第202話「心無き亡国の統括者④」
「キミ達は、幸せを知っているかい?」
唐突に投げかけられた言葉が、水面に伝う波紋のように広がって行く。
それは通常、受け取り手によって答えが異なる問いかけだ。
だが、奇しくも、絶望の代名詞たる冥王竜を前にした状況が答えを統一させた。
昨日までの自分が如何に幸せだったのを噛みしめ、王宮前に集った群衆がどよめく。
「おっと、いきなり質問をするなんて不躾だったね。指導聖母なんてしていると、つい人を驚かしてしまいたくなるんだ」
「ぼくの名前はメルテッサ・トゥミルクロウ・ブルファム。現王ルイの第六姫。姉ほど社交界に顔を出していないから、知らない人の方が多いだろう。よしなに」
メルテッサは気さくな声色で語りながら、王族である事の証明として最上位の儀礼を見せた。
成人女性よりも低い身長も、美しい所作で相殺するには些細な欠点。
まるで艶やかな陶磁器のように頬笑んだ彼女を見た群衆は、冥王竜とは別の意味で息を飲む。
「レジェリクエ女王陛下よりご紹介を賜ったように、ぼくは指導聖母を名乗っている。不安定機構の最上位幹部だと認識してくれればそれで良い」
「どうしてブルファムの姫が重要な職に付いているのか。冥王竜を落としたとは何なのか。キミ達が聞きたいことは山ほどあるだろう」
「それに答えろというのなら、ぼくは『幸せの為』だと胸を張る。……仮にも聖母だからね、人を救う為に様々な困難に打ち勝って来たとでも言っておこうか」
メルテッサは嘘をついていない。
ただ、その『人』というのは、メルテッサ本人の事を差す。
だからこそ、この言葉は嘘偽りない本音。
これは指導聖母・悪性が得意とする……、意味が違って聞こえる『悪性改変話術』だ。
「女性であるぼくが不安定機構を支配し、冥王竜を落とす程の力を持っている。なぜ、そんな力を持つに至ったのか」
「端的に言ってしまうなら、これは願いの帰結」
「男女差別の無い平等な社会を願い、現王ルイは20年もの間、悩み続けたんだ」
今度の言葉にも嘘は含まれていない。
もっとも、ルイはメルテッサを指導聖母に推薦しておらず、冥王竜を落とした機神の存在など、ついさっき知ったばかりだ。
繋がっているようで、全く繋がっていない文章。
都合が良い様に悪性改変された言葉に掛れば、魔王に感情を揺さぶられた群衆を騙すなど児戯に等しい。
「おや?顔色が優れないね?」
「敬虔な貴族であるキミ達に取って、男尊女卑の貴族社会は心地が良かった。そうだろう?」
「人は自分よりも不遇な存在を知ると安心する。アイツよりも俺は優れている。だから幸せなんだと。そう思い込んで誤魔化したがる」
「ハッキリ言うよ。そんな物は幸せなんかじゃない」
王に無様だと言われ、魔王に恫喝され、聖母に現実を突きつけられる。
そうした群衆の中に渦巻くのは、ただただ純粋な――、不安。
「もう一度、聞こう。キミ達は幸せを知っているかい?」
そしてその不安を抱いているのは、王城前に集った群衆だけではない。
天穹空母や冒険者が付けているミサンガを通し、メルテッサの言葉は世界中へ行き渡っている。
「どうだろうか?自分は幸せを知っていると思えたかな?」
「幸せだと思えた人は半分にも満たないだろう。ぼくは指導聖母だからね、縋りついてくる信徒を数え切れないほど見てきたとも」
「自分は不幸なんです。そう言って涙を流す人は、確かに、心の底からそう思っているのかもしれない」
「だがね、それこそが諸悪の根源なんだと、ぼくは思う」
淡々と語られる言葉はブルファム王国の男尊女卑批判であり、この王城に来ている者達からすれば耳当たりのいい話ではない。
そして、虐げられてきた弱者にとっても、この言葉は厳しいものだ。
メルテッサが言葉を発する度に、『自分は不幸だ』とする事で支えていた心に亀裂が走って行く。
「毎日、同じものを食べ、好きでもない男に抱かれ、泥のように眠る。……あぁ、不幸だ。と思える心こそ、幸せの証明だ」
「空気を吸う事は疑問に思わない。食事に不満があるのなら、比較対象があるはずだ」
「嫌悪を抱いているのなら、恋慕を抱く事もあるはずだ」
「泥のように眠れるのなら、それに準する努力があったはずだ」
「絶望とは喪失の享受。始めから持っていない人は、不幸を感じる事すらできない」
僅かにも揺らぐ事のないメルテッサの言葉が、世界に響いた。
それを聞いた人々は、次第に強張っていた表情を緩めていく。
自分の人生の中にも幸せがあったと気付き、僅かに視線を上げた。
「噛みしめたまえよ。今日の食事を。それは他の誰かが失った、最上級の幸せだ」
「抱きしめたまえよ。目の前の人を。異性、恋人、親、兄弟、そして……友人。僅かにでも暖かいと感じたのなら、きっとそれは恋だ」
「引き締めたまえよ。寝起きの顔を。夢を実現させたいのなら、苦労するのは当たり前だ」
メルテッサは知らなかった。
人間が本能的に抱く三大欲求すらままならず、付随する価値観までも失いかけた。
それでも、紅茶とケーキで幸せを感じたから。
初めてできた友人に抱かれながら、暖かい涙を流す事が出来たから。
この世界で誰よりも深く、『幸せ』を理解している。
「自らを不幸だと決めつけてはならない。幸せとは、日常の中から自分で選ぶものなんだ」
「幸せも不幸も、自分の感情だ。他人には決められない。この大陸有数の力を持つぼくでもね」
メルテッサの言葉が終わって暫くしても、誰ひとり言葉を話そうとしない。
真っ直ぐに向けられた想いが、見て見ぬふりをしていた事実を克明に示したからだ。
俯き震える数千万の瞳。
それに映る景色は、昨日よりも格段に明るい。




