2.5、錬金術が使える侯爵
「……本当に価値あるものは、形を持たない。容易く染まり、容易く容器に収める事もできるだろうが、掴もうとすれば水の如く擦り抜け、砂の如く零れ落ちていく」
絶望感に苛まれ、暗闇の中で身を寄せ合って、一歩先の陽の光に照らされた場所を睨みつける青年に声をかけたのは、彼よりも遥かに幼い少年だった。糸目が特徴的な、愛らしい顔立ちの少年。身なりがかなりいい。どこぞの貴族の令息だろう。
「いくらそのものを手に入れようと、それを保つ為の器がなければ、いつか消えてしまうのは当然だと思うよ?
器が何か分からないなら、僕が用意してもいい。自分で整えるというのなら、方法を教えて手助けしよう。
だから是非とも、僕の所に来てくれないかな?
君の手が必要なんだ」
可愛らしい少年は、青年に手を差し伸べた。
青年は少年の屈託のない笑顔に背筋が凍った。
しかし、それは実の所恐怖ではなかった。
ああ、自分がすべき事が此処にあったのだと、心が実感した事による武者震いだったと気付いたのはそれから何年も後だった。
そして現在、少年は泣く子も黙る侯爵となり、青年はその家の執事長となっていた。
「懐かしいね……僕がローグたちを拾った日を思い出すよ」
「ええそうですね、旦那様。尤も、あの日の私は貴方に懐いていませんでしたが」
「まあ、それはさておき、リィーちゃん、説明は?」
伝統ある屋敷のエントランスからすぐの部屋。
侯爵は執事を伴い、その背に2つの影を従えた自分の愛娘に問いかけた。
心なしか彼の目に光がない。疲労だろうか。
いや、それよりも多分、現実逃避をしているのだろう。
「拾いました」
「返してきなさい」
即答する娘に即答する父親。娘の後ろで大人しくしている片方は怯えたように、片方は強がっているが警戒が強く見て取れた。
執事は呆れまじりに言った。
「……お二人とも、そんな捨て犬を拾って帰ってきた時の問答はおやめください」
「犬なら反対しないよ。うち広いもん。犬の2匹や3匹余裕で飼えるよ」
「そこらの犬より手がかかりません。大きめのお部屋が一つあれば十分との事ですし、犬の世話のように侍女たちの仕事が増えたりしません」
執事は未だに飼う飼わない問答をしている主人たちに対して心の中で盛大なため息をつき、令嬢の後ろに控えている双子に目を向けた。双子は品定めされている事に気付いたのか、びくりと身体を震わせたようだった。
娘がどこまで口が回るか確認する為に不機嫌を装って「わぁーい、リィーちゃんが僕とたくさんお話ししてくれてる☆やったね!」と思いながら楽しく問答を続ける侯爵は、執事と双子の様子にも目を向けていた。
(本当に、ローグたちを拾った日を思い出すよ。
あの日もローグは警戒するように僕の後をついてきたし、その傍には弱々しい子が怯えながら付いてきた。
……正直な話、娘が拾ったと言った時点で、侯爵はその身元不明の双子を屋敷に置いて、執事見習いにする気しかないけど。
娘が拾うという言い方をする時点で、娘を害せるような実力が無いという事だから。
……それにしても、)
「その双子を引き入れるメリットは?」
「常々お父様が私に付けたがっていた護衛、この子たちになら任せてもいいです」
「却下。欲しいのは即戦力」
「私、老い先短くないので長期的に考えて私が連れ回しても追いかけてこれるだけの若さが必須だと思います」
「騎士団の若いの引きぬけばいいじゃん!」
「騎士団がいけ好かないって言ったのはお父様でしょう?」
(リィーちゃんが僕とこんなにお話ししてくれるだなんて!感激っ!!)
侯爵は娘にものすごく甘い。表に出ていない面を晒せば、娘が縁を切りたいと思うくらいにはウザい。それを分かっているので、絶対にボロは出さない所は流石である。
「……はぁ。リィーちゃんが欲しいならまあ、僕が折れるしかないよね……。
ローグ、ベリテ」
「お任せください。旦那様」
執事長のローグが返事をすると同時に、ひゅん、と風が吹き抜けた。その場で驚いたのは2人だけ。令嬢が正に拾ってきた、まだ名前も聞いていない双子である。双子は気付いたらエントランスではなく、バスルームにいた。それも数名の侍女たちに囲まれて。
この後彼らは身嗜みを整えられた状態で令嬢たちの前に姿を見せることになるのだが、それはさて置き。
エントランスに残っていた3人も、部屋に移動し始めていた。
「で、リィーちゃん。彼らを連れてきた理由は?」
侯爵は改めて、茶番をやめて娘に質問した。
「伝書鳩が欲しかったので」
……一言言わせていただきたい。この令嬢のこの言葉は本心から出ている。何か隠語だとか、そういう話ではない。単に、普通に、本当に、手紙を届けてくれる鳥が欲しかったので、丁度良さそうな人材を見つけたから拾ってきたのである。
「じゃあ……どこが好みなの?」
侯爵も娘のことはよく分かっている。伝書鳩が欲しかったなら仕方ない。基本的に娘が欲しがるものは与える主義なので。だから、実は聞きたいことは、質問したそれだけであった。
侯爵は超真剣に、近年まれに見る貿易交渉の正念場の様な勝負所の風格で問いかけた。
「まずはあの兄の方の、弟を護ろうとして出てきた時の強い意志です。あの刺し違えてでもと言った風格はあの方を初めてお見かけした時の行き急いだ感じとよく似ておりまして危うくて似ていてとてもいじらしく思いました。次に何度か弟を逃がそうとしてタイミングを見つつも心細く自分の実力不足はわかっている為に生じる迷いと緊張と不安と戦いつつもそれでも護ろうとする姿が研修時代からのご友人方との縁にもなった新人時代のあの方そっくりでございましたの。それから」
「あー、……リィーちゃん、ちょっとお父様お腹いっぱいになってきたかな……」
「聞いたのはお父様ですが?」
うん、そうだね……そうなんだけどね……。と項垂れる侯爵は、まあ、いいや。と折れた。娘を自覚のあるレベルで溺愛する父親的には、好きなものに夢中になって生き生きとしている娘を見るのは嬉しいものの、それが結局は1人の男性に結びつくものなので、心境的には微妙なのである。
「……そんなに好きなら、婚約の打診でもかけてみる?」
せめて婚約者であるなら、まあ、(今でも半ば仕方ないとは思ってるけど)惚気、ということであの騎士の話を我慢して聞いていられるかもしれないと思って出てきた言葉だった。……が。
気がつけば侯爵は後ろから執事に羽交い締めにされて、目の前の誓約書をナイフで切り刻む寸前で止められていた。ちなみに既に部屋の中に娘の姿はない。
「……ローグ?」
「旦那様!?……やっと正気に戻られましたか」
やれやれ、と執事は拘束を解いた。侯爵からナイフと誓約書を取り上げ、ソファーに座らせて身体のマッサージをした。勿論その間に状況を説明する事も忘れない。有能な執事なのである。
侯爵が娘に婚約申し込みの話を持ち出した後、娘は恋する乙女的にどこに惚れ込んでるかやら、自分との釣り合いやら国内のパワーバランスの話やら、ファンとして超えない一線やらの話をノンストップで話し続けた。時計の針が2周半するくらいまで。
侯爵の理解度と娘をとられて悔しい気持ちからの嫉妬心が限界を迎えて思考停止した辺りで令嬢は席を立ち、侯爵は何故か金庫から一枚、誓約書を取り出してナイフで八つ裂きにしようとして、執事に止められていたという話であった。
国内有数の力と歴史ある侯爵であると同時に、国内最高の商売人でもある侯爵は、契約書や誓約書をとても大事にしている。自分以外、開けられないと分かっているから金庫も使う。その大事なものを、正気を失っているからといって自分が憎しみのあまり破棄しようとするなど……と、侯爵としては驚きを通り越して落ち込んだ。
「はぁ……リィーちゃん怒らせちゃった〜」
……それ以上に娘の機嫌を損ねたことの方が大きな損失だったらしい。
執事から返ってきた誓約書に書かれた名前をなぞって、壊れない程度の力で思い切り、弾いた。
だが急に気分良さげに笑う。
「……でも、このままなら……まあ、いっか☆」
屈託なく笑うその顔は、勝ちを確信した勝負師の顔だった。