さよならは、優雅に微笑んで
――いつか夫婦に、そして家族になるものだと思って生きてきた。
「エドナ・ネルヴィア、婚約を破棄させてもらう!」
学園卒業を祝うはずの式典の場に――つい先刻まで国王陛下の言祝ぎなど厳かな雰囲気さえあったというのに――侯爵家嫡男ギルバート・トレイズの声が響き渡った。制服姿の彼の腕には可憐な少女が取り縋り、そんな彼女を守るように複数の男子生徒が立って一様にエドナを睨めつける。紫色のネクタイをしたギルバートに、黄色いリボンタイの少女、他各々の色のタイを身につけていることから学年も様々なことが見て取れる。
儚げなソフィア・クラークは自分のために婚約者との婚約破棄を宣言するギルバートをうっとりと見つめ、エドナはそんな彼らに淡々と視線を返していた。
多忙である国王がすでに退席したとはいえ、学生の親類縁者や他多数の貴賓が参加する祝宴中だというのに。
わざわざ公式行事の只中に事を起こした彼らに、体温が下がったかのような感覚を覚える。
――婚約して十余年。
二人の関係は恋に育ちもしなかったけれど、それでもともに過ごした時間だけ親愛の情はあり、エドナはいつか家族としての愛なら育めるのだろうと信じていた。
そのための努力ならしてきたつもりだった。爵位としては彼に劣る伯爵家の出だからこそ、自分が嫁ぐことで彼が軽んじられないよう、勉学にも社交にも励み釣り合うようにと日々取り組んできた。
彼もまた、エドナと向き合いともに家庭を築くことを前向きに捉えていた、……はずだった。一年ほど前までは。
「お前は僕が彼女を構うからと、嫉妬に駆られ、か弱い彼女を虐げていたな」
ギルバートの張り上げる声にソフィアは目を伏せ、そばに立つ男子生徒の一人が慰めるよう肩に手を置く。
いつの間にか会場は静まり、楽団の演奏だけがそっと空間に満ちていた。
「可哀想なソフィア」
そうギルバートが彼女にかける声は気遣いにあふれていたが、エドナはただ静かにため息を落とす。
可哀想だなどと、戯れ言にしか聞こえない。最初に抱いた感情はそうだったのかもしれないが、もはや憐憫のような言葉が適していないのは態度を見るに明らかだ。仮に可哀想に見える状況に陥ることがあるとすれば、それこそ彼ら自身のせいに他ならない。
父親に引き取られたことで庶民から男爵令嬢になり、一人娘だからと可愛がられながらもあえて選んだかのような質素な振る舞い、中途入学した学園では令嬢らしからぬ素朴でひたむきな様子が健気だと有力貴族の子息である多数の男子生徒に囲われ、……面白くないと思う者が出てくるのは致し方ないことだろう。
「私には誰かを虐げるような趣味は持ち合わせておりませんし、どうして私が嫉妬など?」
「シラを切っても無駄だ、目撃証言も物証も揃っている」
目を釣り上げたギルバートは命じ慣れた者の態度で、合図を受けた周囲の数人がにわかに動き出す。
「これはお前のものだろう」
彼は脇から差し出されたトレイの上に載ったそれを、乱暴に掴んで突き出した。
エドナに見覚えならもちろんあった。遠目からはただの白い布切れだが、よく見れば丁寧で繊細な刺繍が入っているはずだ。ギルバートの父親であるトレイズ家当主の管理するモルテッサ領産として主に貴婦人に好まれて使用されているハンカチーフであり、エドナのものだろうと断定してきていることから、トレイズ家の印章が白糸での刺繍にて施されているに違いない。
そうだとするなら、彼が疑いをかけるのも無理はない。トレイズ一家と、いずれ家族になるエドナと、毎年その人数分しか用意されていない品なのだから。
「あら、確かにあなたからいただいていたもののように見えますわね」
「ソフィアの荷物が荒らされた現場に落ちていた!」
「おかしいですね、私のものはこちらにありますが」
エドナは制服のブラウス胸ポケットからほとんど同一と見えるものを取り出す。
「そんなもの、お前なら何枚所持していてもおかしくはない」
「ええ、毎年一枚ずつ増えていましたから直近三年分は残しておりました。ではそちら、よく見せていただいても? ああ、どなたかお持ちくださるかしら、すり替えられたなどとあとから疑いをかけられたくはないですから」
微笑さえ浮かべギルバートたちのそばへと歩みを進めたエドナは、彼の友人ジョルトが広げ持ったハンカチーフに顔を近付けた。
手に取らなくても分かる、布地と同色でありながらはっきりと描かれたトレイズ家の印章、縁取りまでが美しく仕上げられ、間違いなく彼の身内だけが持つはずのもの。
「……これは、最近の流行りを取り入れられているようですわね」
だからどうした、とギルバートは訝しげに睨む。
「毎年いただいていた、と申しました。今年は届いていないのですけれど、遅れているのかと以前確認してみたところ例年通りの枚数をとっくに作られていたとか。こちら、どなたに贈られたものなのでしょうね?」
エドナが小首を傾げて見つめると、ギルバートの表情は険しさを増し、
「まあ、ソフィア様。お顔の色が優れないようですが大丈夫でしょうか」
彼以上に、その影から覗くソフィアの顔色の変化は顕著。愛らしい唇をきゅっと引き結び、ギルバートの腕に縋りつく。
「仕様から、今年お作りのハンカチーフとお見受けしました。まさかとは思いますけれど、毎年デザインが異なっていることも知らず、確かめずに――――私をお疑いに?」
見据えられ息を詰める二人に、エドナは目を細めてみせた。
モルテッサ産のハンカチーフといえば、数十年と前に起きた災害の影響が今なお残るモルテッサ領を支える名産品である。素材の生産量自体まだ回復しきらず、刺繍の担い手もまた災害当時に外へと流出してしまった経緯もあり、純モルテッサとなる品は希少。それでも保たれる品質にエドナは毎年感心して、領地発展のためにこのハンカチーフは必要不可欠だと確信していた。
侯爵が領地の疲弊に心折れたために戦略が一貫せず、希少性を逆手に価値を高めるような方向性を目指してみるのも手だろうに強気に出る勇気はなかったらしく、供給量を維持出来もしないのに目先の収入欲しさに安売りに走ったり、質の劣る素材をよそから仕入れてまったくの別物が出来上がってしまったりとすることもあったが、ここ数年でようやく諸々安定してきたところだった。
侯爵や後援者、そして何より土地の者が苦労して価値を築いてきたものだ。まわり道をしながら、試行錯誤を繰り返し、伝統を重んじながら流行を取り入れ――。
その値打ちを理解もせず、ありもしない罪の証拠として軽々しく用いられようとは。何より侯爵の後継という立場でありながら父親と領民のそれら努力に見向きもしないギルバートの無関心さ。
「ちなみに……私がいただけなかったそのハンカチーフの在処も、もちろんお確かめになったのでしょうね?」
「なっ、ソフィアを疑うと言うのか!?」
「私はどなたのこととも申しておりませんし、そうもお粗末な証拠しかなく私を疑うあなたにお怒りになる権利があるのかしら」
「目撃者だっている!」
「それもあなたたちのお友達でしょうに」
す、とエドナが滑らせた視線に、男子生徒たちの肩がぴくりと反応を示す。
口裏を合わせて吊し上げだなんて、それこそがまさしく虐げているという行為なのだと気付いていないとでもいうのか。
「私の罪を白日のもとに晒したいとの思いからこの場での婚約破棄を宣言されたのかもしれませんが、」
これではこの国の先行きが不安にもなろうというもの。これから先の国政を担う立場になるかもしれない、少なからずいずれ領地経営等を行なうであろう子息たちが、このような。
「このように私に罪はございませんし、これ以上お話を続けたいようなら、仕方ありませんからお付き合いはしますけど、場所を変えませんか?」
ギルバートはこぶしを握り締めて震える。
エドナの記憶にある彼は、こんな風に一方的に相手を謗るような人間ではなかった。侯爵家の跡取りとして何事においても真面目に取り組み、少々独りよがりなところもありはしたものの友人の多い好青年で、だからこそ婚約者として精進しようと思っていたというのに。
「潔白だと言い張るのならここでも構わないだろう。こちらは何の問題もない」
意固地になり引くに引けないのだろう、ギルバートが言い切る。エドナはひさしぶりに見た彼の一面に小さく笑う。幼なじみゆえの他愛ないケンカを、いつも長引かせていた原因だった。たいてい彼女が折れて終わったが、今回ばかりはそういうわけにはいかない。
彼がそう言うならば、ともに晒し者になろうと覚悟を決める。彼らの知らない切り札を、こちらはすでに押さえているのだから。
「それではギルバート様、ソフィア様、そしてみなさま、お話を続けましょう」
すっかり遠巻きになって成り行きを見守る生徒や教師を見渡して、エドナはそっと唇に弧を描く。
彼女としてはこうも事を荒立てるつもりなどなかった、始めたのはギルバートたちであり、エドナは引きずり出されたようなものだ。
先に大衆の面前で述べたように、罪はないつもりだからこそこうして相対している。
ソフィアを虐げてなんの得があるものか。何度か口頭で注意をしたことはある、婚約者のいる男性と誰彼構わず親しくするのはどうなのかと、その他、庶民出とはいえ貴族の子女として、学園の生徒として、淑女らしい立ち居振る舞いを求めた、それだけのこと。目に余る言動を窘めた、それ以外に意味も感情もさほど持たないささやかなやり取り。
今となっては認めたくないが、少しばかりの不満や虚しさくらいはあった。婚約者であるはずのギルバートが徐々に遠く離れていくのを感じて。政略結婚なのだからと割り切っていた関係すらも壊れていくのが分かって。
だからといって自分に繋ぎ止めたいという強い想いはなかったし、家同士の事情から、結局は形だけだとしても彼は自分を選ぶしかないのだと、幸せとは程遠いだろう未来しか思い浮かばないことに切なくなりはしたけれど――。
「立会人が必要かな?」
不意にかかった第三者の声に、居合わせた人間はそれぞれの反応を見せた。多くの者はそれが誰なのかと戸惑い、ギルバートとソフィアなどのひと握りの者は驚愕の表情を浮かべている。エドナもまた一瞬息を呑み、姿勢を正して一礼をする。
「王弟殿下、ご機嫌麗しゅうございます」
その呼び掛けに、ほとんど事態の見物客となっていた人々が半信半疑ながら慌てて膝を折り敬意を表していく。
ふわりと撫で付けた眩いほどの金髪に碧の瞳は、王家の血筋によく現れる特徴そのもの。式典に合わせてか、藍色という落ち着いた色味のスーツという出で立ちであるものの、シンプルな装飾と相まって一層その存在感を引き立てている。学生たちが灰色を基調とした強くはない色合いの制服であるからなおのこと。
「お越しでしたのね」
「せっかくだからね。まあでも主役は卒業生だし、何事もなければひっそりと今日のこの日を祝福して見守るつもりだったんだけど……」
面白そうなことをしているね?
にこり、優美な微笑みを浮かべるのは現国王の末弟。幼い頃から病弱なために学園に通うことのなかった彼は、公式の場に現れることもそうそうなく、周囲からは「あの方が……」「ご病気だったのでは?」とざわめきが起きている。
「……マリウス殿下、ご無沙汰しております」
「やあ、ギル。どのくらいぶりだろう、半年……いや一年近いかな?」
ギルバートの床に膝をついての再会の挨拶に、マリウスは気さくに笑みかける。幼少期から面識があり親しくしてきたからこその気安さで、しかしギルバートの側は後ろめたさでもある様子でぎこちない表情を返す。
それもそのはず、とエドナは嘆息する。幼い頃から育んできた友情を裏切る行為を、今まさにしているところなのだから。
エドナが道義に反する行ないをしていたと思い込んでいるとはいえ、話し合いを持つこともせずに婚約者を切り捨てようとしているのだ。たびたび病床に伏せる、自身の未来さえ望めないだろうマリウスの前で幸せにすると誓っていたというのに。
「随分と、その……見違えるほどに、お元気そうで……」
「おかげさまで、見舞いに足を運んでもらう必要がなくなったよ。この一年、君にも色々とあったのだろうけど、わたしにもそれなりのことがあってね」
「心より、お慶び申し上げます」
「ありがとう。嬉しいよ、君はわたしにはもう興味がないかと思っていたから」
にこやかに見下ろす視線にギルバートの顔は引き攣った。
ほとんど自室からも出られず、広く見ても行動範囲は王城の敷地内にある別棟のうちという生活を送るマリウスのもとへ、年頃が近いからと話し相手に割り当てられていたエドナとギルバートは毎月のように揃って見舞いに訪れる……それは二人が婚約する前も、してからも、続いていたことだ。
ごく狭い世界で生きていたマリウスにとって、外の出来事を知る数少ない時間。破綻したのは二人の関係が壊れ始めてからだ。婚約者ではなくメイドを連れ見舞うようになったエドナと、顔を見せることのなくなったギルバート。疑念のきっかけなどそれだけで十分だった。
「そちらのお嬢さんも変わりないようだね」
「…………ッ、」
声をかけられたソフィアもまた険しい顔つきで、何事か思うところがあることはその態度から明らか。
その理由を把握しているエドナからしてみれば呆れて物も言えないが、本人にとってはそれを公言されるかどうかは、それも恋人の前でとなると死活問題に違いない。
くだらない。過ちに過ちを重ねる彼らが滑稽で、目の眩んでいる者も、憤りを感じながらも黙っている者も、……そして自分も、みんな馬鹿でしかない。
冷めた眼差しで何気なく眺めた周囲に、自分と同じ黒髪を見つける。マリウスが「妹の晴れの日だからね」と穏やかに、ふいと顔を背けたその眼鏡姿が兄のベルナルドであることを肯定する。
仲が悪いわけではない、それでも決して仲良しとは呼べない関係性の兄が卒業式だからといってこの場にいることが信じられずに戸惑うと、マリウスが「相変わらず遠慮がちな兄妹だね」と笑った。そんなことを言うのは彼くらいのものだ。そのような性格であるのなら、こんな舞台で立ち向かう選択肢など選ばなかったはずだ。
曖昧に微笑み返して、エドナは横道に逸れた話を引き戻す。
「先程は立会人のお話が出ていましたが、」
「うん。まあこれだけ傍聴人がいれば必要ないだろうけど」
ざっと見渡された観衆が各々目を逸らす。彼らが見ているのは興味本位と、長い物には巻かれるべく判断材料にするためであり、巻き込まれたくないという感情がありありと漂っていた。
「お言葉ですが、殿下を第三者と呼べるかどうか……」
「そう? わたしは比較的公正なつもりだよ、君とも彼とも、両方と親しいつもりだから。少なくともギルの用意した証人よりはよっぽど冷静で公正じゃないかな」
マリウスは「それに、」と続ける。
「王家としても、正式な婚約を当事者の片側による一方的な破棄宣言……というのは見過ごせないかな」
端正な顔立ちでの微笑みは優美でありながら見るものを威圧する効果を持ち、跪いたままのギルバートの顔からは血の気が引いていく。
「そういった意味では、どちらかといえば君寄りであるからこそバランスがいいとも言える。だけど、そうだなぁ……むしろはっきりエドナ嬢の弁護人に回った方がよさそうかな」
ね? と同意を求めるマリウスに、エドナからの拒否などあるはずもなかった。
この場に敵しかいないと思っているわけではない。それでも味方がいるとも思っていない。誰しも自分が誰より大事で、貴族ともなるとより顕著、目を瞑って済むのならそうするのも仕方がない。庶民出の生徒たちにとっては他人事で、さらに遠巻きに窺うばかり。
そんな中で彼は誰に忖度する必要もなくそこに立つ。幻の末王子とまで呼ばれていた彼が、眩しいほどに力強く笑って。エドナはゆるみそうになる気持ちを引き締めて、毅然と顔を上げた。
ゆっくりと立ち上がったギルバートは、ソフィアを引き寄せ背に庇う。そんなことをしなくても誰も危害を加えようなどとはしていないというのにと、マリウスは肩をすくめる。
「ところでエドナ嬢、肝心の話をしていないようだけど」
「申し訳ございません、あちら側のお話を一通りお聞きした上でと考えていたものですから」
そう、肝心の話だ。改めて向き直ったエドナに、ギルバートは不穏なものでも感じたのかわずかにたじろぐ。ぎゅっと腕を掴んだらしいソフィアの存在に踏みとどまるが、そもそも彼らに勝機などというものはないのだ。……可哀想なことに。
「ギルバート様。どうやらお話が届いていないご様子とお見受けいたします」
「……なんのことだ」
「ギルバート・トレイズ様とエドナ・ネルヴィアの婚約は、すでに解消されております」
本当に知らなかったのだろう、ギルバートが驚愕に目を見開く。
「もちろんやましい手段などはなく、両家当主と教会の承認を得ています」
「どういうことだ、僕は何も聞いていない……!」
「私からもお別れの手紙を差し上げましたし、何よりお父上からお話があったはずですが」
エドナの言葉にギルバートは混乱した様子で視線をさまよわせるが、エドナからしてみれば呆れて物も言えない……いや、言いたくない。
当人同士で解決出来るならと、話し合いの場を設けるべく何度となく声を掛けた。それを聞く耳を持たずにただしつこいと振り払っていったのは彼だ。どうせ手紙も差出人の名前だけを見て捨ててしまったに違いない。
そこまで横暴なことをする人間ではなかったと思うのに、しかしここまで来てしまったならどうしようもない。どうこうしてやるつもりもなかった。
「では改めてわたしから伝えようか」
マリウスが優しく微笑む。婚約解消についての書面は婚約申請書とともに一定期間教会に保管される、エドナからその写しと関連する書類を預かって掲げた。
ギルバート・トレイズの不貞行為により、エドナ・ネルヴィアとの婚約は解消するということ。それに伴いトレイズ家並びにモルテッサ領への支援は打ち切りとなるところだが、双方の話し合いにより援助は継続、ネルヴィア家の協力のもとに立て直しを図るということ。
「不貞行為だなどと、エドナが彼女を虐げるから!」
「そのような証拠及び証言は得られなかった。君やそちらのお嬢さんの話なら、噂から真実味のあるものまで様々出てきたけどね」
妹を気にかけていたベルナルドとマリウス、二人して呆気に取られたほどに。
それはもう盛りだくさんだと両手を広げるマリウスは、手にしていたそれをエドナに返し静かに首を振る。
「侯爵は自身の監督不行届だと大いに嘆かれ、唯一の後継者であった息子を廃嫡すると決断された」
モルテッサ領は金策に苦しみながら持ち堪えてきた。現当主が学生時代の繋がりから領地経営、事業ともに成功しているネルヴィア家との縁を結び、ようやく一定水準にまで落ち着かせて、それでもこれからといった状態であることは、外の人間にはともかく両家の者には分かりきったことのはず。
子供たちを婚約させ縁づかせることで結びつきを強めさらなる安定を目指す段階だったというのに、まさか息子が裏切るなどという愚行を冒すなど、すべてを知った当主はエドナと父親に膝を折り項垂れるように頭を下げて謝罪した。
息子を擁護しネルヴィア家との関わりを失えば領地経営は破綻、一方で跡継ぎを失えば爵位は近い将来断絶となるが、ネルヴィア家の助力を得られれば当面の危機は免れ、ともすれば軌道に乗せられるかもしれない。
領主として父親として、苦渋の決断だったろうに、毅然とした態度で領民の幸せを選択した。
「馬鹿なことをしたな、ギル。残念だよ」
「そんな……」
瞠目するギルバートは膝から崩れ落ちた。
「……借金なんて、僕の働きでなんとかなると……」
「いつの状態だい、それは? ご当主たちによると先々のためにと費やした資金もまだ回収出来る段階にはいたっていないようだし、そう、この一年で君が無駄に消費したのも痛手だったらしいね。仮に君たちが結婚したとしたら負債は膨らむばかりだろうと、いっそ諦めがついたらしい」
父親が借金を抱え苦労していたこと、だからこその婚約であることは承知していたはずなのに、身勝手に、それもこのような大それたことをしでかした。勢いで自分たちの正当性を主張するつもりだったのか知らないが、結果として無様な姿を自ら晒すことになっただけだ。
「お嬢さんもよかったね。男一人の運命どころか、危うく大勢の人生を狂わせるところだったんだから、助けてくれたネルヴィア家に感謝しないと」
「大袈裟ですわ。これもご当主様がご相談くださったのと、モルテッサには廃れるには惜しいものがあるからだと父も申しておりました」
これは投資であり情によるものではない。
私情を挟むならあらゆる手段を用いてネルヴィア家で領地を乗っ取ることも考えられた、上手く回せば生きる土地なのだ、しかし少なからず反発があるのは当然であり、強引に事を押し進めるのは得策ではない。ギルバートがこのような事を起こすと予想してはいなかったが、いずれ二人の関係破綻について公になることは当然として、立つであろう向こうの悪評に便乗する形でその時にこそ……と、画策していたのだから、感謝などされてもおかしな気分になるだけ。それも、今こうして自分たちから窮地に陥ってくれたなんて。
「だから領地のこと、ご両親のことはネルヴィア家に任せればいい。ここから先のことはもうギルには関係ないしね。男爵の唯一の令嬢であるお嬢さんのところへ婿にでも入れば、君はこれからもやっていけるだろうし」
脱力したままソフィアを振り返るギルバートに、しかし彼女からの視線は返らない。俯いたまま握り合わせた手を震わせている。
「ああでも発端となったお嬢さんにお咎めなしというのもどうなんだろう。勘違いからの誤解……だったかな、それでも罪のない女性を冤罪で辱めて、ねぇ……?」
実際にソフィアがいくつかの嫌がらせを受けていたことは調べがついている。それは彼女になびいた婚約者や恋人を持つ女子生徒たちによるもので、事実無根というわけではなかった。それでも筆記具が少しどこかへ消えるなどまさしく嫌がらせといった程度のことであり、執拗に続いたりなどもしていなかったはずだ。褒められたことではないのは確かながら、令嬢たちの受けた心の傷を考えれば、より深く重い行為に至らなかっただけ令嬢たちは理知的だったろう。
ざわめき始めた周囲の視線が、明らかな不信感を持ってソフィアに集まる。本人も肌で感じているのか、キッと顔を上げたかと思えば駆け出した。
「助けて先生! あたしそんなつもりじゃなかったのに……!」
泣きつかれたのは壁際に佇んでいたアーノルド・ナリス、彼女が呼んだように学園の教師の一人。生徒はもちろん他の教職員とも一線を引いて接する、率直に表現するなら冷めた、よく言えば分け隔てない人物として認識されている。
「あたしはエドナ様からギルバート様を奪おうなんて、そんな大それたことしないわっ」
ギルバートのそばから離れたソフィアは、すべて彼の思い込みによる独断であり自分にそのような意思はなかったのだと涙ながらに訴えた。捨てられた形になるギルバートは呆然とそれを見つめるばかり。
ナリスはざっくりと一つに結えられた髪を揺らし、マリウスの前に進み出る。
「殿下、僭越ながらクラーク嬢の身柄は私が引き受けましょう」
慇懃に礼をとり、ソフィアを一瞥して提案を口にした。
「ただの行き違いでしょう。謹慎処分程度が妥当かと思われますが、父親が娘を軟禁というのも辛いでしょうから、当家で責任を持って監視しておきますよ」
「親切な申し出ですね。だが、ナリス先生、あなたでは不適任だ」
薄らと笑みを浮かべるマリウスに、ナリスの眉がぴくりと動く。
「お嬢さんと特に親密なうちの一人だと報告を受けています」
二人は静かに対峙しながら、マリウスは長身のナリスの顔を覗き込んだ。
「なんでも、あなたの邸宅には彼女の私室同然の部屋があるそうですね」
「あら? ギルバート様のお宅でもそんなお部屋があると小耳に挟んだような……?」
「それはそれは。いったいどのような関係なのだろうね?」
次第に周囲のざわめきが大きくなっていく。
ギルバートは言葉もない様子で、「ソフィア……!?」とジョルトをはじめとした男子生徒が青ざめた顔で詰め寄る。
「学生たちはまだしも、大人であるナリス先生までとは。あなたも父親に引き取られたという経緯をお持ちだ、それゆえに彼女の身の上を自分と重ねての情けからなのか……ねぇ、伯爵?」
「まあでもソフィア様はギルバート様とご結婚されるおつもりはなかったとのことですし、ナリス先生がこれまで独身を貫かれていらしたのはソフィア様との出会いを待たれていたのかもしれませんね」
なんてロマンティックなんでしょう。言って目を細めるエドナに、ナリスは眉間にくっきりとした皺を刻み、鋭い眼差しを投げつける。
「王弟殿下を味方につけてこんな……ッ! 卑怯じゃない!!」
逃げ場をなくしたソフィアは取り繕う顔も捨て去って、仁王立ちで叫んだ。多勢に無勢でやって来た自分たちを棚に上げて。
と、思わずといった様子で吹き出したのはマリウスだ。
「おや、寝たきりの人間に夜這いをかけようとした人物が卑怯なんて言葉を知っていたとは」
ソフィアの顔色が完全に失われる。
こうもマリウスが彼女を嫌悪するのは、幼なじみであるエドナを傷つけたせいばかりではない。エドナとギルバートの関係が揺らぎ始めた頃のこと、マリウスの眠る部屋へと侵入してきた女がいたとエドナは聞かされていた。どうやらギルバートを通じて得た繋がりから別棟の警備を掻い潜ったらしい。
「ひ弱すぎて君のお眼鏡にかなわなくてよかったよ。男を侍らせて喜ぶようなお嬢さんに手篭めにされてはたまらない」
その際痩せ細った姿を目の当たりにした彼女は、寝込んでいるからこそ力づくでどうとでも出来ると思ったのだろうに、予想以上の弱々しさにかため息を吐いて背中を向けた。この事件から、マリウスはエドナが抱えながらも話さない、ギルバートが顔を見せなくなった事情を知るに至ったのだ。
マリウスはそれを機に諦めていた人生を掴み直そうと奮起し、こうして劇的な回復を見せた。生きることも初恋も、手にするチャンスを得たのだから――感謝しているよと、笑う。
「……ッ、あんたたちだって浮気でしょ!?」
「口説くのはこれからなんだ、お陰様で人生に時間が出来たからね。邪魔しないでくれるかな?」
さあ行こうとエドナの背に手を添えて促すマリウス、一方で駆けてきた無骨な警備兵に取り囲まれたソフィアとギルバートたちは、騒動を起こしたかどでまとめて引き立てられていく。
「殿下、エドナ……!?」
――いつか夫婦に、そして家族になるものだと思って生きてきた。
侯爵家の一人息子として何事にも真面目に取り組み努力していたギルバート。そんな彼を支えて生きる覚悟を持っていたけれど、あの頃の彼はもう、いない。いらない。
混乱したままに振り返るギルバートに、エドナはゆったりと小首を傾げる。
「では、ごきげんよう」
優雅に、優美に、微笑みを浮かべて。
勢いでつい。
あらすじ書き殴ったみたいになりましたが、いつかちゃんと順を追って書いてみたいなぁ、という話。