5.二つの真相
山道を走り続けていたせいか、リクたちの体力は限界に近づいていた。ようやく目的地である時村家の屋敷が見えてきたときには、心から安堵のため息が出たほどだ。
門の前が異様に赤い光を放っていた。更に近付くと、サイレンが夜道を染め上げ、再び警官隊が大量にうごめいていた。
「おう、綾辻」
門の前には武彦がいた。傍らにはいつもどおりこのはも一緒だ。
更に言えば、菜緒の姿もあった。
「東刑事!? これは一体」
「それがだな……」武彦は咳を挟んで、「また出やがった。怪盗アリシアからの予告状が、な」
「なんだって!?」
リクが驚くと、武彦は屋敷のほうを見上げる。視線をゆっくり戻し、懐から一枚の紙を取り出した。
『今宵、全ての真実とスイートピーの丘を頂きます
クレフティス アリシア』
「と、いうわけなんですよ。綾辻君!」
このはが意気揚々に話しかけてきた。
「ちなみにあたしは、先生に頼まれて真紀ちゃんにプリントを届けにきたわけ」
「そんなことはどうでもいいんです!」
菜緒を無視して、リクは全力で屋敷のほうへ駆け出した。
「おい、コラ! 今屋敷の中に入るんじゃねぇ!」
「すみません、東刑事。でも、分かったんです」
遠巻きからリクは東刑事に向かって叫んだ。
「分かったって……何が?」
「茂一さんを殺した、犯人の正体ですよ!」
リクがそう言うと、武彦は眉間に皺を寄せて、「んだと!?」と鈍い声を出して彼に付いていった。
屋敷の中は、大勢の警官や警備員たちで賑わっていた。いや、ざわめき合っていたと言ったほうが正しいのかもしれない。彼らは今度こそといわんばかりに慎重にアリシアに備えてきちんと配置の確認をしていた。
そんな中に入っていったリクは、もちろんのこと警備隊にとめられた。しかし、自身の背の低さを利用してするり、と彼らの間を上手く通り抜ける。後からやってきた武彦が睨みを利かせると、彼らは萎縮して固まってしまった。そのまま菜緒とこのはは彼らの横を通り過ぎる。
そうしてたどり着いた先は、静江の部屋。
リクは深呼吸して、その部屋を開けた。さすがにここには警備員はいないが、何故かリクの緊張は止まらなかった。
ゆっくり、リクは部屋を開けた。
「多分この部屋を調べにくると思いましたよ」
そういうと、中にいた人物はゆっくりとリクのほうを向いた。そいつは元来の重い顔つきを、ただ黙って見据えるだけしかできなかった。
「時村茂一さんを殺したのは、あなただったんですね」リクはそいつを睨み付けた。「野岡さん!」
中にいた野岡大吾が、ゆっくりと近付いてきた。
しばらくして、後ろから武彦とこのは、そして菜緒もやってくる。
「どういうことだ?」
「野岡さんが、茂一さんを殺したっていうの?」
リクは静かに頷いた。
一瞬にして、皆が黙り込んだ。風が彼らの間を吹きぬけ、ゆっくりと髪を撫でた。
やがて野良犬の遠吠えが聞こえ、彼らの意識がはっと戻りかけた。しかし、完全にとまではいかず、まだ悪い酔いから醒めきっていないような感覚に陥っていた。
「おい、綾辻。お前あの夜、野岡大吾は見回りが終わった後五分もしないうちに部屋に戻ったって言ったよな?」
「そうそう。そんな短時間で茂一さんを殺して発火装置を取り付ける、なんてとても無理よ」
「そう思わせることがトリックだったんです」リクはもう一度呼吸を整えて喋った。「崖の下に突き出している岩を見て思ったんです。もしかしたら刀剣を被害者の胸に刺したのではなく、本当は被害者のほうから刀剣に刺さったんじゃないかって」
「どういう意味だ?」
「つまり、天井から刀剣に向かってまっすぐ突き落とされた。だから刀剣の根元まで被害者を貫いていたんです」
「まさか……」このはは首を傾げた。「どうやってそんなことを可能に……」
「そうか、あの棺桶か!」
武彦が言うと、リクは頷く。
「棺桶っていうと、被害者の上に乗っかっていた?」
「ええ。犯人はあらかじめ棺桶を逆さまにして天井に貼り付けた。そこに眠らせるなり気絶させるなりした茂一さんを入れて、燃えやすい紐のようなもので固定した。おそらく発火装置もその紐のところに付けられていたんでしょう。その真下に木の台か何かで固定した凶器の刀剣を置いて、灯油を撒く。そうすれば発火装置が作動した瞬間、紐が焼き切れて被害者はまっさかさまに刀剣のほうに落ちる、というわけです。野岡さんほどの体格ならそのぐらい可能でしょう」
「そ、それはないでしょ」菜緒が否定する。「事件の直前にあたしたちが見回りに行ったとき、そんな仕掛けあった? なかったでしょ。五分程度じゃそんなもの準備するのは不可能だし、やっぱり野岡さんの仕業じゃないでしょ」
「確かに。『全て』の仕掛けをセットするのは無理でしょうね」
「ほら、やっぱり……」
「しかし、刀剣を置いて灯油を撒くだけなら、すぐに出来ます」
「でもそれじゃあ……。あの見回りの時……」
そこまで言いかけて、菜緒ははっと気がついた。
「気付いたみたいですね。そう、それこそがトリックだったんです」
「どういうことだ?」
「あの時、コレクションルームの蛍光灯は切れていたのか明かりが点きませんでした。おそらく、点かないように何か細工していたのでしょう。仕方なく野岡さんは懐中電灯で部屋中を見回した」
「まさか……」
「ええ。実はあの時、既にコレクションルームの天井に、茂一さんが入った棺桶があったんです。野岡さんは天井にはわざと光を当てずに、堂々と僕らに部屋の確認をさせたんです」
あの時既に、部屋には茂一が……。そう思うと菜緒は少し震えた。
「仕掛けを施したのは、おそらく夕食前。野岡さんは茂一さんは夕食がいらないって言っていましたが、本当は既にコレクションルームの棺桶に入れられていたのでしょうね。そして夕食後、僕らに見回りを手伝わせてコレクションルーム内の様子を確認させる。先に僕らを帰した後、急いで刀剣をセットし、隠していた灯油を撒く」
「なるほど。だから被害者は棺桶の下敷きになっていやがったのか」
「でも、それだけじゃ……。証拠が全くないじゃない」
「証拠ならありますよ」
リクは懐から何かを取り出した。それはあの少女から預かってきたペンダントだった。
「それは……」
「このペンダント……。野岡さんが渡してくれたんですよね?」
野岡は依然として黙ったままだった。肯定と捉え、リクは話を続けた。
「あの人がこれを無くしたのに気づいたのは、見回りの直後でした。問題は野岡さんがそれをいつ拾ったか、です。見回りの際に拾ったのならば、すぐに渡すだろうし、それよりも前ってこともありえない」
「まさか……」
「ええ。刀剣をセットするために、野岡さんはもう一度コレクションルームに入った。そのときに拾ったんです。けど事件後すぐに渡したのではコレクションルームに再度入ったことがバレてしまう。だから彼は間を置いて彼女に手渡したんです」
リクはもう一度野岡を睨んだ。
一同も、重い空気の中、野岡をじっと見据えるしかない。
「認めるよ」
「えっ?」
野岡がようやく口を開いた。
「茂一を殺したのは俺だ」
「ウソ……」
野岡の告白に、菜緒たちは驚きを隠せない。そんな中、リクは冷静にもう一度彼を見た。
「野岡さん、ひとつ聞かせてください。あなたは何故、こんな方法を使ったんですか?」
リクが尋ねると、野岡は再び黙り込んだ。
「こんな方法?」
「アリシアの仕業に仕立てるにしても、もっと他にやり方があったはずです。トリックだってあまりに強引すぎるし、万が一バレるようなことがあれば犯人は確実に鍵を持っている野岡さんしかありえなくなってしまう」
「確かに……」
「それに、ですよ。茂一さんの殺害はここまで手の込んだ方法を用いたのに、何故静江さんのほうはあんなずさんな偽装工作を行ったのですか?」
言われて見て、一同は一斉に考え込んだ。しかし、そんな状況も長くは続かず、武彦は頭をポリポリと掻いた。
「あーっ! もう、おめぇは深く考えすぎなんだよ! んなもん署のほうで聞けば済む話だろうが!」
「ですが……」
「悪いな」野岡が少し後ずさりした。「今はお前らに構っている暇はない」
「おい、野岡!」
武彦が呼び止める間もなく、野岡はベランダのほうへと向かっていった。そしてそのまま柵を飛び越え、二階から中庭まで飛び降りた。そしてそのまま中庭に隠してあった黒いバイクに乗り込み、エンジンを吹かして走り去った。
「クソッ、奴を追え!」
「僕も……」
「お前はいい! 後は警察の仕事だ!」
武彦に怒鳴られ、リクは萎縮する。そして、とぼとぼと廊下へと出た。
――何故、こんな方法を?
リクは考えた。答えが出たはずなのに、まだ何か支えている箇所がある。もう一度、全てをブレイクしてみるのもアリかもしれないが、今はまだ……。
「真相に辿り着いたようね」
突然、廊下の奥から声がした。
ゆっくりと顔を挙げ、リクはその人物を認識する。それは、知っている人物だった。
「怪盗、アリシア……」
「なぁにぃ!?」
その言葉に気づいたのか、武彦とこのはも慌てて外へ出てきた。
彼女は不敵な笑みを浮かべながら、窓際に突っ立っていた。傍らには既に警備員たちが横たわっている。
「お、おい……」
「あ、アリシア様?」
アリシアはもたれ掛かった身体をゆっくりと起こし、リクたちを見た。
「安心して。眠らせているだけよ。それよりも、お子様探偵さん」
「僕を探偵って呼ぶな!」
「あらごめんあそばせ。では、そこのお子様。事件の真実のお味はどうだったかしら?」
「答える気はないね」
「そう。まぁいいわ。それよりも、いいことを教えてあげるわ」
リクはそのまま黙り、彼女の出方を眺めていた。彼女は懐から、一枚の大きなポスターを取り出し、リクのほうへと転がしていった。
丸めたポスターを紐解き、じっくりと眺める。リクは驚いた。そこに描かれていたのは、スイートピーの丘の絵、画質はやや劣るが、間違いなくそのものだった。
「これはある人物の部屋にあったものよ。これが何を意味するか分かるかしら?」
リクは少し考え、
「あの夜、僕が見たのは本物ではなかった」
「おそらくこのポスターと、もっと燃えやすい素材の額縁……。それこそ燃えても残骸の残らないようなもので出来た偽者だった。本物は事件前、既にあのコレクションルームから盗まれていたのでしょうね」
これでようやく絵が消えた謎は解けた。
しかしそうなると、更に分からないことができてしまう。
――あの絵を盗んだのは野岡さんじゃない?
茂一を殺害したのは野岡大吾。これは間違いない。しかし、ならば仕掛けを設置した時点で盗めばいいのであって、こんな燃えやすい複製を作る必要はない。
「おい、怪盗野郎! てめぇ、何をくっちゃべってやがる! さっさとお縄を頂戴しろ!」
「ついでにサインも頂戴……」
しびれを切らした武彦とこのはがおもむろにアリシアのほうへと向かっていった。
しかし彼女はすぐさま、背後の窓を開いた。同時に、外からブブブと鈍い音が鳴り響く。
風が凪いでいた。いや、近付いていた。武彦もこの音には聞き覚えがある。
「言ったはずよ。私はスイートピーの丘の絵を頂きに来るって」
窓の外に、大きな黒いヘリコプターがあった。するすると縄梯子が降りてきて、ちょうど窓の外へと垂れかかっていた。
「逃げんな!」
「私はただ寄り道をしにきただけ。今宵、どうしても盗みたいものがあるのでね」
「なるほど」リクはアリシアのほうへと向かっていった。「スイートピーの丘はこの屋敷内にはない、と」
「ご名答」アリシアは縄梯子につかまった。「既に別の場所へと移っているわ」
「おい、そりゃ一体……」
「アデュー」
武彦が聞く間もなく、アリシアを乗せたヘリコプターは鈍い音を立てて、空へと舞い上がっていった。
その間、リクはずっと頭を働かせて考えていた。
――もしかして?
アリシアを見届けた後、リクは再び静江の部屋に向かっていった。
整頓された部屋。写真で見たときのような荒らされた気配は皆無だ。現場保存のために荒れたままにされていた風景も、今ではただの部屋となっている。
周囲を見回した。そして、部屋の隅をじっと見つめた。
「あれが、なくなっている?」
リクははっと気が付いた。そして慌てた様子で部屋を飛び出し、武彦のほうへと向かっていった。
「おいおい、どうした?」
「東刑事。最初の事件の後、茂一さんに調査を制限されていたって言っていましたよね?」
「あ、ああ。そうだが……。調査出来たのはこの部屋と、あとは内部のほんの一握りだけだ。茂一の部屋なんか見せてもくれなかったし、あのコレクションルームに至っては近づけてすらくれなかったがな」
「ありがとうございます!」
リクは再び走り出した。
向かった先は、外。例の園芸用品置き場だった。
傍には真紀がいつも使っている園芸用品置き場がある。暗く、土の湿ったような匂いがそこに篭っていた。
道具類は比較的整頓されているが、ところどころ散らかっている。特に、入って右手の棚はかなりぐちゃぐちゃになっていた。
リクはペンライトを点し、辺りを見回した。そして、ひとつ小さなものが落ちていたことに気が付いた。
――あった。
それは小さなカーラーだった。年配の女性が使うような、褪せたピンク色の物だ。
「お、おい! 一体なんだって……」
追って武彦がやってきた。リクは振り向き、彼をじっと見据えた。
「分かりましたよ。全部、今度こそ――」
「んだと?」
「急いでください! 早くアリシアと野岡さんを追わないと!」
「ったく……」武彦は近くの警官たちに呼びかけた。おい、すぐに野岡を追え!」
「え、でも……」
「心配するな、こんなこともあろうかと、応援は呼んである」
武彦がそういうと、静かだった山の麓から、鈍いエンジン音が聞こえてきた。それも一台だけではなく、何台もが輪唱のように次から次へとやかましく、そして次第にどんどんその音は大きくなっていった。リクたちはその音のほうへ向かっていった。
「ちょうど来たようだな」
道の向こうから、真っ白なバイクが何台もやってきた。そのライダーたちは全て白い特攻服を着ている。彼らは一列に、バイクを道の脇に停めて武彦たちの前に整列した。
「な、なんなんですか、この人たち……」
「おう、俺の昔の舎弟よ」
舎弟といわれて、そういえばこの人は昔暴走族のヘッドだったということを思い出す。やってきた連中もモヒカンやら虎刈りやら、グラサンやら、果ては厚化粧のレディースやらと様々だ。
「先輩、お久しぶりッス!」
「自分、修行の甲斐あってケーキ屋さんになれました!」
「自分は今、うどん屋で働いています!」
「俺、製粉工場に就職が決まりました!」
「俺はまだまだ……。アルバイトですけど、ピザ屋で日々宅配しています!」
どうやらそれなりに真面目に働いている連中みたいだ。全員小麦粉を扱う仕事という点については、とりあえず突っ込まないことにしておいた。
「さぁ、お前ら! 急いで野岡を捜すぞ!」
「ウッス!」
心地よく整った返事を返して、彼らはまたエンジン音を唸らせて走り出していった。
――多分、あそこだ。
思い当たる節があったリクは、その場所へと急いで向かっていった。
街路樹の中に入り、街灯りは次第に褪せていった。少女はすっと息を飲み干し、拳を握り締めた。
今夜、最後の決着をつける。今回ばかりは自分の手でしなくてはならない。
そう、全て――。
真実を盗む怪盗、アリシアとして――。
「怪盗アリシア、今宵この事件に隠されたもう一つの真実……盗ませていただきます!」
重いスーツケースを手に、彼女は山道を歩いていった。思い出の場所を見るのも、今日が見納めになる。いや、もう思い出なんてものはない。全て、壊れてしまったのだから。
スーツケースには、自らの罪の証が入っている。もう後戻りはできない。既に壊れているのだから、もうこれ以上何が壊れても後悔はない。
しばらくして、ようやく思い出の場所に辿り着いた。何も変わっていない。薄汚れてはいるものの、そこは以前の面影をずっと残していた。
中に入り、奥へと進んでいく。少しずつ、心臓が高鳴る。これでいいのだ、もうこれ以上何が壊れても後悔はない。ただひたすら、自分にそう言い聞かせていた。
スイートピーの畑が見えた。この景色は未だに変わらない。これだけはなんとしても守りたい、絶対に……。
「腹は括ったようやな」
どこからともなく、野太い男の声が聞こえた。振り向くと、脂ぎった太いスーツの男がスイートピー畑に立っていた。
「あなた……」
「ホンマ、いろいろあったわ。茂一の奴が死んで、うちの組はメチャメチャ……散々な思いをして、ようやくあんたを手に入れられるっちゅうわけや」
彼女は黙り込んだ。もう、誰でもいい。自分の人生は、壊れきったのだから。
これから自分は、この男のもの、もしくは知らないどっかの汚い男のものになるのだろう。
「さ、行くで。こっからマニラまでハネムーンとしゃれ込むとするかい」
「約束は守ってくれるんでしょうね」彼女は尋ねる。「この、畑だけは絶対に守ってくれるって……」
「あん?」
男は彼女を睨みつける。
「言ったはずや。これでもワシは極道やからな、それなりに約束は守るって」
そういわれて、彼女は少し胸を撫で下ろす。
やがて、ざわ、と嫌な風が木々を揺らす。これは二人を祝福しているのだろうか、それとも自分の愚行を咎めているのだろうか。いや、後者だろう。ここにいるスイートピーたちは、今の自分の姿を見て、さぞがっかりしているに違いない。
でも、もう決心したことだ。ここから新しい、人生と呼べないような人生を歩む、それこそが自分に残された最後の道なのだ。
そう思った瞬間だった。
「行ってはならないわ」
どこからともなく、女性の声が聞こえてきた。
「誰や!」
男は大きく怒鳴る。しかし、聞こえるのは風のざわめきだけ。
彼女はゆっくりと周囲を見渡す。そして、そこに一人の女性が立っていた。
「そんな男の言いなりになったって、あなたは幸せにはなれない。誰もそんなことは望んでいないわ」
その女性は、ゆっくりと彼女らに近づいていった。
明らかに奇抜な格好だった。黒いレオタードに、これまた黒い眼帯。ポニーテールを靡かせ、彼女はスイートピーの上にゆっくりと立っていった。
「そうよね、時村真紀」
真紀ははっと気がついた。
「まさか……怪盗アリシア?」
「なんやて?」
男はキリキリと歯軋りを立てながら、彼女を見据えた。怪盗と呼ばれた女を見ると、彼女は澄ました表情を変えることなく、じっとこちらを眺めていた。
「あなたがしなければならないことはただひとつ。時村静江の殺害を認めて、警察に出頭すること」
怪盗の言葉に、真紀は身体を震わせた。
もう、遅いのだ。誰が説得しようとも、全て壊れてしまったのだ。今更出頭したところで、それこそ誰も望まない結末になってしまう。
「はっ、泥棒さんがよう言うわ」
男は鼻で笑った後、
「しかしちょいと気になるな。この娘が何で静江はんを殺さなあかんかったんや。その辺について説明してもらおうか」
アリシアはこくん、と頷いた。
「そのスーツケース。亡くなった静江の部屋から持ち出した物よね。もしかして、中にこのスイートピーの丘の絵が入っているんじゃないかしら?」
「なんやて?」
男は無理矢理彼女からスーツケースを取り上げ、中を確認する。するとそこには彼女の言うとおり、一枚の絵が隠されていた。
「ホンマや……。なんで嬢ちゃんが?」
「簡単なことよ。真紀、あなたがすり替えたからよ。コレクションルームにあったその絵を、偽者とね」
真紀はしばらく黙り込んだ。
そのまま、アリシアは話を続けた。
「茂一が殺された後、あなたは慌てたはずよ。これまで茂一のおかげで制限されていた屋敷の捜査が、彼が殺されたことで屋敷全体に及んでしまう。そこであなたが咄嗟に思いついたのが、既に調査済みの場所に隠してしまうということ」
「なるほどな。それでそのスーツケースというわけか。よう考えたもんや」
男は心無い感心を言い放った。
「おそらく、すり替えられたのは大分前……。静江殺害の事件が起こる直前じゃないかしら。なんとかしてあのコレクションルームに忍び込んだあなたは、その絵を偽者とすり替えた」
「しかしすり替えられた絵は茂一はんが殺されるまでどこに隠しとったんや?」
「おそらくは、あの園芸用品置き場よ」アリシアが言うと、真紀ははっと目を見開く。「花壇の手入れをするのはあなただけ。当然、あなた以外の誰もがあそこに入ることはないでしょうね。それを利用して、あなたはずっとあそこにその絵を隠していた」
しばらく真紀を見つめた後、アリシアは話を続けた。
「おそらく、静江が殺害された夜……。あの日、外は雨が降っていた。あなたは夜中にふと絵が気になって、こっそりと抜け出た。しかしその姿を、運悪く起きていた静江に見つかったのよ」
真紀はふと自分の両手を見つめた。
あのときの感覚は一生忘れることはないだろう。
「ええ。そうよ……」全て観念したかのように、真紀は答える。「静江は止めようとした。おそらく彼女は夫の悪事を全て知っていたのでしょうね。それが明るみになれば、夫はおろか、自らの社長夫人という立場も危うくなってしまう。相当彼女は力強く襲い掛かったはずよ」
「そこで静江はんを……」
「ええ。本当の殺害現場はあの園芸用品置き場でしょうね。凶器はおそらく鎌か何か。ルミノール反応を調べれば一発で分かるわ」
そこまで聞いて、男は眉間に皺を寄せた。
「いくらなんでも都合良すぎやろ。まさか、茂一はんが共犯者みたいに……」
そして男ははっと気が付いた。
それこそが、茂一のやり方だったということに。
「真紀。もしかしてあなた、茂一に脅されていたんじゃない? 絵を隠すところを静江に見られて殺害。更には静江を殺害するところを、今度は茂一に見られた」
「そうよ」真紀は大きく叫んだ。「伯父様に見られて、私はもうどうしようもなくなっていたわ。この世の終わりだ、と思った。けど伯父様は、そんな私にひとつの提案をしたのよ」
「それが怪盗アリシアがやったように見せかけるという偽装工作ね」
真紀は静かに頷き、
「ええ。死体を現場から離れた伯母様の部屋に移して、付着した泥を誤魔化すために植木鉢を割った。幸か不幸か、この絵をすり替えたことは伯父様にはバレなかったから、殺害の動機を適当にでっちあげてそのまま園芸用品置き場に隠しておいたわ」
真紀は泣き始めていた。彼女の白い肌に、一筋の雫が滴っているのが分かる。
「伯母様の部屋に飾ってあった絵を怪盗が盗んだことにして、偽装工作してくれたわ。全て、私を庇うため……」
「あなたはそう思っていた。けど実際は違ったみたいね。茂一は仙道組とつるんで人身売買行為にも手を染めていた。それでなくとも、愛人を至る所で作っていたみたいだし。ある意味邪魔だった妻もいなくなって、一石二鳥とでも考えたんじゃないかしら」
アリシアが男を見つめると、わざとらしく目を逸らした。
「伯父が私の身体を狙っていたのは分かっていた。姪、しかも血の繋がっていない赤の他人である私を、あの人は内心物扱いしていたと思います。でもあの時の私には他に頼れる人がいなかった」
「なるほどね……。そして」
アリシアは男を鋭く睨みつけた。
「あの男に売り渡す約束をしていた。そうよね、仙道!」
「う、ぐぐ……」
しばらく言葉を詰まらせた後、仙道はふっと噴き出して、
「あはははは! こら傑作やな!」
「何がおかしいの?」
仙道は腹を抱えながらこちらを見据えた。
「あー、ホンマ阿呆らしいわ。そんなんがこの事件の真相やったなんてな。怪盗はん、あんたも気の毒やな。茂一はんのせいで殺人の濡れ衣まで着せられて」
そういわれて、真紀はうな垂れながら泣き出した。
「私はただ、あの絵とこの場所を守りたかった。思い出をただ守りたかっただけ……」
「ははは、なるほど。片腹痛いわ」
「あなた、何で笑っていられるの?」
アリシアの言葉に、次第に怒りが込みあがってくる。
「いやぁ、茂一はんに突然『いい女が手に入りそうだ』なんて言われたから、何事かと思ったらそういうことかいな。ホンマ、あの男には天国に向かって感謝せなあかんな」
「こんな言葉使いたくはないけど……」アリシアは全身全霊をこめて仙道をにらみつけた。「クズね、あんた!」
「おおきに。最高の褒め言葉やで」
今度は真紀のほうを見つめる。
「嬢ちゃんも、そないな理由で人殺したらあかんで」
仙道はふっと鼻で笑い、彼女を見つめる。
そして、グシャ、と彼の足元から音が漏れる。そこには潰れたスイートピーの鼻が無残にも汁を垂らしていた。
「こないなもん守ろうとして……。知っているんやで。嬢ちゃん、この施設の出身なんやろ。でもな、あんたがいくらがんばっても、この土地をゴルフ場にする計画は進んでいるんや。とっくに時村グループではない、別のところに頼んで、な」
「あなた……」
アリシアは睨み付けた。なんとか冷静を保とうとするが、彼女の内心には激しい怒りが込み上げていた。
「しかしまぁ、怪盗はん。どうやらあんたもでしゃばりすぎたようやな」
仙道は懐から黒い拳銃を取り出した。銃口をアリシアのほうに向け、カチッと音を鳴らす。
「何するつもり?」
「あんた、ホンマに邪魔や。怪盗とか呼ばれているあんたのことや。どうせ、この嬢ちゃんを取り戻しにきたんやろうが、そうはさせへんで」
銃口を見せつけながら、仙道はただひたすら睨みつける。
「ワシはな、今回の事件で、組も、大事な商売相手も失っとるんや。せめてこの女だけでも手に入れへんと、割に合わんわ」
「やっぱり、あなた最低ね」
――パンッ!
銃口から破裂音が響き渡る。当てるつもりはないが、彼女の右頬に強烈な旋風が通り過ぎていった。
「次は当てるで」
仙道は更に拳銃を強く握った。
「いいのかしら。外国へ逃げる前に、いずれ警察が来るわよ」
「ふんっ、捕まるわけないやろが、ボケが!」
「警察だけじゃないわ」アリシアはじっと仙道を見つめた。「いずれ、本物の探偵さんがやってくるわよ」
しばらく仙道は黙った。
「なんや、それ?」
「言葉通りの意味よ」
仙道は呆れたようにため息を吐き、舌打ちをした。
「馬鹿にすんのも大概にせい。あんたが助かる方法はただひとつ、すぐに逃げて二度とワシらの前に現れんことや」
「あらあら。人の話を聞かないのね」
その瞬間だった。
――ビュン!
仙道の横を、何かが掠めた。勢いよく投げられたそれは、カランカラン、と音を立てて彼の後ろを転がる。
「何者や!」
仙道は大きく叫んだ。
「言ったはずでしょ。本物の、『探偵さん』がやってくるって」
そういって、アリシアは背後を振り返る。
そこにいたのは――。
「僕を、探偵って、呼ぶなあああああ!」
肩で息をしながら、右腕を大きく振りかぶった少年、綾辻リクの姿だった。
彼を見るなり、仙道は開いた口が塞がらなくなった。
「な、なんや。ガキやないかい」
「ああ、僕は子どもだよ。それが?」
「なんや今の球? 近所の坊主でももっと強い球投げられるわい!」
――バキュン!
彼の持っている拳銃の銃口が、再び火花を噴いた。
「うぐっ!」
突然、リクは右腕を押さえ、その場にへたれこんだ。よく見ると、彼が押さえているところが赤く染まっている。
「りっくん!」
思わず、アリシアは叫んだ。幸い、彼女の声は誰も気に留めなかったのか、皆仙道のほうを向いたままだ。
「ふざけんなや。大人をからかうとなぁ、こないな目にあうんやで」
「ふざけているのはあんたのほうでしょうが……」
「まだ分からんようやな。言っておくがワシは気が短いんや。たとえ女子どもであろうと、舐め腐った真似する奴らは全員殺したる」
仙道はもう一度銃口をリクに向けた。
「やめて、やめてええええええ!」
真紀が叫ぶ。アリシア、いや少女は叫びたかったが、もう声は出なかった。
「ガキ。時間をやる。ごめんなさい、って言え」
「それはおかしいね。謝るのは、自分が悪いことをしたときだって、道徳の授業で習ったんですが」
「そうや。坊主は今すっごい悪いことをしているんや。だから……」
「馬鹿ですね、あなた」
リクは怯える素振りを見せることなく、ずっと笑っている。
「あなたがそれを言っていられる状況ですか?」
「なんやて?」
「僕は力も弱いし、まだ子どもですし、誰かを守るなんてとてもじゃないけどできません……」
リクはキリッと仙道を睨みつけた。
「でも、僕はもう一人じゃない。僕は僕に出来ることをやる、それだけです!」
「何ゴチャゴチャ訳の分からないことを……」
「分かりませんか?」リクはふっと笑う。「僕がここに一人で来たと思ったら大間違い、ってことですよ!」
「あん?」
そのときだった。
風が、強く吹いた。木々から葉っぱという葉っぱが舞い落ちるほどの、強烈な風だった。
その瞬間――。
「仙道!」
力強い声と共に、ガツン、という鈍い音が聞こえる。そこに現れた男は、仙道を殴り、そのままのしかかって押さえつけていた。
すぐさま放れた拳銃を、リクは左腕で回収する。仙道もなんとかあがくが、体格のいい男に羽交い絞めにされたままでは身動きが取れなかった。
「よくやったな、探偵」
男は仙道を押さえつけたまま、男はリクに笑顔を贈る。それは今までに彼が見せたことのなかった、賞賛の笑みだった。
「僕を探偵って、呼ばないでください」
リクもまた、男に笑顔を返した。
「あれは……」
アリシアは男のほうをじっと眺める。
「の、野岡さん!?」
真紀は唖然とした。仙道を押さえつけている男は、紛れもなく野岡大吾だったからだ。
しばらくして、パトカーのサイレンとバイクのエンジン音が聞こえてきた。仙道はまるで魂が抜けたかのように、一気に全身の力を無くしていった。
「でも野岡さん、どうしてここに? りっくんも何故一緒に?」
「園芸用品置き場に静江さんのカーラーが落ちていました。そこからこの事件の真実に気付いて、もしかしてと思ってここに来たんです。そうしたら偶然、野岡さんも来ていて……」
傷口を押さえながら、リクは答える。
やがて、入り口のほうから何人もの人間の足音が聞こえる。
「もう逃げられないぞ、怪盗と殺人犯とあと……」
第一声はこのはだった。なんとも緊張感のない声で、彼女はビシッと指を差す。
「おい、もっとちゃんとやれよ」
ため息混じりに、武彦が現れる。奥からは警官隊と、白い特攻服を着た連中がわんさかとやって来た。
「仙道。観念しろ。もうお終いだってことぐれぇ、その足りない脳味噌でも分かってんだろ」
仙道は何も言わなかった。一気に老けきったその男の手首に、武彦は手錠を掛けた。そのまま近くにいる警官にアイコンタクとを送り、仙道は連行されていった。
「真紀」
野岡は彼女に近づき、しゃがんだ。
「俺たちも行こう」
「えっ?」
「俺たちのやったことは、決して許されることじゃない。その罪はきちんと償わなければならない。分かるな」
真紀は静かに頷いた。
そして野岡はそっと彼女に手を差し伸べた。
「これから先、辛いことがいくつもあると思う。でも、俺はお前とずっと一緒に歩んでいきたい」
真紀は差し伸べられた手をそっと触れて立ち上がった。そしてそのまま手を握り、二人はスイートピーの畑を眺めた。
「まさか、あの絵って……」
武彦は気がついた。あの絵に描かれていた少年少女の姿、それはまるでここにいる二人にそっくりだということに。
野岡は優しく頷いた。
「全てを話そう。俺も実はこの施設の出身だった。そこで、六つも下の妹のような少女と出会った」
野岡はふいに真紀のほうを見る。
「彼女と俺はまるで本当の兄妹のように育っていった。しかし俺が中学に上がる少し前、彼女を引き取りたいととある資産家が現れた」
「それが私です」
真紀が答える。
「私は親が欲しかったけど、大好きなお兄ちゃんと離れるのも辛かった。そんな私を見て、引き取られる少し前にお父様はフランスから高名な画家を呼び寄せました」
真紀はスーツケースから例の絵を取り出した。
「『いつか大きくなったら、二人でまたここにおいで。そのときまでこの絵はここに飾っておくよ』とお父様は言ってくれました。けど……」
「俺は真紀に再び会いたくて、時村家の屋敷に使用人として働き始めた。しかしそのときには既に誠太郎様は亡くなっており、旦那様……茂一が主人となっていた。そしてなんとか気に入られて、俺はあのコレクションルームを任されたときに、驚くべきものを見た」
「施設に飾ってあるはずのあの絵が、ここにあったんですね?」
「ああ。そして俺は調べた。あの施設を不当な地上げ行為で手に入れた連中がいることに。そしてその裏に、茂一の姿があったことに……。更にあの男は、真紀すらも自分のものにしようとしていた!」
「野岡さん……」
「静江が亡くなった後、俺は真紀の部屋の前を通りかかった。そのとき、お前は泣いていたな。伯父様に見られてしまった、と。俺は気になって、茂一の部屋に向かった。そして中から電話の声が聞こえてきたよ。『いい女が手に入った。もうすぐ俺のものになるから、お前らにもお裾分けしてやる』ってな!」
野岡はそういいながら、そっと真紀を抱きしめた。
「俺はなんとしてもお前を守りたかった。コレクションルームにあった絵が偽物だということにはすぐに気付いたよ。だから俺はいっそ全てあの部屋を燃やしてしまおう、そう考えた」
「ごめんなさい、野岡さん。私のせいで」
「お前のせいじゃない。お前の苦しみに気付いてやれなかった、俺が悪かったんだ」
野岡は立ち上がり、アリシアのほうを向いた。
「あんたにも迷惑を掛けたな。茂一の殺害もあんたに罪を着せるしか、俺には思いつかなかった。すまない……」
「いいのよ、別に」
アリシアはふと、あのペンダントのことを思い出した。
――あなたが守ったのは真紀だけじゃない。私の思い出もまもってくれたんだから。
「それじゃ、バイバーイ」
途端にひょうきんになったアリシアはそのまま例の崖へと向かっていく。
「おい、てめぇ!」
武彦が慌てて追いかけたときには、既に遅かった。彼女の身体は崖下に真っ逆さまに落ちていき、音も立てずにそのまま消えていった。
「おい……自殺か?」
武彦は慌てて崖下を覗く。しかし、そこには既に彼女の姿は影も形もなくなっていた。どういう方法を使ったのかは分からないが、もう彼女を追い詰める気力は残っていなかった。
「あーあ、アリシア様を逮捕できるチャンスだったのに……」
このはは残念そうに呟く。
間髪を入れず、リクは口を開いた。
「いいんですよ。あの人は何も盗んではいません」
痛む右腕を押さえながら、リクはずっとスイートピーの畑を眺め続けていた。「あの人は守ろうとしたんです。みんなの大切な思い出を」
「ったく……」
武彦は呆れながら、ずっと頭を掻いていた。