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3.アリシア、始動

翌日、放課後。

 いつもの喫茶店で、リクは武彦とこのはと向かい合うように座っていた。ただしいつもと違うのは、リクの隣に二人――例の少女と菜緒が何故かいることだった。

「さて、最初にひとつだけ聞いておきたいことがある」

「はい」

 武彦は頷いて、目の前の二人を睨んだ。

「なんでお前らがここにいるんだ!?」

 武彦が尋ねると、二人は不思議そうな顔で見つめあって、

「だって面白そうだし」

「りっくんが刑事さんとどんな話をしているのか気になって」

「お前ら、なぁ……」

 武彦は菜緒に視線を集中させた。

「あの屋敷にいたのもあれだろ。お前のことだから、どうせバイト代稼ぐついでに、潜入調査とか言って事件を綾辻に解決させて、俺に恩を売って小遣いもらう算段だったんだろ?」

「パパすごーい。あったりー」

 取り繕う様子も見せず、菜緒はにっこりと笑む。

「小遣い欲しけりゃ言えよな、まったく」

 武彦は財布から一万円札を取り出して菜緒に手渡す。受け取った菜緒は、明らかに感謝していないどころか、計画通りとでも言いそうな雰囲気を醸し出していた。

「親としてそこは叱る場面じゃないんですか?」

 とリクは突っ込むが、馬鹿親子たちの耳にはどうやら届いていないようだ。

 気を取り直して、事件の話を始めよう、とリクは思った。

「まず、あの焼死体だが、茂一と歯型が一致した」

 武彦の発言に、リクたちは一斉に固唾を呑んだ。

 死体そのものは見ていないが、死体は完全に焼けただれて身元の判別が難しい状況だった。今までは腕時計でしか茂一だと分からなかっただけに、誰の死体か確証が持てたことは大きかった。

「やっぱり、茂一さんだったんだ……」

「正直腹立たしい親父だったが、ああやって死んじまうと、な」

 武彦はチッと舌打ちを投げた。

「それで、東刑事はこの事件をどうお考えですか?」

「お考え、というと?」

「この事件は、怪盗アリシアの仕業だと思いますか?」

 直球な質問を、リクは武彦に投げかけた。咥えた煙草を一旦消して、武彦は腕を組み直した。

「それなんだよな。はっきり言って、奴の仕業にしてはいささか乱暴すぎるんだよ。いくらターゲットを盗むためとはいえ、剣で人を刺した上に火まで放つなんてな」

「本当に分からないことだらけですね」

「とにかく時村夫妻の殺害に関しては分からないことが多すぎる。署内じゃ犯人はアリシア派と別の人間派が議論してるぐれぇだし」

「アリシアの仕業じゃありません!」

 声高に叫んだのは、このはだった。驚きのあまり、リクと武彦は目を丸くして彼女を見つめた。

「どうしたんだ、一体」

「東刑事。私もあれから独自に怪盗アリシアが以前に起こした事件を洗い、徹底的に調べました」

 おもわず、皆が「おお~っ」と声を挙げる。

「やるじゃねぇか」

 武彦が褒めると、このはは得意げな顔で、

「アリシアの事件担当になったからにはこれぐらいするのが当たり前ですよ。その私から言わせてもらえば」

 このはは鞄から次々に物を取り出した。アリシアの事件の切り抜き、アリシアの後姿の写真、アリシアのブロマイド、アリシアのぬいぐるみ、アリシアの文字盤の腕時計、そしてアリシアファンクラブの会員証、その他諸々のアリシアグッズ。

「あのお方が殺人なんて卑劣な真似するわけないじゃないですか!」

 一同、唖然。

「とりあえずお前、刑事やめろ」

 どう調べたらここまでのアリシアファンになるんだ、という突っ込みをこらえながら、武彦は頭を抱えた。

「でも宮古刑事の気持ちも分かるなぁ」

 今度はあの少女が声を発した。

「君なら分かってくれるよね、私の気持ち」

 このはがすがるような声で彼女に話しかけた。

「まぁアリシアファン、ってわけじゃないけど、私はアリシアの気持ちがなんとなく分かる気がする」

「どういう意味ですか?」

「だって、アリシアって真実って意味でしょ? 真実を求める怪盗、それがアリシア。そんな人が到底人殺しなんてするとは思えないんだよね」

 真面目な顔で語る少女に、リクは

「絶対に人を殺さない、なんて人はいません。例えば盗む瞬間を見られたとかで悪い偶然が重なり、結果的に人を殺す可能性なんて、人間誰しも秘めているんですよ」

「それでも」少女は真剣にリクを見つめる。「アリシアは、最後まで誰も傷つけない方法を考える。ましてや、殺した上に火を放つなんて方法、絶対にしない。私が怪盗だったら、そうする」

 再び沈黙が流れた。すっかり彼女のペースに巻き込まれてしまいそうになるぐらい、彼女は真剣だった。

 一息ついて、リクは目線を再び武彦に移した。

「一応、僕たちも当事者なんで、警察として何か聞きたいことありませんか?」

「あ、ああ。それじゃあ事件当夜のアリバイについてだが」

 武彦は警察手帳を開いた。

「最初に確認だが、事件が起こる三十分くらい前、つまり八時半にお前らはあのコレクションルームに入ったんだよな?」

「はい」

「うん。でも、あの絵もちゃんとあったし、中には私たち以外誰もいなかったよね?」

「ええ。鍵だって、入った後でちゃんと掛かっていたのを確認しました」

「なるほどな。じゃあ次だ」

 武彦は菜緒のほうを見た。

「お前たち三人は、その後一緒に風呂に入ったんだよな」

「うん。そのとき、窓からあのコレクションルームが燃えているのが見えた」

「怪しい奴は見なかったか?」

「見なかったわよ」

「怪しい奴に見られていなかったか?」

「何の心配してんのよ!?」

 つい親馬鹿精神が出そうになったので、武彦は一旦咳払いを挟んだ。

「綾辻、お前は?」

「ずっと居間で待機していましたよ。夏目さんも一緒でした」

「夏目って、あのチャラい使用人か。何でまた一緒だったんだ?」

「あの人、仕事が終わって見たいテレビがあるからってずっと見ていたんです。で、すぐに野岡さんも部屋にやってきました。多分八時四十分くらいだと思います。同じタイミングで梨音さんも帰ってきました。で、夏目さんとチャンネル争いしてたら、真紀さんたちの悲鳴が聞こえてきて……」

「なるほど。屋敷のみんなとの証言も一致している。全員にアリバイが成立、か」

 武彦はコーヒーを一口啜った。

 これがもし怪盗アリシアの仕業ではないとすれば、事件は中にいた者たちの可能性が高い。だが、全員にアリバイがある以上、それも白紙に戻る。

 アリシアではない別の外部犯の仕業か、とも考えたが、そもそも部屋が密室の時点で無理な話である。

「それと、放火はどうやら自動発火装置のようなものによるものらしい。茂一の遺体の傍に残骸が落ちていた」

「遺体の、傍?」

 その台詞を聞くな否や、リクはボールペンを口に咥えて腕を組んだ。

「どうした、綾辻?」

「いえ、ちょっと……。何か引っかかりますね」

 しばらく、リクは黙り込む。推理好きな小学生特有の考えすぎかも知れないが、それが事件の真相につながったことは何度もある。武彦はそれを見越して、ゆっくりと視線を逸らした。

「あとは、そうだな……。例の絵も結局コレクションルームから見つからずじまいだってのと……」

「えっ、見つからなかったんですか?」

「ああ。他の絵ははっきりと燃えカスが残っていたのに、例のスイートピーの丘に関しては全くなかったな」

 ということは、リクたちが見回りに行った後に盗まれたということになる。殺人と同様に、そちらに対する謎も残ってしまった。

「まぁそんなところだな」

「ええぇぇぇぇ!」

 菜緒が突然叫びだした。

「パパぁ、本当にそれだけなのぉ? パパって優秀な刑事だからぁ、実はとぉんでもない捜査情報を隠しているんじゃないのぉ?」

「いや、それはな……」

 武彦がしどろもどろになりながら、コーヒーを啜るペースを速める。

「東刑事、いくらなんでも限度ってものがありますよ」

「わかってるっての」

 武彦は咳払いを挟んで、

「この写真なら見せても大丈夫だろう」

 分かっていない。さすがにこれはこのはも呆れてため息を吐いた。

「この写真なんだが」

 武彦は懐から写真を取り出す。それは、現場にあった刀剣――燃えてはいるが、おそらく凶器になったものだろう――だった。

 武彦は、柄の部分を指差した。

「このマーク、何に見える?」

 焦げてはいるが、彼が指差した箇所には、何かしら彫られた跡が見られた。

 山、の字のように見えたが、その左にも何か見える。どうも片仮名の「イ」のようだ。

「漢字の『仙』じゃないんですか?」

「そ、そうか」武彦は写真を懐に仕舞い、「いやな。どうもこれがどっかで見たことがあるような気がしてならないんだ。俺の気のせいだといいが、気になってな」

 そういうと、菜緒はボソッと、

「ダメ刑事」

 と呟いた。

「何か言ったか?」

「ううん。それじゃ、パパお仕事がんばってねぇ」

 にっこりと笑いながら、菜緒は席を立った。つられて少女も席を立ち、「すみません」と会釈をして立ち去っていった。

「よし、休憩は終わりだ! 引き続き捜査に戻るぞ!」

 意気揚々と、武彦はコーヒーを飲み干した。その彼の顔は、どこかニヤついていた。



 マンションに戻った矢先、菜緒は真っ先にパソコンの前に座った。少女はベッドに座りながら、彼女の姿をじっと見つめる。

 一応この部屋は少女のものではあるが、パソコンはほとんど菜緒が使用している。彼女にしか開けないデータも大量だ。

「あーあ、パパったら本当にダメなんだから」

「そんなこと言わないの」

 少女が優しく諭す。

「だってさ」

 菜緒は画面をクリックする。そこから大量のウインドウが溢れ出し、やがて収まった。

「情報に疎すぎるでしょ、いくらなんでも」

 ウインドウに、一人の男が映し出される。大柄で太り気味の、スキンヘッドの男だ。柔道でもやっていそうなほどの体系だが、趣味の悪い黒スーツ姿が残念なほどに似合わない。

 その男の左胸に、見覚えのあるバッジが着けられている。菜緒は更にそこをクリックして画像を拡大した。

「やっぱりね」

 男の胸には、あの「仙」の字が刻まれたバッジが添えられていた。

「やっぱり、仙道(せんどう)組のマークだったか」

 画像とにらめっこをしながら、菜緒は笑みをこぼす。

 仙道組の名前は少女も知っていた。この界隈を取り仕切っている大手の暴力団であり、その仕事は仁侠映画にありがちな堅気ではなく、違法な地上げ行為、覚せい剤、賭博行為などの全うな犯罪のみである。

「ちょっと……。何で仙道組の紋が入った刀が真紀ちゃんの家にあるの?」

「決まっているでしょ」

 菜緒は少女のほうを向いた。

「時村グループと仙道組は繋がっていたのよ」

 淡々とした菜緒の説明に、少女は唾を飲み込んだ。

「そんな……。だって、時村グループって、この町で一番大きな企業でしょ? それに真紀ちゃん言ってたよ、『お父さんは誠実で卑怯なことが嫌いな、すごい人だった』って」

「確かに。先代、つまり真紀ちゃんのお父さんの時なら暴力団とつながることなんてなかったでしょうね」

 菜緒は邪魔なウインドウを閉じて、新しいページをクリックした。

「でも、現社長、つまり茂一の代になってからそれらが一変した」

 菜緒はパソコンの画面を少女に見せる。その瞬間、彼女の開いた口が塞がらなくなった。

 写真には、おそらくどこかの料亭のような場所が映っている。そこには見覚えのある男が二人――茂一と、さきほどの仙道組長が向かい合って酌を交わしている姿だった。

「これって……」

「彼らの関係を調査していた、とある記者が撮影した写真よ。多分、彼はもうこの世にはいないでしょうけど……」

 少女は背筋がぞくっと震えた。

「でもその仙道組がこの事件と何か関係が……」

「まだ分からないけど、あたしのほうで少し探ってみる」

「うん。頼むね」

「ところで、あんたはあんたで動くんでしょ?」

 菜緒が不意に尋ねると、少女は

「うん。急だけど、今夜決行するつもり」

「ふぅん。やっぱり」

 頷きながら、菜緒は懐から一枚のカードを取り出した。

「それじゃ、予告状出しておきますか」

「お願い。菜緒ちゃん」

 菜緒はゆっくり立ち上がり、大きく伸びをした。

「しかしまぁ、アンタもすごいことするよね」

「えっ?」

 大きく欠伸をしながら、菜緒が少女を見つめる。

「アンタ、好きだなんて言ってあのりっくんに堂々と近づいたんでしょ? あの子パパにすごい信頼されているみたいだし、うまくやって情報を手に入れるつもりで……」

「違うよ」

 少女が即座に否定する。

「えっ?」

「違うよ。私がりっくんのこと好きなのは、本当だよ」

 少女は曇りのない笑顔で微笑む。そこに嘘偽りは全くない。

 菜緒は彼女をそのままじっと見つめた。



「今夜十時、“本物”がスイートピーの丘を盗みに参ります


 クレフティス アリシア」



時刻は午後九時四十五分。曇り湿った暗闇に、パトカーのサイレンだけが光っていた。

 時村家の庭先に、警官たちが集結し、あれやこれやとせわしく動き回っている。武彦もその中に混じるべきではあったのだが、彼は冷静にじっと屋敷を見つめていた。

「東刑事、お疲れ様です」

 現れたこのはがビシッと敬礼を決める。

「おうおう、何かえらく気合入っているな」

「そりゃあもう、アリシア様の雄姿をこの目で拝めるとなると、いてもたってもいられなくなりまして」

「んなこったろうと思った」

 武彦が呆れていると、このははどっからか拡声器を取り出した。

「ふふん。これぞ私の秘密兵器」

「私のって……モロ警察の備品じゃねえか」

「まぁ見ていてください」

 そういうと、このはは拡声器のスイッチを入れた。

「アーアー、テステス。おい、怪盗アリシア! 無駄な抵抗はやめて大人しく投降しろ! お前のおふくろさんは悲しんでいるぞ! かーさんはーよなべーをしてーてぶくーろあんでくれたー♪」

 そこまで歌うと、このははドヤ顔を決めて、

「どうですか? これが徹夜で学んだ犯人説得術ですよ」

 武彦は頭がもげそうになるぐらい項垂れて、

「やっぱお前警察やめろ……」

 ひたすら呆れ声で呟いた。

 いつの間にか時刻は九時五十分を回っていた。深刻な面立ちで、武彦はひたすら十時になるのを待っていた。

「怪盗アリシア……本当に分からない奴だぜ」

 この屋敷では既に二件、アリシア絡みの事件が起きている。しかも、二つとも殺人。仮にこれらが偽者の仕業であったとして、何故今更本物が現れるのだろうか。

 武彦が黙りながら考えていると、このはが突然そわそわと動き始めた。

「すみません、東刑事」

「あん? どうした?」

「その、ちょっと言いにくいんですけど……」

「だからどうした?」

 このははごくりと唾を飲み込んで、

「警察手帳を、その……屋敷の中に置いてきたみたいで……」

「んーだあああああとおおおおおお!?」

 変な声で武彦がこのはを睨みつける。

「す、すみません!」

「おい、すぐにとってきやがれ! ダッシュだ!」

「は、はい!」

 このはは慌てるように走り去りながら、屋敷の中に入っていった。

 舌打ちをしながら、武彦は彼女をずっと睨みつける。一息ついて、腕時計を見ると、時刻は九時五十五分を回っていた。



「ふぅ」

 このはは扉を閉め、軽く深呼吸をした。

 部屋の内部は意外と綺麗に整頓されていた。警察もようやく調べ始めたのだろうが、まだ手付かずの部分も多い。

 このははゆっくりとクローゼットを右にずらした。そこには、銀色に輝く大型の金庫が隠してあった。

 そっと、彼女は金庫に触れ、ゆっくりとダイヤルを回し始めた。

「暗証番号分かっているんですか?」

 突然、背後から声が聞こえた。

 振り向くと、そこにはひとりの少年――ニット帽を被った背の低い、銀色の髪の少年が立っていた。

「あ、綾辻君? どうしてここに?」

「気になってずっと隠れていたんですよ。あなたが一体何を盗むつもりなのか」

 冷や汗を垂らしながら、このはがじっとリクを見つめる。

「な、何を言っているの? 私はただこの部屋に忘れ物をしただけで……」

「あなたが盗みに入るとしたら屋敷の中でも警察があまり調べ切れていない場所、つまりこの部屋に来るだろうと踏んでいたんです。となると、アリシアのこれまでの手口からいって警察関係者に変装してこっそり入る可能性が高い。そう思って待っていたら、案の定あなたがここに来たわけです」

「だ、だから……」

「金庫の中を調べても無駄ですよ。既に中身は警察が押収しています」

 リクの言葉に反応して、このはが金庫からゆっくり離れた。

「あっれー? そうだっけ? 暗証番号まだ分かっていないって聞いてたからついいじってみたくなっちゃったんだよね」

「番号は茂一さんの誕生日でしたからすぐに分かりましたよ。東刑事から聞いていませんか?」

「えっ?」このはが不思議そうな顔になる。「その番号は違うはずじゃ……」

 その瞬間、このはははっと我に返る。

「確かに。僕の言った番号は違います。ただ、金庫の番号は全て鑑識班に委ねているから、東刑事には何が合っているのかはおろか何が間違っているのかすら知らないんですよ。なのに何故部下であるあなたが違う番号のことを知っているんですか?」

 痛いところを付かれ、しばらく静寂の時間が訪れる。

 そして、しばらくするとこのはがふっと軽く噴き出すように笑い始める。

「なるほどね、さすがは探偵さん」

 彼女はひどく落ち着いていた。いや、最初から慌てるなんて様子は微塵も見せていなかった。今思えば先ほど流れていた冷や汗も全て計算のうちだったのかも知れない。

 彼女は左顎に手を掛けた。そして一気に、顔を思いっきり掻くようにベリリと音を立てて、それを剥ぎ取った。

「初めまして、といったほうがいいかしら? 探偵さん」 

 スーツ姿のこのはだったはずが、いつの間にか黒いフリル付きのレオタードへと変化している。顔にはいつの間にか眼帯が掛かっており、両手は黒いレザーグローブが装着されている。目にも留まらぬほど芸達者な早着替えで、彼女はいつの間にか別の姿――怪盗アリシアへと変貌していた。

「僕を探偵って呼ぶな」

「あら失礼」

 アリシアは不敵な面構えで、笑みをこぼした。

 何故だろうか。リクにはそれが恐ろしいほど心のない笑みに見えた。彼女の全てが偽りでできているような、そんな印象さえ感じ取れた。

「ただ、少し出てくるタイミングが遅れたようね」

「なんだと?」

 アリシアはこれみよがしに金庫を見せ付ける。

 金庫は、いつの間にか扉が開いていた。中には大きな紙の束が数枚あるだけで、例の絵画などどこにも見られなかった。

「ない、みたいね」

「なっ……」

 リクは言葉を失った。

「折角だから暗証番号を教えてあげるわ。一一0八……兄である時村(ときむら)誠太郎(せいたろう)の命日と同じよ」

 言葉に詰まったままのリクには、もう何を言うのも無理だった。

 しかし、驚くことはそれだけでは終わらなかった。

「これを見て」

 アリシアは金庫の中にあった物を取り出す。

 それを見た瞬間、リクの目は更に丸くなった。

 そこに入っていた、一枚の絵。一瞬、例のスイートピーの丘かと思った。しかし、よく見ると違う。額縁だけでも察することができるほど、安い材質。そして、そこに描かれていたのは最早絵と呼べるか分からないほど単純明快な色の付いた図形の集合体。

「まさか、その絵は……」

「おそらく静江の部屋に飾ってあったものでしょうね」

 リクは唾を飲み込み、しばらく黙った。アリシアはといえば至って平静にその絵を床に置いた。

「でもその絵がここにあるってことは……」

「私もね、考えたのよ。私の名前を使ってまであのスイートピーの絵を盗んだ人物、それは他でもない、殺された茂一ではないかって」

 アリシアはそっぽを向きながら語りかける。

「ええ。僕も同じ意見でした。それならば保険金目的とか色々説明は付きますしね。現にこちらの絵はこうして出てきているわけですし」

「でも、これでひとつ確かなことが分かったわね」

「ええ」

 二人はようやくお互いの目を見合った。

「スイートピーの絵を盗んだのは茂一さんじゃない」

 アリシアは頷き、リクに不敵な笑みを向ける。

「そう。それなら寧ろそちらのほうをこの金庫にしまうでしょうしね。けど実際、出てきたのは静江の絵だけ」

「茂一さんが既に他の人に預けた、という可能性もありますよ」

「それはないわ。茂一の性格からいって、ね。あれほど大事にしている絵を手元から放すなんてこと、考えられないもの」

 クソッ、とリクは怒りを堪えた。その怒りは誰に対してでもない、自分に対するものだった。

「まんまと犯人にしてやられたわね」

 アリシアは表情ひとつ崩さなかった。ただ、リクを嘲笑うのでも非難するのでもなく、感情を全て殺して彼を見据えていた。

「ひとつ聞かせてください」

「何かしら?」

「茂一さんを殺したのは、あなたですか?」

 リクはじっと虫を睨み殺すような目つきで彼女に尋ねた。しばらく沈黙は続いた。そして、彼女は再び不敵な笑みをこぼしながら、

「それを解決するのがあなたの仕事ではなくて? 探偵さん」

「答えろ! そして僕を探偵って呼ぶな!」

「探偵でも警察でもないなら、この事件に関わらないほうがいいわ。あなたには荷が重過ぎる」

 アリシアの挑発的な態度に、リクは怒りを押し殺した。そのまま彼女をひたすらじっと睨み続け、唇を噛み締めた。

「僕はあなたに興味があるわけではありません。ただ、時村夫妻を殺した犯人の正体が知りたい、それだけです」

「あらそう。なら全力で考えなさい」

「言われなくてもそうしますよ」

「そう、でもね」

 アリシアは踵を返した。

「あなたはこの事件の真実に、まだ近づいていない。事件の裏に何があるのか、もっと考えたほうがいいわ」

「裏?」

「それともうひとつ。あなたはスイートピーの花言葉は知っているかしら?」

 突然の質問に、リクはしばらく黙り込む。

「その顔はどうやら知らないようね。それも次会うときまでの宿題よ」

 ボワン! と音を立てると共に、突然視界が白く染まった。

「ケホッ、ケホッ……クソッ、煙玉か!」

 咳き込む気持ちを抑えながら、リクはなんとか目を開けようとする。

 数秒後、ようやく視界が晴れたのかと思うと、アリシアの姿かたちはすっかりとなくなっていた。

 取り残されたリクは、ただひたすら壁を殴った。

「クソッ!」

 やりきれない気持ちと共に、今は怒りを壁にぶつけるしかなかった。

「はぁ……」

 重い足取りと共に、リクは帰路を歩いていた。

 怪盗アリシアに言われた言葉――この事件の裏、それだけが気になって仕方がなかった。

 警察も今頃アリシアを追っているだろう。武彦は「とにかくお前は帰れ」とリクを諭した。邪魔だったのではなく、彼なりにリクを気遣っているのだろう。

 これまでの出来事を思い出しながら歩いていると、ようやく自分の家に着いた。三階建ての、小さなビル――一階は今は使われていない探偵事務所になっている。

 階段をゆっくりと上り、扉を開ける。

「おかえり、りっくん!」

「はいはい、ただいま」

 とぼとぼと玄関を上がってリビングのソファに腰掛ける。やたらと香ばしい匂いが漂ってきて、リクの食欲を注いだ。

「お風呂にする? ご飯にする? それとも、あ・た・し?」

「って……」

 ようやく、リクは気づいた。

「なんであなたがここにいるんですか!?」

 何故か、あの少女が台所でエプロンを着けて立っていた。リクは彼女を睨みつけて、思いっきり指差した。

「東刑事に頼まれたんだよ。りっくんが落ち込んでいるから励ましてくれって。大家さんに言ったら鍵も開けてくれたし」

「だからって、ですね……」

 少女はにっこりと微笑みながら、リクの肩を揉み解した。

「まぁまぁ。なんか怪盗アリシアと会ったんだって? そのへんの話も聞きたいし、夕食もちょうどできたところだし」

「夕食?」

「そう。りっくんの大好物だよ!」

 大好物って、リクは彼女と食べ物の話をした記憶などない。食事を作ってくれるのはありがたいが、リクは深く期待しないことにした。

 しかし、並べられた食卓を見た瞬間、

「おおおおおっ!」

 リクの目が輝きだした。

 大皿に盛られた、山のような餃子。ニンニクと皮の焦げた香ばしさが彼の鼻腔をくすぐった。

「これ、ホントに食べていいんですか!?」

「はい、たーんと召し上がれ」

「いただきます!」

 さきほどまでの落ち込んでいた様子はどこにいったのか、リクはアクティビティにその餃子に貪りついた。

「美味しい……。美味しいですよ!」

「良かった、りっくんに気に入ってもらえて」

 少女はリクの姿を微笑ましそうに眺める。

 しばらくすると、あれほどあったはずの餃子がすっかりなくなっていた。リクは一息つきながら、背後にもたれかかった。

「美味しかったです。ごちそうさま」

「おそまつさまでした」

 ひと段落させるように、皿を重ねて流しへ運ぶ少女。彼女の好意には素直にリクも感謝した。

「東刑事に聞いたよ。怪盗アリシアと会ったんだって?」

「え、ええ……。捕まえることはできなかったんですけど」リクはしどろもどろに答える。

「仕方がないよ。相手は怪盗だもん」

「でも……」

「それに、りっくんは別に怪盗を捕まえるために会いに行ったわけじゃないんでしょ?」

 リクは黙って頷いた。

「僕は、その……」

「この事件の真実が知りたい。多分そんなところじゃないかな?」

 リクは言葉を失った。

 彼女はいつもリクの全てを知っているような発言ばかりする。いや、もしかしたら本当に全て知っているのかもしれない。

 ――もしかしたら、彼女と以前どこかで会っている?

 リクはしばらく考え込んだ。

『うう、ぐすん……』

 突然、彼の脳裏にひとつの光景がフラッシュバックした。

 それは小さな男の子――幼いころの自分が泣いている光景。

 何故この光景が? リクはしばらく考え込んだ。

「りっくん、どうしたの?」

「あ、いえ……。別に」

 なんとか気を取り直そうと、リクは数回瞬きをした。

「あのさ、前から思っていたんだけど、りっくんってよく『僕を探偵って呼ぶな』って言っているけど、あれって本心じゃないよね?」

「えっ?」

「本当は、誰よりも探偵になりたいんじゃない? 誰かに褒められたいとか、名声を得たいとかじゃなくて、純粋に探偵として誰かの役に立ちたい。そんな気がするんだ」

「それは……」

 リクは言葉に詰まる。

「……そうですよ。僕は、おじいちゃんみたいな探偵になりたいんです」

「おじいちゃん?」

 少女がふと尋ねる。リクは窓辺に向かい、外を眺めた。

「とはいっても血はつながっていません。小さい頃、僕は親に捨てられて、とある施設で育ちました。そんな僕を引き取り、育ててくれたのがおじいちゃんでした」

「そっか、そのおじいちゃんが……」

 少女も窓辺に行き、下にある探偵事務所を眺めた。その探偵事務所を営んでいたのが、リクの言うおじいちゃんなのだと理解する。

「おじいちゃん、綾辻(あやつじ)(つとむ)はすごい探偵でした。決して楽な暮らしではなかったのに、僕を育ててくれて……。でも、去年、おじいちゃんは亡くなりました」

「それからはずっと一人で?」

 リクはこくん、と頷く。「幸い、学費はフランスにいるおじいちゃんの姪夫婦が払ってくれています。大家さんも僕に優しくしてくれていますし、時には東刑事がご飯を奢ってくれたりもしています」

「そっか……」

 少女は優しく頷いて、リクの肩にそっと手を触れる。

「あの……」

「りっくんは頑張り屋さんだね。自分の夢にも、人の笑顔にも」

 柔らかなその腕で、リクを抱きしめた。

「ちょっと……」

 赤面するリクに、少女は静かに語りかける。

「でも無理しちゃダメだよ。それと、忘れないでね。ここにりっくんの味方が一人いるってこと」

 少女の胸の鼓動が、リクの身体に響き伝わる。彼女の優しげな言葉は、リクの脳裏にひとつずつ刺激を与えていく。

「あなたは、何故そんなに僕に優しくしてくれるんですか?」

「りっくんのことが好きだから」

「だからどうして……? 僕の好きな食べ物や、僕の性格まで知っていて、あなたは一体何者なんですか?」

 リクが尋ねると、彼女は抱きしめた腕をするりと解きながら、

「それはりっくんが自分で見つけなきゃいけないことだよ。全力で考えなさい」

 瞬時に、怪盗のあの台詞が思い浮かぶ。

『全力で考えなさい』

 同時に、彼女から出された宿題が気になってしまう。

「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」

「ん? なあに?」

「スーイートピーの花言葉って知っていますか?」

 そう。彼女なら知っているかもしれない。

 時村家の花壇を見た際、彼女にもその質問をされた。それこそが、自分の心にある疑問を解く鍵になるのかもしれない。

 彼女は人差し指を顎に添えて、

「んー、忘れちゃった」

 てへっ、と舌を出して彼女はおどける。

 はぁ、とため息をついて、リクはそれ以上何も尋ねないことにした。

 ここから先は、自分で調べよう。彼はそう決意した。



 時刻は遡り、午後九時。

 焔王市内から少し離れた、某ビル。

「すいません、ちょいとパソコン借りてもいいですか?」

 茶髪の若い男が、いかつい男に話しかけた。

「いいけど、エロサイトばっか見てんじゃねぇぞ」

「見ないっすよ」

 お互い、ふざけて馬鹿笑いをする。ちょうど他の連中が出払っているタイミングで彼らは暇を持て余していた。

 茶髪の若い男は電源を立ち上げ、パスワードを入力する。デスクトップ画面が現れ、適当に面白そうなアイコンをクリックする。

 ふと、彼の目に謎のファイルが目に入った。ただ「花」とだけ書かれたタイトルの、何の変哲もないテキスト文章。

「なんですか、この『花』って……」

「あん? なんだって?」

 上司の男も驚いてパソコンに近づいた。

「誰かガーデニング趣味に目覚めたとか? それとも花って名前の女のデータとか?」

 若い男は意地悪そうに笑う。しかし、上司のほうは、

「馬鹿、そいつを開くんじゃない!」

「えっ?」

 既に遅かった。彼の好奇心は一足早く、そのデータをクリックしていた。

 そして……。

 画面いっぱいに、一文字ずつ、

 “F”

 “L”

 “O”

 “W”

 “E”

 “R”

 と文字が表示されていった。

「やべぇぞ、こりゃ……」

「な、なんですか、これ……」

 二人して、ただひたすら冷や汗を垂らすしかなかった。

「おい、今日の取引をすぐに中止させろ!」

「えっ、でももう……」

 上司は唾を飲み込んで、「サツが来る……」

「えっ?」

「誰かが取引の情報を盗みやがった……」男はへなへなとその場にへたりこんだ。「もうお終いだ……。『フラワー』の奴に、情報が漏れちまった」

 数分後、そのビルにも数台のパトカーがサイレンを唸らせてやってきた。

 天才ハッカー、『フラワー』の情報漏洩によって、仙道組は壊滅。それは怪盗アリシアの件と並び、翌日の一面を飾ることとなった。



「私って酷い女なのかな?」

 少女はベッドに腰掛けながら、パソコンと格闘している菜緒に話しかけた。

 菜緒は面倒臭そうに振り向き、ため息をついた。

「何よ、突然。あんたらしくない」

「もう分からなくなっちゃった。私、本当はりっくんの敵なのか、味方なのか。アリシアとして挑発しておいて、それでも味方だなんて言って……」

 少しずつ、彼女の声が涙声になっていく。

「それで、迷っちゃった、と」

「うん……」

 菜緒は踵を返して、

「あんたはあんたでしょうが。敵とか味方とかじゃなくて、あんたはただ自分のやりたいようにやった。それだけ」

「でも……」

「ばっかみたい」

 菜緒は椅子から立ち上がり、少女の前に立った。そしてそのまま一発、パチンとデコピンを喰らわした。

「痛いよ……」

「素直になりなよ。あんたは、あのりっくんって子に立派な探偵になってほしい。そのためなら敵にも味方にもなる。そう決めたんでしょ?」

 少女ははっと我に返って、弱々しく「うん」と頷いた。

「それに、あんたはあんたで事件の真実が知りたい。そのために怪盗アリシアになった。そうじゃなかったっけ?」

「そうだけど……」

「気になっていたんだけど、あんたあの事件の頃から様子がおかしいよ。そりゃ、目の前であんな光景見せられたら動揺とかすると思うけど……。なんていうか、自分からりっくんに嫌われようとしているみたいで」

 菜緒に見抜かれて、少女は口を噤んだ。それ以上、彼女は何も言えなくなり、無意識に左を向いた。

「まぁ、いいわ。でも、あんたがりっくんの味方でいるように、あたしだってあんたの味方なんだからね」

 強く、優しい言葉だった。菜緒はそういって再びパソコンに戻り、画面を表示させた。

「それよりも、仙道組と茂一のことについて新しい情報が入手できたわ」

 少女は黙って、彼女のほうに近づく。一旦深呼吸して、なんとか気持ちを抑えてパソコンの画面を覗いた。

 ウインドウには大量の文字が羅列してあった。よく見るとそれは女性の名前、そして年齢や身長、果てはスリーサイズに至るまでの情報が事細かに書かれている。

「何、これ……」

「人身取引のデータよ。全て女性……。仙道組の連中、身寄りのない少女やらお金に困っている女性やらを色んな連中に売っていたみたい。大企業の偉い人とか、悪名高い政治家とかにね」

「まさか、その中に……」

「そう。茂一は特にお得意様だったみたいね。それも、随分昔……、まだ兄の誠太郎が社長だった時代からね」

 一旦そのウインドウを閉じ、別のウインドウを開く。それは例の凶器となった刀剣のファイルだった。

「女だけじゃない。時村グループと仙道組は色んな物の密接な取引をしていた。茂一が社長に就任した時期から、特にね」

「だからあれほど警察の捜査を嫌がったんだ」

「ええ。多分グループ内でも茂一を含めたほんの一握りの人間しか知らなかったんでしょうね。真紀ちゃんはもちろん、実の娘である梨音さんも、ね」

 そのウインドウも更に閉じて、また別のウインドウを開いた。そこには例の絵――『スイートピーの丘』が表示された。

「この絵、まさか……」

「これも仙道組から買ったものらしいわ。出所は分からないけど、あれは借金の形として押さえていたもので、それを茂一が気に入って買ったみたい」

 段々と、菜緒の声に力が入っていく。少女には分かった。彼女は怒っている、と。

「それともうひとつ」

 菜緒は別のデータを開いた。

「組の件で、屋敷の中に一人、気になる人物がいるんだけど……」

「えっ……」

 菜緒はその人物について気になる点を話した。それを聴いた瞬間、少女も驚きを隠せなかった。

「分かった? 多分、これに関してはパパも既に調査済みだと思うんだけど」

「うん。でも、事件と仙道組の関係について警察が把握していなきゃなんとも……」

「それは大丈夫」

 菜緒はようやくにこりと笑った。

「とっくに先手は打ってあるわよ」

 菜緒は全てのウインドウを閉じ、デスクトップに現れたひとつのアイコンをこれみよがしに見せ付けた。



 そのアイコンには、「花」というタイトルが付けられていた――。



 翌日。武彦に呼び出されて、リクはいつもの喫茶店にやって来た。今回は例の少女と菜緒はおらず、武彦とリク、ついでにこのはしかいなかった。

「ったく、昨日は散々だったぜ」

 やってくるなり、いきなり悪態をつき始める武彦。彼の気持ちを汲んで、リクはとりあえずこの場は黙っておくことにした。一方でこのははそんな武彦に怯えているのか手を震わせながらミルクティーを飲んでいた。

「アリシアには逃げられるし、警察に戻ったら別件で呼び出されるし……」

「別件?」

 それに関してはリクも聞かずにはいられなかった。途端に、ピク、とこのはの震えていた手が止まった。

「おう。それだ。あの『仙』って字、仙道組のものだったらしい」

「仙道組……」

 リクは脳内から知っている限りのニュースを引っ張り起こした。

 昨夜、怪盗アリシアが現れる少し前――。匿名で警察に通報があった。仙道組の人身取引が焔王市から離れた戸枡町で行われる、と。警察は半信半疑でアリシア逮捕とは別の警官たちを総動員させたら、案の定現行犯逮捕ができた、ということだ。

「組の幹部から既に割り出ている。奴ら、時村グループ、いや、茂一とやたらと縁があったらしい。あの絵も元は地上げのために差し押さえたものを茂一が買い取ったんだとよ」

 武彦は勢いよく音を立てて、コーヒーを飲み込んだ。

「なるほど。今回の事件とつながりがありそうですね」

「ただな、ありそうってだけでまだつながりがあると決まったわけじゃない。それに、組長も依然逃亡中だ」

「組長が?」

「ああ。一人行方をくらましやがって、現在アリシアと共に検問を張っている。ったく、次から次へとやることが増えていきやがるぜ」

 武彦はコーヒーを飲み干した。そして勢いよくカップの音を立てて、今度は水を一気飲みした。相変わらず、このはは怯えたように彼を見ている。

「綾辻。協力してもらっているのはありがたいがよ、昨日のあれはさすがにいただけないぞ。怪盗の逮捕は俺ら警察に任せておけばいい」

「すみません……」

 さすがにリクも、蛇に睨まれた蛙のように萎縮してしまう。彼も彼なりに苦労しているのだろうと思うと、なおさらいたたまれない気持ちにさせられた。

「菜緒も昨日から家に帰ってこねぇし、ったくよ……」

「あ、あの……。東刑事」

 ようやくこのはが口を開く。ただしその唇はぶるぶると震えていたが。

「あん? なんだ、宮古」

「実は、ですね。まだ話していなかったんですけど、私独自で今回の事件の容疑者たちについて調査をしていたんです」

「あぁ、そうか。怪盗にトイレで眠らされていた奴にしてはよくやったんじゃねぇのか?」

 図星だったが、それでもなお勇気を振り絞ってこのはは口を開いた。

「それで、その……」

 間に一旦ミルクティーを挟んで、再び喋った。

「一人、気になる人物がいたんです」

「ほう、それで?」

 若干馬耳東風といった様子で、武彦は耳をほじった。

「その人物なんですけど……」



 武彦は急いで車を走らせた。警察の癖に、途中一時停止を二、三回ほど無視するほど無茶な運転で、時村家の屋敷へと向かった。

「おい、確かなんだろうな、その情報」

「は、はい! 間違いないであります!」

「ようやく見えてきたぜ。犯人の可能性って奴がよ」

「それより前を見てもらえますか?」

 助手席のリクは青ざめた顔つきで頭を抱えた。

「パパ、さすがに危なすぎ」

「大丈夫だ、風になっていた頃の俺ならこの程度余裕だ」

「私たちまで風にしないで……」

「風は風でも、千の風だけは勘弁ですよ」

 何故か付いてきた菜緒とあの少女が、二人して突っ込みを入れる。

 喫茶店を出た瞬間、彼女たちが匂いを嗅ぎつけるように現れたのが運の尽き。慌てる武彦がその場のノリで「お前らも付いてこい」と言ってしまったため、流されるままにこうして車に乗っていた、というわけである。

 やがて、急ブレーキと共に車が屋敷の前に止まる。思いっきり道路と斜めに駐車しているが、武彦がこの状態では余計なことを言う余裕もなかった。

 急いで呼び鈴を鳴らすと、真紀が「はい」と応答した。

 現れた彼女の姿は、Tシャツにジーンズ、首にタオルを巻いている、日曜日のお父さんみたいな格好だった。

「あっ、ごめんね。今、ちょうど花壇の手入れをしていたから」

「悪いな。それよりも、夏目はいるか?」

 武彦が急かしながら尋ねる。

「夏目、さん?」

 真紀はきょとん、としながら

「さっき梨音姉さんと買い物に行きましたけど……」

「クソッ、中で待たせてもらうぞ!」

 半ば強引に、武彦は中へと入っていった。リクたちも軽く会釈をしながら、そそくさと彼の後に続いて入っていく。

 廊下を歩きながら、リクはふとスイートピーの花壇を見た。花たちは相変わらず綺麗に咲き誇っている。周りに手鍵やらバケツやらが置きっぱなしになっているのは、真紀がさきほどまで手入れしていたからだろう。

 五メートルも離れていない場所に、例のコレクションルームが目に入った。黒ずんだ建物を見ると、どうしてもあの火事の光景が忘れられなかった。

「それにしても、花壇に燃え移らなくてよかったね」

「うん……。それだけが不幸中の幸いだったかな」

 花壇とコレクションルームの間に、よく見ると小さな木の小屋があった。本当に小さくて今まで気づかなかったが、リクはなんとなくそれが気になった。

「あそこは?」

 リクが尋ねる。

「ああ。あれは園芸の用品とかを置いてある物置なの。あっちにも燃え移らなくてよかった。そうしたら本当にお手入れが出来なくなっちゃうもの」

 心なしか、真紀はチラチラとその小屋を眺めた。

 そうこうしていると、玄関を開ける音が聞こえてきた。「ただいま」と気の抜けた女性の声がこちらまで響いてきた。

「ただいま帰りました、と……あれ、皆さんおそろいでどうしたんですか?」

 夏目と梨音が買い物袋を持ったまま、武彦たちの前に現れた。彼らは自分らが何をしに来たのか、まるで分かっていない様子で、こちらの表情を窺っていた。

「夏目達也。話がある」

 武彦は神妙な面立ちで、リビングへと向かっていった。彼もその雰囲気を察したのか、表情を一気に顰める。

 全員がリビングに揃った。変なガスでも充満しているかのように、リビング内の空気が二、三倍重くなっている。その空気を保ったまま、武彦は夏目を睨みつけて話し始めた。

「単刀直入に聞こう。お前、茂一に恨みとか持っているんじゃないのか?」

 本当に単刀直入だった。あまりにも唐突なその質問が放たれた瞬間、夏目はおろか間近にいた誰もが唖然となってしまう。

「な、なんなんスか、いきなり。そりゃあまぁ、あの主人にはしょっちゅう怒られていますけどね、そんな恨みだなんて……」

「そんな生易しい恨みじゃねぇよ。個人的な恨みじゃなくて、誰かの……例えば家族に対して恨みを持っていた、というようなことがあるんじゃないのか?」

 随分と率直に切り込む武彦に、夏目は呆れたようなため息を漏らした。

「なんですか? 一体何なんですか!? 何で俺、こんなに疑われなきゃならないんスか!?」

「落ち着きなさい、夏目!」

 梨音が大声で諭すと、少しばかり落ち着いたように夏目は舌打ちをした。しかし彼のこめかみにはまだ力が入ったままだ。

 緊迫した空気の中、武彦が更に話を進めた。

「夏目達也。お前の父親は?」

「あ? とっくに死んじまったよ」

 夏目の口調が突然荒々しくなった。武彦は気にせずに続けた。

夏目(なつめ)邦治(くにはる)。お前が二歳の頃に行方不明になり、後に死亡。間違いないな」

「そうだよ。それが?」

「お前の父親、仙道組の構成員だったらしいな」

 途端に、それまで逸らしていた夏目の視線が武彦に向かった。その目は確実に驚いていた。

「そう、みたいっすね……。俺は知らないけど」

「昨日、仙道組の連中が逮捕されてな、二十年前のことをよく知っている奴が口を割ったよ。かつて、夏目という組員が茂一の愛人に手を出したって。そいつにお前の写真を見せたら、その組員にそっくりだそうだ」

 夏目は歯を食いしばりながら、口を噤んだ。再び視線を逸らして、抑えきれない気持ちをなんとか押し殺していた。

「あんたの言いたいことは分かるよ。確かに俺は、親父とその愛人との間に生まれた子だよ!」

 夏目は怒鳴り叫んだ。

 その告白には皆――特に梨音は目を丸くせざるを得なかった。

「お前の親父さん、随分と組のやり方に反発していたらしいな」

「ええ。親父はヤクザとしては二流だったらしい。妙に正義感があるというか、己の信念を貫いているというか。でも、借金のために無理矢理茂一の愛人にさせられたおふくろは、そんな親父と真の恋に落ちた」

「そのおふくろさんは?」

「五年前亡くなったよ。海の底で魚に食われることもないまま沈んでいるだろう親父のことを、ずっと思い続けてな……」

 少し彼に同情しかけたが、武彦は気を取り直した。

「なるほどな。愛人に手を出されたことが気に食わなかった茂一が、お前の親父を殺した。そう思ったお前は……」

 武彦が言いかけると、夏目は神妙な態度を翻して、はっ、と鼻で笑った。

「確かに。俺はそのためにここに来た。幸いにも、野岡先輩がここにいたからな。先輩に頼んで俺は上手いこと潜り込んだんだよ」

 しかし彼は嘗め腐ったような視線を武彦に送り続ける。

「でもなぁ、俺は殺しちゃいない。ていうか、そもそも犯人はあの怪盗じゃないのか? それにそうだ、俺が恨んでいるのは茂一であって、静江は全く関係ない。そもそも俺はあの夜、完璧なアリバイがあったはずだ。なあ、坊主」

 夏目に呼ばれ、リクはこくん、と頷いた。

「前にも言いましたが、夏目さんのアリバイに関しては僕が証言します」

「ほら見ろ。そうだ、いいもん見せてやるよ。ついてきな!」

 そういって、夏目は部屋から去っていく。武彦はしてやられたような感覚が残ったまま、彼についていった。

 そこは使用人室だった。夏目は黙りながら机の引き出しを開け、一冊のファイルを取り出した。

「これだ」

 武彦はファイルをパラパラとめくっていく。そこに、時村グループが買った土地と、仙道組が地上げしたリスト、また人身売買や薬物取引のデータと時村グループの関連性を事細かに纏めたレポートだった。

「まだ途中だけど、俺は使用人として働きながら茂一の悪事を独自に調査していた。そりゃ全部が全部確証のあるものじゃない。けど、それでもいずれ裏を取って、こいつを白日の下にさらすつもりだった」

「まさか、お前……」

「ああ。俺が茂一に復讐するためにこの屋敷に来た。そいつは認めるが、その方法は殺人じゃない。社会的な抹殺だ」

 強く、夏目は言った。行為は決して褒めたものだとはいえないが、彼の強い執念と信念――それだけは、武彦にもなんとなく伝わってきた。

「なるほど。ここまでやっておいて、今更殺人に切り替えた、というのもなさそうだな」

「ああ。だから言っているだろ。俺は茂一を殺害なんかしていないって」

 粗方目を通した武彦は、そのファイルを静かに閉じた。

「ちょっと、それ見せてください」

 中身が気になったリクは、ファイルをじっくりと眺める。

 嫌な予感がした。もしかすると、と思い、地上げした土地のデータをじっくりと眺めた。そこに「あの建物」のことが書かれていないことを、切実に願った。

 しかし、その名前を目にした瞬間――。

「どうしたの、りっくん?」

 心配そうにリクの顔を覗き込む少女。それもそのはず、リクは頬の筋肉を硬直させてしばらく固まっていた。

 しばらくして、なんとか体裁を取り繕ったリクは、

「あ、いえ……。なんでもありません」

「ホントに大丈夫?」

「はい……」

 なんとか心を落ち着けようと、リクは唾を呑み込んだ。

「これでいいっすか、刑事さん」

「あ、ああ。悪かったな……」

 武彦はひたすら舌打ちをしながら、部屋を後にしていった。

 それに続いて、このはも部屋を後にした。リクも出ようと思ったが、なんとなく付いていく気になれず、少しその場に留まった。

「ねぇ、夏目」

 声を発したのは梨音だった。その声はどこか弱々しく、か細かった。

「なんスか、梨音さん」

 まだ不機嫌な様子で、夏目は返事をする。

「まさか、まさかよ……」梨音は俯いたまま喋った。「あんたとあたしが、その……兄弟ってことは、ないよね?」

「ん?」

 言っていることの意味が分からない様子で、夏目は眉を顰めた。

「ほら、その……。あんたの母親って、茂一の愛人だったんでしょ? まさかとは思うけど、実は茂一の子どもだったなんて、ありえないわよね?」

 相当な疑心暗鬼に陥りながら、梨音は尋ねる。いくらなんでも考えすぎでは、と思う夏目だったが、言われてみると少しそうではないかという不安に煽られた。

 しばらくしんみりしていると、突然ドアが開いた。

「話は聞かせてもらった。その可能性はないだろう」

 入ってきたのは野岡だった。彼はゆっくりと少女に近づいて、

「これ、落としただろう」

 彼女の手のひらに、なにやら銀色の物を手渡した。受け取った彼女は、「ありがとうございます」と淡白に返事をする。

「先輩、その可能性はないって……」

 野岡は夏目のほうを振り向く。

「お前、以前血液型はAB型だっていっていたな」

「そんな話しましたっけ? まぁ確かにAB型ッスけど……」

「そっか」

 梨音が何かに気づいて返事をした。

「あの男はO型だから……」

「ああ。だから母親が何型だろうが、AB型の夏目が生まれる可能性はない」

 野岡が助け舟を出すと、梨音はほっと胸を撫で下ろした。そこでようやくこれまでの緊張した空気がほぐれた。

「しかし夏目。お前がご主人様を陥れる計画を立てていたとはな」

「すみません……。けど……」

「こんな家、いっそメチャメチャになってしまえばいいのよ」

 梨音が再びきつい口調へと変貌した。

「梨音お嬢様……」

「あの男に気に入られていたあなたには分からないでしょうけど、あの男は時村家の面汚しよ。兄である誠太郎叔父様のやり方が気に入らなくて、社長を引き継いでからは好き放題。おまけにあんな連中とつるんで……」

「お嬢様!」

「静江もそうよ! あの二人の間に愛なんてなかった。あの女もただ時村家の財産が欲しくてあの男に近づいただけ。そんな中で私は生まれたのよ!」

 梨音の口調が更に激しくなる。

「真紀、あんたはいいわよね。あんな子どものいない誠太郎叔父様に拾われて、愛情たっぷりに育てられて……。血も繋がっていないくせに……」

「いい加減にしろ!」

 ――パチン!

 部屋中に、破裂音が響き渡った。気が付くと、梨音が頬を押さえたまま硬直していた。そして、彼女の目の前には左手を振りかざした夏目の姿があった。

「あんたが愛されていないだって? ふざけんなよ! 確かにあの夫婦はろくでもない奴らだったよ。それは同情する」

「夏目……」

「けどなぁ、真紀ちゃんに当たるのはやめろ! 真紀ちゃんはなぁ、あんたのことをずっと心配していたんだよ!」

 夏目に諭されて、ふと梨音は真紀のほうを見る。真紀は黙ったまま、じっとふたりのほうを見ているだけだった。

「真紀ちゃんだけじゃない。俺も先輩も、ずっとあんたのこと心配していた。両親がいながら愛されないあんたがずっと気になっていたんだよ」

「何よ、うちに復讐しようとした癖に……」

「ああ、そりゃ最初は復讐しようとしたさ! このファイルだって、ホントはやろうと思えばいつでも表沙汰に出来たよ。でもな、そうしたらあんたはどうなる!? あんただけじゃない。真紀ちゃんは!? グループを支えている真面目な社員や取引先の人たちは!? 俺のせいで一部の真面目な人たちに迷惑をかけるような真似、絶対にしたくなかった……」

 夏目は拳を握ったまま、目を強く閉じた。

「夏目……。お前、そこまで考えて……」

「ああ。ずっと悩んでいたよ。毎日毎日! 梨音が時折寂しそうな顔を浮かべるのを見ると、なおさらなぁ!」

「う、うう……」

 梨音はその場にへたり込んで、泣き出した。

「ごめんなさい、あたし、自分のことしか考えていなかった……。ごめんなさい、ごめんなさい……」

 ただただ泣き続ける梨音の声に、部屋中は静寂しか彼女を癒せるものはなかった。彼女はそのまま泣いた。ひたすら泣き続けた。

 そして、もう一人、泣いている者がいた。

「よかった……。大切な思い出、見つかってよかった……」

 少女もまた、泣いていた。ただ、彼女は誰にも見られないようにひっそりと泣き続けていた。

 ――りっくん。

 突然、リクの脳内に声が響いた。微かに垣間見えた一人の人物の姿。はっきりとは感じ取れなかったが、それは閉ざしていた記憶の中に確実にいた人物だ。

 その人物は、どこかこの少女に似ていた。


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