2 気付いたら、家
「う、ん……?」
起きたら見慣れた天蓋があって、ここが自室だと理解するのに時間はかからなかった。
「あ、目を覚まされましたかお嬢様。お医者様が診てくださいましたけど、どこも悪くないそうですよ。木から落ちてビックリして気絶されるなんて、お嬢様らしいですね」
メイドのアニーが笑いながら話しかけてくる。慌ててベッドの上に身体を起こすと、身形は散歩に出かけた時のまま汚れも傷もなく、靴は揃えてベッドの横に置いてあった。
……どうやって帰ったんだろう? 私は木の上から落ちて頭を打って白昼夢を見ていたはず。アレが現実だとは到底思えない。
しかし、アニーは遠慮なく私の思考をぶち壊しにした。
「筆頭公爵様の上におっこちたんですって? 公爵様もお怪我はなく、お嬢様をお姫様抱っこして靴もしっかり持って帰ってきてくれたんですよ。仕事ができるだけじゃなく人徳もあるだなんて、いやぁ素敵な方ですねぇ」
私は思わず両手で顔を覆った。恥ずかしいやら申し訳ないやらでまた目が回ってきた。
(あぁぁぁ……夢じゃなかった……夢じゃなかったのねアレ……)
アニーははすっぱで私とは子供の頃に一緒に山遊びしていた仲だが、一応はメイドとして勤めているのだから主人と従者である事は心得ている。
が、私の性格はお見通しだし、だからこんなに軽い調子で話しているのだ。その間にも水差しからコップに水を入れて持ってきてくれて、その間に乱れた髪を梳って結い直してくれている。有能。
「と、いう訳なので、目が覚めたら応接室にとご主人様がお呼びでしたよ。バリス公爵に謝罪とお礼をとの事でした。今夜は泊まって行かれるそうなので、晩餐には軽く盛装しましょうね」
「アニー、バリス公爵様と我が家に親交はあったかしら? 私が歴史と地理の授業中に意識でも飛ばしていた?」
「無いですね、と言いたい所ですけど、ここは正確には陛下の直轄地でイーリス子爵家が管理している穀倉地帯なので、麦の取引先にあってもおかしくないですよ。私はそこら辺、詳しく無いですけど」
その通りだ。子爵というのはいわば官僚で、陛下より預けられた土地を管理しているだけ。何世代にも渡る自領とはいっても、適切に管理しているから長く預けられているにすぎない。
うちからの輸出先は多岐に渡るが、私もその全ては把握していない。お父様の仕事であり、いずれ兄がそれを引き継ぐので、私はそこら辺のお勉強はさーっと済まされた。
今は、切実に覚えておきたかった。なぜさーっと流されるままにしてしまったのだろう。いや、私がいずれこの家から出て行くからだけど!
「はい、出来ましたよ。お嬢様の髪は本当に手触りが良くて綺麗ですね。山猿姫、なんて呼ばれていますけど、お洒落して黙っていたら嫁ぎ先なんて困らないでしょうに」
「アニー。山猿姫、はやめてちょうだい。もう子供じゃないのよ」
「いい大人の淑女はたとえ小鳥が落ちていても靴を脱いで木登りしないんですよ。そういう時こそ従者なり領民なりを頼ってください。——はい、腰のリボンも綺麗に結び直しました。まずはお礼を言いませんと」
アニーの言うことはいちいちもっともだ。はぁ、気が重い……だけど、人の上に落ちておいてお礼も謝罪もしないのは最低だ。
『私の天使——』
不意に、あの思わず惚けてしまいそうな低音で甘く呼ばれた言葉を思い出す。
山猿姫ならいくらでも呼ばれてしかるべきだと思うけれど、天使とは何事だろう。アレが夢じゃないのなら、確かにバリス公爵様は私を天使と呼んだ。
今も頭は現実に追いつかず、気を失ってしまいたかったけれど、なんとか靴を履いて私は応接室に向かった。
「失礼いたします」
「入りなさい」
そこには、昼間から自領自慢のチーズと公爵様の手土産のワインでもりあがる、お父様とバリス公爵の姿があった。
もう一度フェードアウトしてもいいかしら? と、思ったけれど、今日はもうダメみたいだ。