第二十三話 闇の中に
障子を開ければ月明かりが差し込む。見えた光景に咲光と照真は息を呑んだ。
閉め切られていた部屋は、空気の流れが変わり埃が舞う。部屋の中央には四人分の膳があるが、その全てが倒れ、乗っていた椀も四方に散らばっている。腐敗した料理が異臭を漂わせていた。
そして何より、壁や床に飛び散った赤黒い液体と、同じく壁や床に刻まれた傷跡。鋭い爪で付けたような無数の跡は、部屋中に刻まれていた。
「…これ、動物じゃないな…」
「うん。それに、とんでもなく空気が澱んでる…」
照真は着物の袖で鼻を覆いながら、ゆっくり室内へ入った。床に散らばる物を踏まないように避けながら、その傷を近くで見る。
「五本線…。それに長さも、人とそう変わらないみたいだ」
「でも、人の爪はここまで鋭くない」
「この液体…やっぱり血みたいだ」
「この家の人のもの…かな」
神妙に頷き合い、二人は他の家も見て回る事にした。
扉や障子を開け、家の中を確認する。どの家にも同じような傷跡が残されていた。同様に血の跡も。
数軒確認し、二人は外で険しい表情で話し合う。
「人や動物の仕業じゃない。恐らく妖の仕業だ」
「村全体の空気が澱んでる。それに妖気も感じるけど…」
「姉さん、少し休もう。顔色も悪いし…」
「大丈夫…。って、説得力ないかもしれないけど」
力無く浮かべられる笑みに照真は眉を曇らせる。
妖を知る前から、咲光は少し、空気の悪さや妖気を感じやすい所があった。今は妖を知った事や鍛錬の甲斐もあって耐性が出来ているが、それでも耐性より強いと気分が悪くなってしまう。
(でも姉さん、やるって言ったらやるから)
それが少し心配でもある照真は、咲光の手を取りきゅっと握った。
驚いたように微かに目を瞠る咲光は、フッと表情を緩めると、ゆっくり呼吸を落ち着かせるよう努めた。それを見計らい、照真も声をかける。
「探そう。これをやった妖を。放ってはおけない」
「うん。妖気と空気の悪さが混ざってるから、意識して妖気を拾おう。日が経ってるから、弱まってるかもしれない」
集中しようと、二人が頷き合った直後――
「っ……!」
全身が総毛立ち、二人は反射的に駆け出した。
鳥肌が立つ。心臓が煩く鳴り響く。こんな感覚は初めてだった。
(いるっ。この先に! 今まで感じた事ないくらい強い奴が…!)
隠されることのない妖気を目指し、着いたその場所で、咲光と照真は空を仰いだ。
一軒の家。暗闇の森を背に、屋根の上に立つ妖気の主。
視線を縫い留められ、そっと刀の柄に手を伸ばす。その手が震えた。ゴクリと唾を呑む音さえ聞こえてしまうのではないかと思う程、辺りが静まり返っていた。
突然やって来た二人に、妖気の主は動じず口を開いた。
「人間…。この村の人間は、すでに殺し尽くしたはずなんだがな…」
咲光と照真の緊張など知らないように、その妖はゆったりと言葉を紡いだ。
その男を、咲光はじっと観察する。金色の珍しい瞳は、美しさよりも冷たい印象を受ける。肩に付くほどの白い髪は風に揺れ、尖った耳が見え隠れする。身軽な装束の上に、袖のない丈の長い上着を着て腰紐で縛っている。
一見すれば二十代前半の人間の男だが、発しているのはこれまで感じた事のない程の強い妖気。
男の目が二人の腰元にある刀を認め、スッと細められた。
「万所…。退治衆の人間か。相も変わらずこちらの邪魔をする。目障りな…」
淡々とした声音と動かない表情は、何を考えているのか読み取りづらい。
どこまでも己の調子を崩さない態度に、二人の警戒は強まる。
(これまでの妖の比じゃない…。意識まで呑みこまれそうだ)
(手が…震える…。心臓が煩い。圧迫されて呼吸が乱れる…)
圧倒的で圧迫的な妖気に、意識が引きづり込まれそうだ。それが威圧感となり恐怖が心を埋め尽くそうとする。
それでも、それを振り払うように照真は刀を抜いた。
刀を持つ手が震える。全身の血の気が引いて、心臓は煩いのに寒さすら感じる。呼吸が乱れて動けなくなりそうだ。
(こいつに比べれば、これまでの妖なんて赤子だ…)
嫌と言う程感じる。この妖相手に戦えるのか――
そんな思いを振り払うように頭を振り、照真は男を睨み上げた。そして咲光もまた、男から視線を逸らさず、刀を抜いた。
男は突然やって来た二人を、つまらないものを見るように見下ろしていた。
持っているのは神威をまとう刀。すぐに万所の者だと分かった。
(忌々しい…。しかし、この二人はただの一員。大した実力はない)
本当に鍛え上げられた者は気配が違う。そして、それに準ずるのは万所で僅か数名だと、男は知っている。
(中でも厄介なのは祓衆だ。退治人では一人しかいない)
祓衆は術を使う。時に強力な術を使い、妖を打ち負かす事もあれば封じる事も出来る。退治衆は術を用いず刀で戦う。
だからこそ、男は目の前の二人が退治衆の人間だと分かり、興味が失せた。
(術も使えぬ者が刀を振り回し、勝てると思っている事こそ愚か)
それに加え、目の前の二人は大した実力もない子供。
これまでにも男は同じような者と出会って来た。だからこそ、すでに解っている。
(妖気に怯え、戦意も失せる。そんな奴の相手はもう飽きた)
そう思う男の前で、二人の子供が刀を抜いた。表情を変える事無く見ていた男は、不意に僅か目を瞠った。つまらなさそうに下がっていた口端が微かに上がる。
(ほぉ…。久方ぶりに面白い者を見つけたやもしれんな)
実に、堕とし甲斐のある人間が――
(喜べ人間。あの御方の為に死ねる事を)
微かだった口端が、心底嬉しそうに上げられた。




