2.スイートピーの丘
木曜日の昼下がり。学校帰りにリクは時村の屋敷へと向かっていった。
屋敷は学園がある焔王市より二駅離れた戸枡町に所在している。菜緒からもらった地図を頼りに、市街地をゆっくりとリクは歩いていった。
そして、その傍らには
「りっくん足はや~い」
餌をねだる猫のように涙声で甘える、例の少女。
もちろん連れてきたわけではない。案の定校門前で待ち伏せしていた彼女が、『勝手についてきた』だけである。
「置いていかないでよぉ~」
当然のことながら、無視。とぼとぼと長い坂道を歩きながら、リクはひたすら目的地の方角を見つめていた。
「ねぇ、りっく~ん」
「ああ、もう! 仕方がないなぁ!」
痺れを切らして、リクは足を止めた。
「えへへ、ありがと」
「ありがと、じゃありません。何しに来たんですか?」
「ん? 別に。ただ、りっくんのサポートをしたいなぁ、って」
「全く……。ほら、さっさと行きますよ」
踵を返してリクはまた歩き出した。
「あれ? 珍しいね。てっきりまた怒られると思ったのに」
リクはため息を吐いて、
「時村さんって、あなたの友達なんですよね。僕にはあなたが友達の家に行くことを怒る権利はありません。たまたま行く方向が一緒だった、それだけのことです」
「りっくん……」
二人がしばらく歩いていると、高い塀に囲まれた屋敷に辿り着いた。
「うわ……」
山のほとんどを占めているのではと思わせるほどの広い敷地に、真っ白な立派な洋館がひとつ。日本の、しかもこんな町外れには似つかわしくない建物に、二人とも唖然としてしまう。
「門は……あそこみたいですね」
気を取り直して、といった感じでリクは門へと向かう。そこもまた、門というよりも大きな関所のように感じた。
深呼吸をして、二人は呼び鈴を鳴らす。
『はい』
インターフォン越しに、柔らかな女性の声が聞こえた。
「真紀ちゃん? 私だよ、私」
『あっ、今すぐに開けるね』
しばらく二人が待っていると、門を開けて一人の女性が姿を見せた。
「いらっしゃい」
優しげな声で、少女が出迎える。
「やっほー、真紀ちゃん」
「どうこ、こんにちは」
相変わらずリクは淡白な表情で、しばらく真紀の顔を眺めた。
時村真紀。菜緒たちと同学年とは聞いていたが、年下のリクから見ても彼女らより大人しい印象を受けた。赤茶色の独特な髪はパーマがかっており、顔のところどころにはそばかずが見られた。
「菜緒ちゃんから話は聞いているよ。君が有名な探偵さんね」
「僕を探偵って呼ばないでください」
「そうだよ」少女が声を張り上げる。「りっくんは私の夫なんだからね!」
「そうなの?」
「知りません、あんな人」
そうこうしていると、ドアの奥から見知った顔が見えた。
「おそーい。何してたの!?」
「ごめんごめん。駅から遠くて、道に、迷っちゃ……って……」
現れた菜緒の姿を見て、二人は呆然と構えてしまった。
黒いワンピースの上に装着された、純白のフリル付きエプロン。頭の上にあしらわれたこれまた真っ白なカチューシャ。彼女の姿は、まるでさっきまで秋葉原でアルバイトをしていましたと言わんばかりの格好だった。
「菜緒ちゃん、その格好……」
「ほら、あんたたちもさっさと着替える!」
「えっ……?」
ポンと足元に黒い布の束が投げられた。これが何なのか、そして今から自分たちが何をさせさせられるのか、二人には容易に想像がついた。
「これで、いいんですか?」
黒いジャケットと真っ白いシャツ、そして茶色の蝶ネクタイを身に纏い、リクは恥ずかしそうに斜め下を向いた。
「ほうほう、りっくん似合ってますなぁ」
菜緒はそんなリクをまじまじと眺めながらにやりと笑う。
「しかし、よく僕のサイズに合う服がありましたね」
「それ、半年前まで働いていたおじいちゃんが着ていたものなんだけど、ね。取っておいてよかった」
「なるほど」
リクがとりあえずといった感じで納得していると、奥の扉ががちゃりと開いた。
「みんなお待たせ」
「遅いですよ。着替えに一体いつまで……」
目の前に現れた、少女の姿に、リクは目を疑った。
彼女の淡くて長い髪の上に、真っ白なメイドカチューシャがそっと添えられている。そして服は菜緒が着ているものと同じメイド服、なのだが、可愛らしい彼女が着るとそのイメージは全く違う。ただメイド服を着ただけのなんちゃって系ではない。いうなればそう、絵に描いたような本物の「メイド」と呼ぶべき存在がそこにいる。
しばらくの間、リクはぽーっと顔を赤く染めていた。
「似合う、かな?」
さすがに彼女も照れくさいのか、気恥ずかしそうに言った。
「ま、まぁいいんじゃないんですか……」
「またまたぁ、見とれちゃってる癖に!」
菜緒が意地悪そうにリクの頬を指で突きながらからかった。
しばらくすると、奥のほうから一人の男性がやってきた。
「ほうほう。君たちが真紀の言っていたお友達か」
ご丁寧に灰色の髭を小奇麗に揃えた、痩せ型の中年男。外見から察するに五十代ぐらいといったところか。彼はにやりと笑い、こちらに白い歯を見せた。
「ゆっくりしていってくれたまえ、と言いたいところだが、君たちは家の手伝いで来てくれたんだったな。いやぁ、助かるよ」
「伯父様……」
真紀も一緒に笑った。
「伯父様ってことは、もしかして……」
「ええ。こちらが私の伯父で、時村グループの現社長の……」
「自己紹介がまだだったな。時村茂一だ。よろしく頼むよ」
茂一の挨拶を聞くなり、菜緒はピンと一気に背筋を伸ばした。
「よ、よろしく、お願いします!」
「菜緒ちゃん、そんなにかしこまらなくても……」
「あんたねぇ」菜緒は少女に耳打ちする。「相手は社長よ。ここで好感度上げておかないでどうするの!? こういうことの積み重ねが後に給料に反映されるんだからね」
「あはは……。さすが菜緒ちゃん」
少女は乾いた笑いをこぼした。
「ところで……」
茂一はリクのほうに目を向けた。
「そちらの子は、どうも真紀の同級生じゃなさそうだが……。一体どういう関係なんだね?」
「あ、この子はあたしが連れてきたんです」
菜緒が説明をする。
「ほうほう」
「そして私の夫です」
少女は頬を押さえながら顔を赤らめる。
「こっちの人は無視してください」
「あ、ああ……」
茂一は一瞬点になった目を戻し、また先ほどの表情に戻した。
「まぁ、いい。妻が亡くなって、色々とバタバタしているから、正直君たちには感謝しているんだ。しっかり頼むよ」
「はい!」
「詳しいことは使用人の野岡君に聞いてくれたまえ。おい、野岡君!」
茂一が大声で呼ぶと、大柄な男がのっそりとやって来た。
「お呼びでしょうか、旦那様」
眉ひとつ動かさずに、野岡と呼ばれた使用人は茂一に頭を下げる。おそらく二十代だろうが、身長は軽く百八十を超えており、体格も筋肉質。それでいて表情が変わらないので少し怖く感じ取れた。
「まずは屋敷の案内をしてやってくれ。そうそう、真紀のお友達だからな、『あそこ』も見せてやってくれ」
「かしこまりました」
もう一度、野岡は頭を下げた
野岡はリクたちのほうを振り向く。
「使用人の野岡大吾だ」
「あ、はい……」
三人とも、茂一と会ったときとは違った萎縮をしてしまいそうになった。
「もう、野岡さん。挨拶ぐらいもっと笑顔でできませんか?」
「ムッ……。すみません、お嬢様」
野岡は気恥ずかしそうに俯いた。
「気にしないでくれ。彼はこう見えてもね、無愛想だが信用のできる男だ。何か困ったことがあったら彼に相談してくれたまえ」
「短期間だがよろしく頼む」
野岡はその無骨な手を、リクの前にそっと差し出した。
一呼吸置き、リクもその手を握る。
「よろしくお願いします」
「それじゃあ私はこれで。後は頼んだよ」
茂一はそのまま後ろを振り返り、去っていった。
――要注意、かな。
リクは注意深く茂一を睨みつける。妻を亡くしたばかりにしては、いささか明るすぎる気がしたからだ。表に出さないだけかも知れないし、純粋に立ち直っているのかも知れない。しかし、これはあくまでも勘だが、この男は何か後ろ暗いものを抱えているように感じ取れた。
――いけないいけない。
勘だけで物事を決めつけてはならない。それは自分が最も尊敬する人物が最も嫌うことじゃないか。現時点では心の中で注意するだけに留めておこう。リクは心を落ち着かせて自分に言い聞かせた。
「おい、何をしている?」
「りっくん、難しい顔をしてどうしたの?」
少女が心配そうに聞いてくる。
「いえ、何でもありません。行きましょう」
真っ白に彩られた廊下を歩いていると、窓の外にカラフルな花畑が見えた。
「わぁ、綺麗」
少女は思わず立ち止まり、窓の外をまじまじと眺める。
「ねぇ、真紀ちゃん。あれは何の花?」
「スイートピーよ。私が手入れしているんだ」
「真紀ちゃんが? すごーい」
花壇に並べられた、白、紫、ピンクのスイートピー。花壇には花の他には雑草ひとつ見られない。非常に丁寧に育てられたのが、窓越しからでも伝わってきた。
「何しているんですか、早く行きますよ」
リクがため息混じりに急かした。
「うわ、りっくんって花を愛でる余裕もないの?」
「時間にうるさいのはどうかと思うよ。将来上司にしたくないタイプ」
「あなたたちは何しに来たんですか!?」
大声を張り上げて、リクが怒鳴った。
「まぁいいだろう。少しぐらいゆっくりしていけ」
さっきまでぶっきらぼうだった野岡の顔が、少し緩んだ。
「すみません……」
「謝る必要はない」
「でも……」
「リク、といったな」野岡が尋ねる。「君は、スイートピーの花言葉を知っているか?」
「花、言葉?」
知っているはずはない。いくらリクは探偵とはいえ(本人は探偵と呼ばれるのを嫌っているが)そこまで博識なわけではない。知らないものは知らない。だが……。
「りっくんはすっごい名探偵だから、当然知っているよね」
少女に言われて、リクはムッとする。
「僕を探偵って呼ぶな!」
「探偵?」
野岡が訝しげな顔を浮かべる。
「何でもありません。気にしないでください」
「あっれー!?」
廊下の向こう側から、唐突に声が聞こえる。野岡のものとは違う、軽そうな男性の声だ。
「もしかして、君たちが真紀ちゃんの友達?」
軟派でもするかのように声を掛けてきたのは、これまた渋谷の繁華街にでもいそうな金髪の男。歳は野岡と同じぐらいだろうが、落ち着きと身長がある分野岡より若く見える。執事服を着ていることから、彼もまた使用人なのだろう。
「夏目!」
野岡が怒鳴りつける。
「お嬢様にちゃん付けするなといつも言っているだろう! それに、仮にもお嬢様の友人に向かってその馴れ馴れしい態度はどうかと思うぞ!」
「別にいいじゃないですか、先輩」
反省の色を全く見せず、夏目と呼ばれた男は耳をほじっていた。
「あ、見りゃ分かると思うけど、俺も一応ここの使用人ね。名前は夏目達也っていうんだ、よろしく!」
「おい、俺の話を……」
「もう、野岡さんったら」
真紀がクスリと笑った。
「夏目さんにそこまで厳しくしなくてもいいのに」
「しかしお嬢様……」
「私のことだったらいいのよ。寧ろ夏目さんにお嬢様だなんて呼ばれたら、それこそ地球がひっくり返ってしまいますよ」
「そうそう。地球の運命は俺にかかっているの」
そう言われては、野岡も閉口せざるを得ないようで、鼻をフンと鳴らしてくるりと振り向いた。
「それよりも、夏目。梨音お嬢様の部屋の電灯は変えたのか?」
「あー、あれね……」
夏目の視線が左上に向いたかと思うと、
「ちょっと、夏目!」
甲高い女性の声が飛んできた。
「部屋の電灯変えておくように頼んだわよね!?」
「げっ……」
現れたのは、スレンダーな女性。真紀とは対照的に派手な化粧を付けており、長い髪を茶色に染め上げている。
「まだやっていなかったのか?」
夏目の慌て様に、野岡は溜め息を吐いた。
「いっつもそうよね、あんたは!」
「わ、悪かったって! すぐに変えるから!」
「私が帰ってくるまでにやっておきなさいよ!」
女性に怒鳴られると、夏目はそそくさとその場を後にした。
「それじゃ、野岡さん。私は買い物に行ってくるから」
「あ、あの……。梨音姉さん」
真紀がおどおどしながら声を発する。
「今日から私の友人たちが、その、家の手伝いをしてくれることになって……」
「あっ、そう」
梨音がギロリと睨む。
「まぁしっかり頼むわよ。それじゃ」
梨音はハンドバックを強く握りながらその場を去っていった。
「あの人、真紀ちゃんのお姉さん?」少女が尋ねる。
「ううん、あの人は茂一伯父様の娘で、正確には私の従姉なの。まぁずっと一緒に暮らしているから、姉みたいなものなんだけど」
「なんていうか、怖い人、だね」
「今日はちょっと機嫌が悪いみたい。なんでかは知らないけど……。気を悪くしたならごめんね」
「えっ、ううん。気にしていないよ」
「ところで、野岡さん。一体私たちをどこに連れて行くんですか?」
菜緒がふいに尋ねる。
「見れば分かる。旦那様はお客人には必ず見せるものだ」
野岡に言われるがまま、一行はひたすら後をついていく。一旦玄関に出たかと思うと、庭をぐるっと周る。
そこに、小さな小屋が聳え立っていた。丈夫なコンクリート造りの、一階建ての離れ。近づくと、不気味なことに窓ひとつ見当たらず、入り口の頑丈そうな扉以外虫一匹通る隙間がないようだ。
「ここだ」
野岡が立ち止まる。
「ここは?」
野岡が黙って、鍵を取り出し、扉を開ける。ギィっと鈍い音と共に開いた扉の先を見て、一行は固唾を呑んだ。
そこは異様という一言だけでは片付けられないほど、異様な空間だった。中世ヨーロッパの甲冑に、当時使われていたものか偽者かは定かでないような刀剣の類、またお化け屋敷にでもありそうな棺桶、怪しげなテーブル、タンス等の調度品――時代も文化も錯誤した物質を集めたような空間だった。
「何ですか、ここ……」
「ここは旦那様ご自慢のコレクションルームだ」
「コレクション、ルーム?」
この怪しげな品々をコレクション? だとするならば時村茂一という男は相当悪趣味なセンスを持っているな、と皆思わずにいられなかった。客人には必ず見せているというが、これを見せ付けられる客人たち全員、同じことを思っただろう。
「こっちに来い」
コレクションルームの奥、怪しげな甲冑ゾーンを越えた場所から野岡が声を掛けてきた。あまり期待せずにリクたちはそちらへ向かう。
「これが、旦那様自慢の一品だ」
野岡が見せたのは、一枚の絵。
先ほどまで憂いな顔を浮かべていた三人の目に、一気に輝きが戻った。
「これは……」
額縁の中で煌いていたのは、赤い花畑。色鮮やかに咲き誇るその花は、絵の半分以上を埋め尽くしている。その絵の中央に、子ども――男の子と女の子が中良さそうに手をつないでいる。彼らはその花畑の上で、背景の青空をじっと眺め、何を考えているのだろうか――芸術に疎いリクたちも思わず感慨深く思考を巡らせてしまった。
「綺麗な絵……」
少女が呟いた。
「確かに、自慢の一品というだけのことはありますね」
こればかりはリクも感心せざるを得ない。この悪趣味な調度品の山の中に、一際異彩を放つ、優しいタッチに、彼もまた心惹かれるものがあった。
ふと、リクは真紀の顔を見た。彼女はずっと下唇を噛みながら顎を小刻みに震えさせ――まるで、何かに怯えているかのような表情を浮かべていた。
「この絵、売ったら一体いくらぐらいになるのかな? 一千万円とか……」
「菜緒ちゃん、いくらなんでもそんなには……」
「十億だ」
野岡が言い放った金額に、一同はフリーズしてしまう。
「じ、十億?」
「この絵を描いたのはフランスの高名な画家らしいのだが、その画家の死後、彼の作品が評価されて、今では世界中にコレクターがつくほどらしい」
「そんな絵が、こんなところに……」
思わず菜緒が引きつってしまうほど、この絵の価値が信じられなかった。とはいえ、本当に素晴らしい絵なのでそれほどの価値があるといっても納得してしまう。
「でもさ、何でアリシアはこの絵を盗まなかったのかな?」
「えっ?」
思わず、皆少女のほうを向く。
「だってさ、十億もする高価な絵なんでしょ? あんな安そうな絵よりも、こっちのほうを盗もうとするんじゃない? 私、怪盗だったらそうする」
「なるほど、確かにそうだ」
野岡は腕を組みながら頷いた。
「しかし、このコレクションルームには常に厳重なロックがされている。その上、見てのとおり小窓がある以外は出入り口がない。鍵はずっと俺が管理しているしな。いくら怪盗といえども、ここから盗むのは容易なことではないだろう」
「それに伯父はこの絵を信用できる客人以外に見せることはなかったから……」
「確かに、言われなければここはただの物置か何かにしか見えないもんね。こんな絵が飾ってあるなんて絶対に思わないよ」
しかしリクはふっと息を漏らして、
「でもそれだと尚更あの絵を盗む理由の説明がつかないんですよ」
「どういうことだ?」
「確かに、見た感じこんな頑丈なところから絵を盗むのは難しいでしょう。でも、だからってあんな安い絵を代わりに盗むでしょうか?」
「そ、それは……」
「アリシアの手口なら、僕もニュースや新聞を見て知っています。奴は盗みに入る際、間違いなく事前に念入りな下調べをしています。本来なら静江さんがいない時間帯なども把握しているでしょうし、この絵の存在だって知っていても不思議じゃない」
リクが説明すると、野岡は鼻で笑うように、
「面白いな、少年。まるで探偵のようだ」
「僕を探偵って呼ばないでください」
「なら余計な詮索はするな」
突然、野岡の顔が厳かになる。
リクは少したじろいだ後、
「すみません。細かいことが気になってしまう性格なので」
「まあいい。そろそろ仕事に戻るぞ」
踵を返して、野岡は入り口へと戻っていく。他の二人もその後に続いていった。
リクはしばらく例の絵を眺めていた。
――ドクン!
なんだろう、これは。
リクの心臓がいやに脈打つ。
盗まれなかった、この絵の存在。果たして犯人は本当に怪盗アリシアなのか。だとしたら何故彼女は人殺しなんかしたのだろうか?
そして――果たして事件は本当にこれで終わりなのだろうか?
リクの脳裏に無数の不安がうごめいていた。
その不安がやがて真実になるということを、後に彼は知ることとなる。
「ひー、つーかーれたぁーー」
机に突っ伏しながら、菜緒は疲弊声をあげる。一日でこれほどまでに閉めるのか、というぐらいに彼女のメイド服は汗ばんでいた。
「お疲れ様、菜緒ちゃん」
「もぉ、あの野岡さんって人、ホント人使い荒いよ」
「仕方ないよ。使用人の手が足りなくて仕事が溜まっていたんだし。ね、りっくん」
少女はソファに座っているリクのほうに目をやる。すると彼は、ペンを咥えたまま腕を組んでしかめっ面をしていた。
やっぱり、事件のことを考えているな。少女には一目瞭然だった。
「まーた、なに考えているの?」
少女はリクの背後に廻り、彼の肩にそっと手を添える。
「そんなに気になるの? あの絵のこと」
リクはしばらく黙って、こくり、と首を縦に振った。
あれからリクはずっと考え込んでいた。
あのコレクションルームにあった絵……あれを見て以来、リクの心には薄い霧がかかったかのような感情が渦巻いていた。
違和感、というよりも、既視感……デジャヴに近いものだ。
スイートピーが咲き誇るあの丘で、幼い二人が手をつなぐ光景。ずいぶん昔に、あれと同じものを……あれ?
「うっ!」
妙な頭痛が彼を襲う。
あれは、一体……。
リクが頭を抱えていると、突然、
「大丈夫?」
ふわりと柔らかい腕が、彼の方をそっと包む。誰の腕かはすぐ分かった。しかし今はその優しさに包まれていたいと思ってしまう。
「だ、大丈夫です」
「無理、しないでね」
少女は優しく語り掛ける。
「それはそうと、お腹すいたぁ!」
菜緒の素っ頓狂な声が、雰囲気を一気にかき消した。思わず二人はずっこけてしまう。
「もう、菜緒ちゃん」
「だぁってええええ!」
そのとき、休憩室のドアがノックされた。
「夕食ができたぞ」
「わあい!」
菜緒が目を光らせて、一目散に部屋を出る。
とはいえ、正直リクと少女も非常に腹をすかせていた。だからこそ、折角だから食事も真紀たちと一緒に食べていけ、という野岡の好意はありがたかった。真紀もその申し出には反対しなかった。
「りっくん、いこっか」
「えっ、ああ、はい」
空返事を投げて、リクは食堂へと向かっていった。
ピンク色のテーブルクロスと対照的な、白い皿。その上には色鮮やかな料理が並べられている。料理名は分からなかったが、とにかくサラダ的な何かと、肉料理と、スープ、そしてフランスパンだということはよく分かる。
「すごーい。真紀ちゃん毎日こんなの食べているの?」
「うん、まぁ。とはいっても今日は菜緒ちゃんたちが一緒だからいつもより豪華なんだけどね」
「さすが! 野岡さん料理上手ですねぇ」
先ほどまでボロクソに言ってた野岡に、菜緒は手をすり合わせて近寄る。これが彼女なりの世渡り方法なのか、とリクはある意味で感心してしまう。
「いや、これは……」
「俺が作ったんだけど」
野岡の背後で、金髪の使用人――夏目が得意げな顔で腕を組んでいた。
「えっ、嘘……」
「何だよ、その顔。信用していないな」
「だって、ねぇ」
引きつる菜緒を見ながら、夏目はやれやれと首を振った。
「俺、両親を早くに亡くしたから。親戚をたらい回しにされて、もうある程度の家事は自分でやらないと生きていけなかったんだよね」
「へぇ……ずいぶんと苦労したんですねぇ」
「まぁねぇ」
夏目の表情はどこか明るかった。しかし、どこか彼には作り笑いをしているような……そんな様子が読み取れた。
「ところで、野岡さん。伯父様は?」
真紀が尋ねる。そういえば茂一の姿が見えないな、と一同はようやく気づいた。
「それがどうも気分が優れないようで。食事はいらないそうです」
「そう……」
真紀は俯いたまま、じっとスカートの裾を握っている。彼女の額から、少し汗がにじみ始める。
何だろう、とリクがしばらく彼女を観察していると、食堂に誰かがやってきた。
「ただいまー」
入ってきたのは、真紀の従姉、梨音だった。
「おかえりなさいませ、梨音お嬢様」
「ご飯は?」
相変わらず機嫌の悪そうな声で梨音は尋ねた。
「あー、すみませんね。実は梨音お嬢様の分はいらないと思って作っていないんすよ」
夏目が意地悪そうに言うと、梨音はムッと眉を顰めて、
「何ですって! 夏目、夕食は一応用意しといってっていったでしょう!」
怒鳴り声で、梨音は夏目に詰め寄る。しかし夏目はまたまた意地悪そうに笑い、
「冗談っすよ。ちゃんと準備していまっすって」
夏目の冗談に、梨音ははぁっとため息をつく。そのまま黙って、真紀の向かい側の席に着いた。
「夏目、全くお前は……」
野岡が呆れ気味に言うと、梨音は
「いいのよ。この人はこういう人なんだから」
「またまたぁ。梨音ちゃんは俺の手料理が食べたかったんでしょう?」
「違うわよ!」
ふん、と鼻を立てて梨音は真紀の向かいの席に座った。
結局、この日の夕食はピリピリした雰囲気の中、あまり会話らしい会話というものがないまま終わってしまったのだった。
「あー、美味しかった……のかな?」
「なんか味がよく分からなかったね」
菜緒と少女はふたりで見つめあってやれやれ、と首を振る。結局梨音が始終眉間に皺を寄せたまま食事していたせいで、味わって食べることもできずじまいになってしまった。
「まぁ仕方がないか。とりあえず今日は仕事終わり……」
「おい、見回りにいくぞ」
「えぇ!? まだ仕事あるんですか?」
突如聞こえた野岡の声に、菜緒はがっくりと肩を落とした。
「これが最後の仕事だ」
「はいはいっ、と」
菜緒は舌打ち交じりに、野岡の後をついていくことにした。リクと少女も、その後についていく。
玄関を出て、庭をぐるりと回る。ほとんど閑散としており、木々が風に揺れる、微かな音が聞こえるのみだ。
「異常はないな」
野岡は懐中電灯を照らし、辺りを見回した。彼のいうとおり、誰の目から見ても全く異常はない。
ちょうど一周半ほどすると、例のコレクションルーム前に辿り着いた。こうして暗い中で見ると、物置どころかただのコンクリートの塊にしか見えない。
「中に入るぞ。暗いから気をつけろ」
野岡はポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。そこから手探りで電灯のスイッチを探す。
カチ、カチと二回ほど押す。しかし明かりは全く点かなかった。
「おかしいな。蛍光灯が切れているのか?」
「りっくん、暗くて怖い……」
少女はリクの傍にそっと寄った。どうも本当に怖がっているようなので、リクもとやかくは言わなかった。
仕方がない、と野岡が懐中電灯の明かりを照らす。壁から壁へ、ゆっくりと光を当てるようにして、中を見渡していった。
「特に異常はない、な」
「キャッ!」
言っている傍から、少女が悲鳴を挙げた。そこから、カランと何かが転がる音が耳に入った。
「大丈夫?」
「いたた……。躓いちゃった」
少女はペロリと舌を出して、足を擦った。
「全く……」
リクがそっと彼女に手を差し出した。少女はゆっくりと顔を挙げ、にっこりと微笑んで、
「ありがとう。りっくん」
彼の手を掴みながら、ゆっくりと立ち上がった。
「ど、どういたしまして。それよりも……」心なし顔を赤らめて、リクは野岡のほうに目を向ける。「何か、異常はありましたか?」
「いや、大丈夫だ」野岡が返事をする。「一番心配だったあの絵も、ほら」
野岡が照らした明かりに、例の絵が映った。最初に見たときと変わらず、美しい絵がそこにはあった。
――ドクン。
まただ。また、嫌な予感が脳裏をよぎる。
「どうしたの、りっくん」
「いえ……」
様子のおかしいリクを見ながら、少女は心配そうな表情を浮かべた。
「それじゃあこれで仕事は終わりだ」
野岡は懐中電灯を切って、コレクションルームにもう一度鍵を掛けた。
「失礼」
リクは扉を二、三度揺らした。鍵は頑丈で、ビクともしない。
「大丈夫、ですね」
「もう、りっくん心配しすぎ」
えへへ、と少女は笑う。しかしリクは相変わらず眉間に皺を寄せたままだ。
このまま何も起こらなければ。リクはただそう願うばかりだった。
「それじゃあ俺はもう少し見回りをする」
「あ、お疲れ様でした」
野岡は黙って、その場から離れていった。
「あ、いたいた」
後ろから、真紀が声を掛けてきた。
「あ、真紀ちゃん」
「今日はお疲れ様。汗かいたでしょう? よかったらうちのお風呂に入っていかない?」
真紀の申し出に、菜緒は瞳を\マークにして、
「もしかして、広い? 大理石? 湯船にお札が浮かんでいたりする?」
「あなたは何時代のお金持ちを想像しているんですか?」
リクが呆れて、ため息を吐く。
「でもいいね、お風呂。りっくんも一緒に入ろ!」
「入りません!」
リクは静かに突っ込み、もう一度メモ帳を開いた。結局、今日得た情報は簡単な屋敷の見取り図と、真紀を含めて屋敷に誰がいたのか、ということだけだ。
こんなものか、と思いながらリクは手帳を閉じた。
「あれ?」
少女が突然眉を顰める。
「どうしたんですか?」
「ううん、なんでもない」
ポケットを何度もまさぐりながら、少女も屋敷のほうへと戻っていった。
浴室と呼ぶにはあまりにも広すぎる、その浴場。お札こそ浮かんではいないものの、スーパー銭湯ばりのジェットバスと人間二十人分は入りそうなゆったりとした浴槽に、菜緒たちは目を輝かせた。
「あー、極楽極楽」
「菜緒ちゃん、親父くさいよ」
「あー、うっさい! あんだけしごかれた後なんだから仕方がないでしょ! 真紀ちゃん、バイト料弾んでくれなきゃ一生恨むからね!」
ジャグジーで背中をマッサージしながら、菜緒は文句を垂れた。真紀はふふふと彼女に笑いかける。
「野岡さんは仕事に対して真面目な人だから。本当はとっても優しい人なんだよ」
「あっれー、真紀ちゃん」
菜緒がニヤニヤしながら、真紀を見る。
「なんだかポーッとしちゃってるよぉ」
「え、そんなことないよ……」
「湯当たりしちゃったかなぁ? それとも、別のことかなぁ?」
「別のことって……」
「もう、分かっている癖にぃ!」
菜緒は背後から真紀の胸を掴んだ。
「キャッ!」
「いやらしいおっぱいしちゃって! この色香は誰に向けたものだぁ!?」
もにゅっと柔らかい音と共に、菜緒は真紀の胸を揉みほぐした。
「ちょっと、菜緒ちゃん!」少女が声を発する。「真紀ちゃん困ってるじゃん」
「そういうあんたこそ」
菜緒はいやらしい手つきを残したまま、今度は少女のほうを向く。
「あのりっくんとどういう関係だったりするの?」
「えっ?」
やれやれ、と菜緒は首を振って、
「だって、ねぇ。あんな初等部の男の子に、あからさまなアプローチしちゃって。何か特別な理由でもあるんでしょ?」
「特別も何も、私とりっくんは結婚する運命なの! 前世の前世の、そのまた前世からそういう運命なんだからね!」
少女が少し自分の世界に入っていると、後ろからガシッと胸を掴まれる。
「あんたもでっかいパイオツしやがって! このショタコン女!」
「ちょっと、やめてよ、菜緒ちゃん!」
「言え! あのガキンチョのどこが気に入ったんだ!」
「気に入ったも何も」少女は荒い息混じりに返事をする。「りっくんは、私の大切な……」
その瞬間――。
「きゃあああああああああ!」
真紀の悲鳴が、浴場内に響き渡った。それも菜緒に悪戯された悲鳴ではなく、本当によくないことが起こったかのような……。
「あ、あれ……」
真紀が指差したのは、窓の外。湯気で曇った、そのガラス越しでも分かった。
「その光景」を見た瞬間、二人もまた、
「いやあああああああ!」
再び、浴場内、いや屋敷全体に響き渡る声で悲鳴を挙げた。
さきほどまで、確かに「その建物」には異常がなかった。それは見回りに行ったリクたち自身が、一番よく分かっていたはず。
しかし、今目の前に広がっている光景は、正真正銘の「異常」であり、「異変」だった。
「まさか、そんな……」
その場にいた誰もが、驚かざるを得なかった。
例のコレクションルーム。頑丈で、強固な、あの建物が、目映いオレンジ色の光を放ち――轟々と燃え盛っていた。
リクや真紀たちも、一目散に駆けつけていった。しかし、火の回りは早く、もう中に入ることも無理そうだ。煙の中に混じった、石と灯油のようなものが焦げる臭いを嗅ぎながら、クッと歯を食いしばることしかできなかった。
「そ、そんな……」
火が消えたのは、それから三十分後。ようやく落ち着きを取り戻したリクが時計を見ると、午後九時半になっていた。
慌ただしく行き来をする消防隊に混じって、別のサイレン音が聞こえてきた。
「ったく、またここか」
「警部、嫌そうですね」
「しゃーねぇだろ。またあの親父に会わなきゃと思うと……」
リクの耳に、よく知った声が聞こえてきた。当然といえば当然なのだが、まさかここで会うことになろうとは……。
「って、お前、何でここにいるんだ!?」
ほら。そういうだろうと思った。まぁここは正直に事情を説明しよう、とリクは思った、その瞬間……。
「菜緒!」
「パパ!?」
――えっ?
リクは、はっと振り向いた。
「お前、友達と一緒にバイトのはずじゃ……」
「嘘は言ってないでしょ! 大体ここは友達の家だし! 別にあたしがどこでバイトしようがパパには関係ないでしょ!」
つまりは、えっと……。
リクのよく知っている二人は、一見接点がないように見えて、実は……。
「あの、東刑事?」
「あん? 何だ、お前か」
菜緒のときほど興味なさそうに、武彦が返事をする。
「って、綾辻君! 何で君がここにいるの!?」
武彦に代わって、部下のこのはが予想通りの反応をしてくれた。
「まぁ、その……。僕は、そこにいる菜緒さんに頼まれてここにきたわけですが……」
「なああにぃいい!? 菜緒に、たあのぉまれたああああ!?」
武彦の顔右半分がつりあがり、歯をキリキリと軋ませている。驚くほど難しい表情を浮かべて、完全に怒りを表現していた。
「おいこら! お前、うちの娘とどういう関係だあああああ!?」
鬼だ。鬼刑事だ。いや、ただの親馬鹿だ。しかも何かものすごい勘違いをしているようだ。
「りっくううん? どういう関係なのおおおお!?」
いつの間にかやってきた少女も何か勘違いをしていた。
「すみません、そこの消防士さん。そこで燃えている二人もついでに消火してもらえませんか?」
「そういうのはちょっと……」
突然呼び止められた消防士は、当然だが汗を垂らしながら困惑していた。
「んで、君は?」
武彦が少女のほうに声を掛ける。すると彼女は、
「えっとぉ、菜緒ちゃんの友人で、りっくんの妻です」
「なるほどな」
「納得しないで仕事してください」
リクが突っ込みを入れた後、武彦は背広を正して首を回す。そして、鎮火したコレクションルームの前に、ゆっくりと足を進めた。
「せーのっ!」
コレクションルームでは、警察や消防隊の皆が大きなハンマーを持ってドアに打ち付けていた。何度も、太鼓のような音が鳴り響き、そしてようやく、
「開いたぞ!」
鈍い音と共に、ドアが勢いよく開いた。
何も言わず、武彦は中へと入る。このはも、ゆっくりと、彼の後に続いていった。
「こりゃひでぇな」
一面黒く染まった内部は、不自然なほどに燻された臭いが充満していた。ハンカチを取り出し、口元を押さえながら、ゆっくりと進んでいく。歩くたびに、燃えた木片やら鉄やらが軋む音が聞こえた。
中に何があったのか、武彦は知らない。だからこそ、この燃えたコレクションルームの悲惨さが伝わってきた。
壁に掛けられた絵も、立派な甲冑も、虎の剥製らしきものも、もうその面影は残っていない。かろうじて、そういったものがあったのだと分かる程度だ。火事が起こる前はお互いがさぞ煌びやかに見栄を張っていたのだろうと思った。
「東刑事、待ってくださいよ」
遅れて入ってきたこのはの声を聞いて、武彦も足を止める。そして、ふと下にある瓦礫に目を向けた。おそらく、中世の棺桶か何かだろう。
そして、その隙間から、彼はとんでもないものを目にした。
「これは……」
目を丸くした武彦の姿を見て、このはも足を止めた。
「おい、宮古。お前、近いうちに焼き鳥を食う予定あるか?」
「えっと、来週高校の友達と飲み会があるんですが……」
「そうか」武彦は首を横に振った。「悪いがキャンセルしたほうがいい。これ見たら一ヶ月は食えなくなるぞ」
数分後、重い足取りで武彦が出てきた。なにやら消防隊の人を呼びとめ、小声で話をしている。
続いて、このはも外へ出てきた。ハンカチを口に押さえ、その顔はひどく青ざめていた。
「東刑事!」
「おう、綾辻」
武彦は奥歯をかみ締めた。
「どうも、一筋縄ではいかなくなったようだ」
「えっ?」
ふと、リクはこのはのほうを見る。彼女は額から流れ出る汗を拭きながら、ずっと怯えた表情を浮かべていた。
「コレクションルームの中から、焼死体が発見された」
「なっ――」
「それも、ただの焼死体じゃない。刀のようなもので、胸を根元まで貫くように刺されていた。ひでぇことしやがる」
あの部屋に、焼死体? 馬鹿な……。
一体、誰の死体だというのだろうか。リクには、嫌な予感しか湧いてこなかった。
「それで、死体なんだが、腕時計がかろうじて残っていた。あれには俺も見覚えがあるんだ。焦げてはいるが、趣味の悪い金色の奴だ」
「まさか、それって……」
「ああ。そうだ。この屋敷の主人、時村茂一のものだ」
リクも少女も、いや、その場にいた連中全員が凍りつくように身体を硬直させた。
「まさか、旦那様が……」
「そんな、お父さんまでもが……」
「いや、いやああああああああ!」
昼間、まだ元気に生きていたはずのあの主人が死んだ。突然の火事だけでなく、再びこの屋敷で殺人が起こったことに、皆が驚きを隠せなかった。
そんな中、リクは、深呼吸をした後、顔を落ち着けて、
「刑事、ひとついいですか?」
「何だ?」
リクは唾を呑み込んで、ゆっくりとコレクションルームの前にやってきた。
「この扉。壊すのに随分と苦労していましたよね?」
「ああ。相当頑丈だった上、鍵が掛かっていたからな」
「そして、このコレクションルーム」
リクは全体を眺める。
「出入り口はこの扉しかない上、小窓や通気口も人が通れるほどの大きさじゃない。鍵はといえば、野岡さんが管理しているものがひとつだけ、なんですよ」
リクが言いたいことは、武彦にも理解ができた。しかし、その言葉を出すことはあまりにも非現実的すぎる。
「これって、あれですよね? ヘレン・ケラーの小説でよく出てくる、アレ……」
このはは真面目な顔で頓珍漢な発言をする。
「綾辻。この場合の突っ込みは『それは推理小説家じゃないだろ』で合ってるのか?」
「多分合ってると思いますよ」
気を取り直して、リクは扉をもう一度眺めた。
「つまり、これは……」
「完全な、密室殺人……」
口に出したのは、リクでも武彦でもなかった。もちろん、このはでもない。
「だよね、りっくん」
例の少女が、いやに落ち着いた声で話しかけてきた。彼女は得意気に微笑んで、リクにアイコンタクトを送る。
「え、ええ。そうです……」
「はは、ふざけんなよ」
武彦は頭を抱えた。
「現代の世の中で、そんな馬鹿なことをやろうとする奴がいるのか? そんな無意味な意表をついてみんなを驚かせるような真似をする奴なんざ……」
ピクリ、と武彦は身体を硬直させる。リクもまた、同じ人物のことを思い出し、身体を硬直させた。
あの人物なら、やりかねない。そいつは今までもありとあらゆる方法を用いて世間を驚きの渦に巻き込んできた。
しかし、そいつが、またこんなことをするのだろうか? 可能性はゼロではないが、どうもにわかには信じがたかった。
「東刑事!」
警官のひとりが、大急ぎで武彦のほうへ駆けてきた。肩で息をしながら、彼は手に持った物を手渡す。
「今、主人の部屋を調べていたら、こんなものが……」
手渡されたのは、一枚のカードだった。
「んだと? 『今夜九時、スイートピーの丘を頂きます』」
明らかな犯行予告。そして、その下にはもう一文書かれていた。
「『クレフティス アリシア』」
再び流れる、苦しげな沈黙。
怪盗アリシアが、この屋敷で再び殺人を犯した。まさか、本当にそうなのだろうか?
誰もが、疑惑の念を隠せなかった。
市内某所にある、マンションの一室。
あの事件の後、今日のところは一旦お開きになり、彼女らはそこへと帰宅していた。
「で、どうなの?」
ベッドに腰掛けながら、菜緒は尋ねる。
「どうって、何が?」
少女は箪笥を漁りながらとぼけたように返事をする。
「あんたは今回の事件、どう思うの?」
「どうって……」
「誰が犯人だと思うの?」
そう尋ねられると、彼女はくるりと振り返って、
「んー、今の時点では何も言えない、かなぁ?」
「質問が悪かった。それじゃあこう聞こうか」
菜緒は腕を組んで、彼女に尋ねる。
「あれは、本当にアリシアの仕業だと思う?」
「そんなわけないじゃん」
少女は得意げに答えた。
「そりゃ、そっか」
うんうん、と頷いて、菜緒は彼女のほうを見る。
いつの間にやら、彼女の着替えは完了していた。早着替えはやはり得意なのだろうか、一瞬のうちに衣装が変化している彼女の特技は感心するばかりだ。あとはゴムで髪を結うのみだ。
「ま、あたしも違うと思うよ」
「何で?」
少女が答えを分かっていながら、逆に聞き返す。
「そりゃあね。アリシアには完全なアリバイがあるからね。あの火事が起こったとき、あたしと一緒にお風呂に入っていたし」
菜緒がそういうと、少女は再び彼女のほうを向いた。
少女の衣装は、黒いレザーのレオタードに、スカート状のフリルがついている。右目には薄い黒の眼帯が掛かっており、髪もいつものロングからポニーテールへと変貌している。両手両足にもまた、黒いレザーのグローブとソックスが装着されていた。
これは決して、コスプレなどではない。彼女に言わせるならば、これは「変身」である。
「そうよね。本物の、怪盗アリシアさん」
菜緒は目の前にいる少女を、そう呼んだ。
少女――いや、怪盗アリシアはふっと笑いを返した。