話 風と少年
天城穂華は、ムッと頬を膨らませていた。その後ろに少し離れて姉が立っている。自分を待ってくれているのだ。
それが分かっているから、穂華は急いで風にさらわれた手巾を取ろうとしているのに、するりとすり抜けて一向に掴めない。
また、するりとすり抜ける。段々腹が立って来た。
そんな穂華の内情を察したように、姉の智世からの声が飛んで来る。
「穂華。もういいよ」
「でもっ……!」
思わず言い返しそうになったのをグッと堪えた。
バッと智世を振り返れば、困ったような泣きそうな顔をしていた。そんな表情を見て穂華は悔しそうに手巾を見た。風に舞っている姉の手巾。淡い水の色をしたそれは、姉がとても気に入っているの物なのに。
穂華はまた意地になって手巾を追いかけた。風が渦巻いているのか、手巾はあちこちへと逃げて、穂華から遠ざかっていく。
「もういいよ。帰ろう? 最近、町は危ないでしょう?」
「そうだけどっ…! あれはお姉ちゃんのお気に入り……」
「いいのよ」
三度智世に言われ、穂華はシュンと眉を下げた。
姉の元へ戻ろうとした時、不意にビュッと強い風を受けた。思わずギュッと目を瞑る。その風が収まった時、すぐ傍から声が聞こえた。
「大丈夫?」
知らない男の声。穂華は顔を上げその声の主を見た。
自分と年の変わらなさそうな少年だった。自分を見る目はあたたかで優しさを見せる。その少年はそっと穂華に手を出した。その手に握られているのは、姉の手巾。
「これは君の物?」
「……ううん。お姉ちゃんの」
「お姉さんはあちらにいる人?」
少年の視線が動く。その先には姉と、その傍に見知らぬ女性がいた。少年と同じように葛籠の荷物と細長い袋を背負っている。
旅人だろうかと二人を見ながら、穂華は「うん」と頷いた。その頷きに少年は笑みを浮かべる。
「じゃあ、お姉さんに返そうか」
促され、穂華は智世の元へ足を向けた。
照真が、手巾を手に逃げ回っていた雑鬼達から手巾を取り上げると同時に、咲光は智世に挨拶をした。
「もう大丈夫ですよ」
突然の旅人に驚いた智世だが、咲光の言葉に目を瞠った。
その視線につられて見れば、こちらへ向かって来る穂華と少年の姿がある。その後ろでは、小さくて妙な生き物の集団が二組。自分の手巾を取り上げて面白がっていた集団を、少年と共にやって来た一団が追い返している。
無意識にぎゅっと胸元で強く着物を握る。それを咲光は横目に見つめた。
『俺達の事はっきり視えてるんだ。でも、視えてるから、他の奴らが悪さするんだ。だから見つけたら追っ払ってやるんだ』
この場に咲光と照真を案内した雑鬼はそう言っていた。その言葉に二人は驚いた。
なぜ、わざわざ助けるのか。そう思った疑問を咲光は正直に雑鬼にぶつけた。すると、少しバツが悪そうに雑鬼は教えてくれた。
『その子が子供の頃、俺ら、池で溺れてたトコ、助けてもらったんだ』
『人間の暮らしで礼は出来ないからな。だからせめて、他の雑鬼の悪戯は止めてやろうと思って』
そう言ったのは、物置小屋に駆け込んできた雑鬼に、いち早く駆け寄った二匹。
その言葉を聞いた時の事を思い出していると、すぐに照真と少女が戻って来た。雑鬼達は悪戯の一団を追っ払い、こちらを一瞥するとタタッとねぐらに戻って行った。
ちらりとそれを確認する咲光の前で、照真が智世に手巾を差し出した。
「これ、お返しします」
「ありがとうございます。……風に、さらわれてしまって」
「……いえ。取れて良かったです」
手巾は照真の手から智世の手に返る。
それを見ていた穂華の頬が少し膨れた。自分はとてもとても苦労してそれでも取れなかったのに、急にやって来た少年はいともたやすく取ってしまった。少し悔しそうな拗ねているような穂華に気付き、咲光は微笑ましさを感じた。
突然やって来た不思議な二人を、智世は見つめた。
凄い速さでやって来て、妙な生き物から手巾を取り返した少年。そして女性が言った言葉。
『もう大丈夫ですよ』
ぎゅっと手巾を握りしめると、智世は深々と頭を下げた。
「本当に…ありがとうございました。私は天城智世と申します。この子は妹の穂華です」
「こんにちは。姉の手巾取ってくれて、ありがとうございました」
「どういたしまして。俺は村雨照真です」
「私は、姉の咲光です。今は別行動をしているもう一人の仲間と旅をしています」
互いにぺこりと挨拶をし合う。咲光の挨拶に、先程まで少し拗ねていた穂華がパッと表情を明るくさせた。
「旅!? すごいっ。どんな所に行ったんですか?」
「こら穂華」
「いえいえ。そうだなぁ……。北の町へ行ったり、国の中心に近い町にも行ったよ」
「へぇ~! いいなあ!」
穂華の反応に微笑ましさと純粋さを感じながら、照真は少しだけ話をする。と、穂華はそれだけでも目を輝かせた。
少し困ったように「すみません」と咲光に頭を下げる智世にも、咲光は「いえいえ」と手を振った。
「あの、何かお礼をさせていただけませんか?」
智世の申し出に、咲光と照真は顔を見合わせた。
智世は妖が視えている。そして今、この町で視えるただ独りになっている。雑鬼達から得た情報が頭を駆けていく。それを整理し、咲光は智世をまっすぐ見つめた。
あたたかな日差しが広場に注がれている。吹いている風は穏やかなのに、少しだけ張りつめているようだった。
「では、少し教えて頂きたい事があるのですが……」
咲光の言葉に、智世と穂華は首を傾げた。




