キルケゴール
初めに
不肖ながら私住友は
この度『キルケゴール』と題しまして
19世紀デンマークの哲人セーレン・キルケゴールの
思想の一端を簡単に紹介し、
またその思想の影響下にある
私自らの作品の発展の行方を
今一度確認する機会を設けたいと思い立ち
以下の文章を執筆・投稿いたしました。
これが読者諸賢の苦悩に対する
考え方の手引きとなるかどうかは
読み方捉え方次第でございますが
私の作品に長くお付き合いいただくための
助けになることだけは請け合いです。
全文で4000文字ほどの長さです。
ごゆっくりご鑑賞ください。
「全ての人間は絶望している。」
人間は全能ではありません。
自分の力の及ばない、
自分の意思が反映されない、
自分の目さえ届かない、
そんな突発的な事故、事件、トラブル、人間関係、
社会情勢の変化や自然環境の力、
因習や生まれつきのコンプレックス、病や寿命と
常に関係を持ち常に休むことなく
影響を受けています。
人間が自らの住む世界、
その歴史の流れに翻弄される様は
あたかも散りゆく草花の如しであります。
人間の幸不幸はほとんどの場合
周りの状況や動向次第、そして運次第です。
少なくとも一個人や一団体が努力の末に
森羅万象を統べるなどと言うことはあり得ません。
しかし同時に人間は全くの無力でもありません。
学校でも職場でも家庭でも市場や投票所でも
常に可能性や選択肢を持っており
言い換えれば常に選択を迫られています。
不安や希望、安定志向や上昇志向、
後悔の清算や未来への投資、快楽、苦痛からの逃避、
何か物事への没頭や熱中や熱狂または嫌悪や焦燥を
あの手この手で煽られ駆り立てられ
日々何かを創り出しあるいは破壊しています。
誰もが、直接的でなくとも必ず何らかの形で
こうした営みに参加しています。
自分が何を為すべきか、
自分はどうあるべきか、
自分はいかなる人間か、
自分は今どういう立場にいて
何を肯定し何を否定すべきか
誰の言う通りにすべきか、
誰の何を受け入れ
誰の何を拒絶するべきか。
ほとんど全ての人間がこうした悩みを抱き
明確な答えの出ないまま行動し判断を下します。
それで上手くいく場合もあれば
失敗し挫折する場合もあります。
上手くいってばかりのまま生涯を終える人もいれば
何もかも上手くいかない人もいます。
その中間の、失敗も成功も
ほどほどに経験している人は
一番たくさんいることでしょう。
どの人間にも共通して言えることは
常に無力感と可能性の狭間に
立たされているということです。
無力感と可能性の狭間で右往左往しないためには
どうすればいいのか?
自分の無力を嫌と言うほど思い知らされるような
過酷な状況の中で、
あるいは自分の欲や驕りに歯止めが利かないような
富と力と名誉の絶頂の真っ只中で、
自分を見失わないようにするにはどうすればいいか?
悩まない、安定した人間になるには
どうすればいいのか?
その答えを持っていない限り
例え世界の支配者になろうと
不安と絶望から免れているとは言えないのです。
「全ての人間は絶望している。」
私の身近にいるある人は『戦争は悲惨だ』と
口にします。
戦争の何が悲惨なのかと聞かれると、
銃で撃たれたるとか、家をなくすとか、
酷い火傷を負うとか、人肉を食う羽目に遭うとか、
学校の運動会をもっときつくしたみたいなものだから
しんどくない訳がない、悲惨でない訳がない、
と説明します。
そして『戦争してない今は悲惨ではない、
戦争を体験していない自分たちは悲惨ではない』と
暗黙の内に前置きした上で『平和を守ろう』とか
『戦争をなくそう』とかと言う訳です。
確かに戦争は悲惨です。
戦争は悲惨であることを訴える点において彼は正しい。
しかし悲惨というものを語る点においては
彼は失敗しており間違っている。
実際は彼も私たちも戦争していようがしていまいが
すでに目を覆いたくなるような
惨状に見舞われています。
彼は常に最先端の情報をチェックし
膨大な本を読み
人生訓や処世術を山ほど知っている。
そして「自分はかつて悲惨だった」とか
「絶望的な人間の悲惨さは見るに堪えない」とか
いうようなことを
豊富な知識と経験則を交えて情感豊かに語ります。
その様子は知的そのものであり
実際彼はある程度成功した人間でさえあります。
しかし、まさにそのことこそが
彼が悲惨に対して、言い換えれば絶望に対して
愚鈍であることの証明なのです。
「全ての人間は絶望している。」
絶望とは精神の規定です。
精神とは自己を意識する自己です。
そうした自己を喪失するのが絶望です。
絶望とは
「絶望的に自己自身であることを放棄すること、
あるいは絶望的に
自己自身であろうとすること」です。
それは絶望した人間が取る行動に
具体的な形となって現れます。
まずある者は絶望すると自己を放棄して
奴隷に徹したり仮面をつけるが如きに
自らの本性を隠し
他者や自分自身をあざむく生活をします。
またある者はやたらめったら怒鳴り散らして
凶暴な自己主張を繰り広げます。
自分の望みのためにひたすら他者を食い物にする
悪魔的人間へと成長する場合もあります。
ただちに自殺するケースは子供が絶望した場合に
多く見られますが全体から見ると少数派です。
そもそも絶望によって死ぬということ自体が
本来は例外的なことです。
少し逸れた話になりますが
絶望とは「自らの死を死ぬ」ことなのです。
今挙げたどの行動をも取らない人もいます。
単に絶望を意識する機会と遭遇しなかった
幸運な――ある意味不運な――人です。
しかし絶望に対して
無関心であり無意識だからと言って
絶望から免れている訳ではありません。
この人は学校に火を放たなかったり
親を殺さなかったり
友達の言いなりになって万引きを
働いたりしなかったり
顔の変な個所にニキビができてからかわれなかったり
明日から眼鏡をかけて登校せねばならないために
眠れない思いをしなかったり
身の丈に合わない責任重大な仕事を
押し付けられなかったり
結婚後浮気しなかったり
または浮気しても
浮気相手に子供ができたりしなかった
運が良い人です。たまたま運が良かっただけの人です。
彼の半生においては
殺したくなるような親や悪い友達、脅迫者や強奪者、
誘惑者、破壊者、破滅的局面が
一度も目の前に現れなかったのです。
このような全くたまたま平坦で
散文的な人生を送れたに過ぎない人が
果たして絶望を通して
人間の運命を知るに至ることなど
あり得るでしょうか?
人間の絶望に全く(幸福で安らかで
大満足でさえある面持ちで)
共感しないということだけが
『取り柄』のこの人間が
果たして絶望を超克していると言えるでしょうか?
何はともあれごく僅かな例外は除くとしても
大抵人は絶望に直面します。
生きていればいずれは絶望を
意識する時が訪れるのです。
先に述べたように無力感に打ちひしがれるような、
または何事も力で解決するような、
支離滅裂な将来の展望を描いたりするような
巨大な期待や責任や罪悪感に押し潰されそうな
経験をするのです。
絶望した人間は目立たないよう立ち振る舞ったり
もしくは自分の強さや怖さを誇示します。
これらはもちろん反社会的行動の契機になりますが
そう有害になるばかりでもないというのが肝です。
むしろ有益なエネルギーの
源泉にすら成り得るというのが
絶望の一筋縄ではいかないところです。
縁の下の力持ちとして活躍する、
凄まじい集中力を見せる、
手に職をつける、特殊な才能を開花させる、
積極的に人と関わる、
強さや過激さによって頼られる、
人気を得る。
絶望がきっかけで目覚めた性質が
社会と折り合いをつけるのみならず
その活動分野で功績を挙げ
名誉ある地位につき
歴史上の偉人と呼ばれるように至るまで
その人を引き上げることもあるのです。
その人生は最早感動的でさえあります。
しかし問題なのは人間は成功によって、
幸運や無関心や不注意によって
絶望を免れる訳ではないということです。
「全ての人間は絶望している。」
「罪の反対は美徳ではない。」
「罪の反対は信仰である。」
絶望とは何かを解明し尽くしたキルケゴールは
絶望した人間は『信仰』で救われるという
解答を導き出しました。
それもただの信仰ではなく
ただ一つキリスト教だけを
信仰するべきだと説きました。
キルケゴールがキリスト教を
格別と見なす根拠は
「絶望を『罪』として規定する唯一の宗教」
という点、
そして
「信仰を救済(=神)に対する態度だと
規定したこと」
の二点です。
キルケゴールは絶望からの救済に対し拒絶すること、
すなわち「強情であること」
最も「絶望的に自己自身であろうとすること」が
最悪の自己喪失であり最大の絶望であると説きます。
それを踏まえて「絶望は罪である」と言い、
「罪の反対は美徳ではなく信仰だ」と言い、
「異教徒は罪である」、更に「今のキリスト教会は
異教徒的である」として
教会を激しく攻撃します。
キルケゴールからすれば
信仰の本質を絶望に関する知見から説明しない者は
全て非キリスト者である訳です。
教会はキリスト教を説くことを看板にしている分
より罪深いと見なされたのです。
神(=可能性)を前にして信仰に至るか絶望するか、
この『あれかこれか』という問いこそが
キルケゴールの哲学の中核であり
キルケゴールが考えるキリスト信仰です。
ここに最も究極的な個人的問題に焦点を当てる
実存主義哲学の萌芽が見てとれます。
しかしキルケゴール自身もまた
「キリスト教は厳しすぎる」と漏らしている通り
自分も理想的な信仰に至れないことを認め
生涯に渡って自殺願望に苦しみました
(1813~1855)。
その後、キルケゴールの人間存在に対する
絶望的な見解を引き継ぎつつ
キリスト教を真っ向から拒否した男が
哲学史に登場します。
その男こそフリードリヒ・ニーチェ
(1844~1900)です。
「神は死んだ。」