第20話 隠密現る
季節は秋になっていた。隣の公園のイチョウがきれいな黄色の葉っぱを撒き散らし、紅葉の仄かな赤と緑が、公園の地面を絵画のように彩っている。すっかり大学生らしくなった栞が、日曜の朝、起き抜けに言った。左門もまだハブラシとコップを持っている。
「パパに会いたいって人がいるの」
「んおっ?」
左門は口を漱いでいた水を飲みこみそうになった。この一言って父親が娘から貰う悲劇のカウンターパンチじゃないのか。
「語学が同じクラスの男子なんだけど、気がついたら近くにいて、いろいろ奢ってくれるの」
「はあ?」
どうやら、フックにもならないパンチのようだ。左門は少し安心した。
「意味が解んないんだけど、断るにも持ってきちゃってるから断れなくてさ、ああ、どーもって頂くんだけど、度々だから下心でもあるんじゃないかって思っちゃうよ」
「栞。あるに決まってる!俺が200%保証する」
左門はきっぱり、言い切った。
「だよねえ。良く知らない人だし、飲物とかチョコならまあいいんだけど、ブランドのバックまでくれようとしてさ、流石にそれは断ったよ。知らない人から高価なものは頂けませんって」
栞も口を漱ぎ、タオルをハンガーに掛け、洗面所を出た。左門も後をついて行く。
「そりゃそうだ。只ほど恐いものは無し」
「でも考えたら、あたし知らない人の家に転がり込んじゃってるから、あんまり言えないなあって」
「それとこれとは違うよ」
「そう?」
「そうだよ。ここに来たのは、まあ何かの縁と言うか、運命と言うか、いたずらと言うか、そんなだよ」
「意味わかんねー。でもさ、もうすぐ学祭でしょ。昨日言われたんだよね。一緒に回りませんかって」
「ナンパじゃん、それ」
「でね、二人で歩くのが恥ずかしければ、お母さまなどご一緒に如何でしょうって」
「下手なナンパだな。慣れてないんじゃないの?」
「手をひらひらさせて言うんだよ。だからあたしも『ウチには母はおりませんのよっ』てお返ししたの」
「栞は妙な学園ライフ送ってるんだねえ」
「そしたら、では是非お父様をご紹介頂ければって、あたしだってそもそも知らない人なのに、なんでパパを紹介
しなくちゃいけないのよって、ちょっと腹立ってさ、『父上に申し伝えます』って言っといた」
「なんじゃそりゃ」
「また言って来そうな気がするんだよねえ」
「惚れられたってことか」
「んー。その後で澪が来てさ、あ、澪って一度一緒にウチでお菓子作った子ね、『栞さん、玉の輿コース行けそうですね』って。マジなのか皮肉なのかさっぱり判らん」
栞はパンを出してオーブントースターに入れる。左門がコーヒーメーカーのスイッチを入れ、二人のマグをカウンターに並べた。
「お坊ちゃんってことかい?」
「澪が言うにはね。あたしは知らないんだけど昔の貴族みたいな人なんだって」
「ふうん。国立大学にもそういうのいるんだ。簡単には入れない大学なのにな」
「澪が言うにはだけど、前から周囲の女子に、あたしの事聞いてたみたい」
チーン。トーストが焼き上がった。栞はトーストを籐の小さなザルに入れ、前夜に作っていたサラダとフルーツを冷蔵庫から出してテーブルに置く。左門がマグにコーヒーとミルクを注いで持って来た。
「いっただっきまーす」
栞が元気に手を合わせる。転がり込んだ日からずっと続く習慣だ。左門はコーヒーを一口飲むと
「栞に一目惚れしてたのかな」
「まあ、光栄ではあるけど」
「イケメン?」
「まあまあだね。人気あるんだよって澪が言ってた。当り前よねえ、そんなサラブレットなら」
「で、栞もいいと思ってるんだ」
「ううん。働いてないのにお金持ってる人ってちょっと信じられない」
左門は胸をなでおろした。真っ当に育っておる。左門はそのままその話は打っ棄っておいた。
銀杏の木も裸になり、木枯らしがニュースになる頃、栞の話にしばし出てくる友人、岡崎澪が遊びに来た。ストレートのロングヘアに眼鏡をかけたお嬢さんだ。
「お邪魔します」
澪は玄関で几帳面に頭を下げた。
「はい、いらっしゃい。栞の父です」
「お噂は伺っております」
「え?そうなの?栞、どんな噂だよ」
栞はしれっとして
「あるがままだよ。澪は私が捨て子だってのも知ってるし」
「おいおい、子犬じゃあるまいし」
栞は澪にスリッパを勧め、リビングに誘った。澪は左門を振り返り
「ご苦労されたお話しも存じております」
と生真面目に答えた。
何か調子狂うな。左門もリビングに入ると
「岡崎さんって前にも来たことあるんでしょ?栞がお菓子作ったとか言ってたし」
「はい。栞さんの女子力に感服いたしました」
そう言って澪は眼鏡を指でつっと上げた。
「栞、岡崎さんっていつもこういう言い方なの?」
「そだよ。上品で丁寧に喋る練習なんだって」
栞とウマが合うのが不思議な気がしたが、左門はふーんと打ち切った。栞がお茶を淹れ、朝から買いに行ったケーキを並べる。
「パパも一緒に食べよう」
「うん」
席に着いた澪は、何故か左門の顔を覗き込む。
「あのさ、俺ってそんなに珍しい?」
「いえいえ、栞さんから優しいお父様だとは伺っておりますが、やはり自分の目で人となりを確かめませんと」
「へ?」
栞も口を挟んだ。
「澪、何か怪しいな。パパへの縁談とか持って来た?」
「いえいえ、とんでもございません。わたくし、接客業を目指しておりますので」
「ふーん。ホテリエとか?」
「似てますが、敢えて言うとバトラーのようなものでしょうか」
「バトラーねえ」
左門と栞は顔を見合わせた。
栞と澪はそのまま大学や就職の話に夢中になり、仲間外れになった左門はスーパーへ買物に出かけた。二時間ほどで左門が戻るともう澪はいなかった。
「あれ?もう帰っちゃったの?」
「うん。夕方出かけるところがあるんだって。お父様にくれぐれも宜しくって」
「ふうん。何か変わった子だよな」
「まあね。突然声かけられたんだ。あまり友だちいなさそうだからお昼とか一緒に行ってるうちに、仲良くなっちゃって。でも大学の事もいろいろ知ってるし、あたし的には助かってるんだ」
「へえ。ま、バトラー目指すってのも珍しいよな、経済学部で」
「そう。バトラーってよく知らないんだけど、聞くと話が長くなりそうだから聞けない」
「はは。栞も大変だな」
左門は澪のこともそのまま忘却してしまった。ところが年が改まって1月、栞が帰宅するなりいきなり言った。
「パパ、ずっと前に言ってたやたらモノをくれる男子いたでしょ。澪が貴族とか言ってた」
「ああ、そんなこと言ってたなあ」
「ウチに来たいんだって。パパに会いに」
「はい? なんで?」
「どうも、澪が怪しんだよなあ。一緒に来るって言うし」
左門は考え込んだ。確かに澪は変わった子だったけど、元貴族が俺に会いたいのとどう繋がるんだ?まさか、栞の事で来るのではあるまいな。しかし、単に来ると言うのを断る理由はない。
「何だか解らんけどNOとは言えないんじゃないの?」
「だよねえ」
栞も乗り気でないのが左門には救いだった。