第三十三話 改めて感謝を
日が落ちれば宿に出入りする人も少なくなる。宿に泊まる人々は、多くが部屋で食事をしたり、風呂に入ったりと、各々静かな時を過ごしていた。
照真と菅原も中庭を通った先にある湯殿で疲れを癒していた。
思わず「極楽…」とこぼれる言葉に互いが笑う。露天風呂ではないが、それでも充分な広さがあり、実に快適だ。
「菅原さんは、この仕事長いの?」
「いえ。まだ一年です」
「そうなの?」
そう見えず照真は驚いた。が、菅原は自分と年も変わらなさそうなのですぐ納得した。
今度は菅原が首を傾げ照真を見る。他に客は居ないので、気にせず会話をする事が出来る。
「照真さんは長いんですか?」
「ううんっ。俺はこの春に試しに受かったばかり」
ポタリと水音が浴室内に反響する。一瞬の沈黙の中、菅原は目を点にした。
「……入所の試しは、本来冬に行なわれるんですが…特例だったんですか?」
「そうなの!?」
初耳に照真は目を剥いた。驚きで湯がバシャッと音をたてた。
入所の試しは、神来社総十郎からいつ行うと言われただけで、本来の時期があるなんて全く知らなかった。
驚きで固まる照真の前で、菅原は少し考えるように視線を下げると、照真を見た。
「照真さん。確か神来社さんとお知り合い…でしたよね?」
「うん」
「…ちなみに、万所の組織構成についてはご存知ですか?」
「…知りません」
驚いていた顔は、次第にシュンと落ち込むように代わり、身を小さくさせてしまう。そんな照真を見て菅原は成程と胸の内で納得した。
(まぁ、鳴神さんは話す素振りなかったし、俺が言う事でもないかな)
これから万所の中にいれば分かるようになる。わざわざここで言う事でもないだろう。
そう結論付け、照真を見る。
「後で、咲光さんも一緒にお話しますね」
「お願いします」
ぺこりと頭を下げる照真に菅原もクスリと笑った。
一足先にお風呂から上がった咲光は、二階の廊下を歩いていた。
鳴神が招いてくれた部屋の前。硝子の窓を開けて中庭を眺めている鳴神の姿を見て、不意に足が止まった。風呂上りなのか、浴衣姿で首に手拭いをかけている。
足が止まった咲光だったが、すぐに鳴神に駆け寄ろうと一歩を踏み出した。
「ミャー」
「……?」
どこからか猫の鳴き声が聞こえた気がして足が止まった。思わず周りを見るが当然姿はない。
宿の中、それも客室の並ぶ二階にいるわけがないだろうと思う咲光の耳に、鳴神の声が届く。
「咲光ちゃん。どうした?」
「いえ…。今、猫の鳴き声がした気がして…」
「そうか」
言いながら鳴神を見る。しかし、鳴神はそれ以上何も言わない。その反応から気の所為かと思いながら、咲光は鳴神の元へ駆け寄った。
「照真と菅原さんはまだお風呂に?」
「あぁ。話でもしてんじゃねえかな」
クスクスと喉を震わせる鳴神に、咲光も同意の笑みを浮かべた。
旅に出てからは、万所の同僚に会う事もなかった。こうして出会えた仲間が、照真にとって良き友人になってくれれば嬉しい。
「鳴神さん」
「ん?」
「宿の部屋、相部屋にしてくださってありがとうございました。まだお礼、言っていませんでしたよね」
ニコリと笑みを浮かべた咲光に、鳴神は驚いたように瞬いた。
宿に来て直後、呆気に取られていた二人を思い出して思わず笑う。あれは面白かった。そうさせたのは自分だけれど。
「いや。いいってことよ」
「鳴神さん。女将さん達とお知り合いなんですか? 融通利いていただけましたけど…」
「まぁ、昔この宿でちょっと仕事をな。それ以来何かと良くしてくれてるんだ」
「そうだったんですか」
鳴神に対し丁寧に接していた女将さんと旦那さん。鳴神も、恩着せがましい事はなく、腰を低く接している。
そんな鳴神を見つめ、咲光は胸があたたかくなるのを感じた。
「あ、姉さん。鳴神さん。もう上がってたんだ」
「おー、照真。小太郎」
階段を上がって来た照真と菅原へ視線を向け、鳴神はひらりと手を振った。
「鳴神さんが早いのも珍しいですね。お風呂好きなのに」
「仕事片づけたらゆっくりするわ」
「あ、照真。髪ちゃんと拭いて」
照真が首にかけている手拭いを取ると、頭に乗せてわしゃわしゃと動かす。
「わっ。自分でやるよ、姉さん」
「もう。冷えちゃうでしょ」
小恥ずかしそうながらも笑みを浮かべる弟と、手を離しても優し気な表情で弟を見つめる姉。そんな二人を見つめ、鳴神も自然と柔らかな笑みを浮かべた。




