第103話「亡国の夜③」
「それはそれとして、今度『じゃじゃ馬』って呼んだら酷い目に遭わすって約束したわよね?ルー」
獰猛な笑みで発せられた、『ルー』
それは、ルイがブルファム王になる前の淡い記憶。
嗜虐的で、慈愛に満ち、悪戯で、愛しい。
そんな呼び名は遠い昔に失われ、もう二度と耳に届く事は無い。
男尊女卑の極み、『ブルファム王』。
許されるはずもないそれは、ルイという男性がこの世で最も愛した、禁忌だ。
「てれーずちゃん……。なんで……」
思わず吐いて出たそれは、威厳を取り繕う壮年が発したものだ。
王として、いや、年月を重ねた男性として見るならば、その物言いは憚れるものであろう。
それでも、この場においては最も相応しい返事だったと、レジェリクエは思っている。
「テレーズは自らの意思で余の手に落ちた。もう二度と取り戻す事は叶わないだろう。そう思っていたのではないかしら?」
「あ、あぁ……。自らの子を亡くしたのだ。それも、同じ私の妻の手によって」
「同じ妻ねぇ。でも、そこには明確な差があった。事実、貴方はネシア正妃を糾弾する事が出来なかった」
「王としては、それは出来ない。ネシアの後ろにいる国が団結すれば、大陸管理システムに異常をきたすのだ」
「そう、だからこそ、フィートフィルシアを貿易の要とし、他国の力が及びやすいようにしていた。テレーズが逃げやすいように」
「……フィートフィルシアは豊かな土地だ。農業も盛んで……」
「だが、歴史的に見たフィートフィルシアはブルファム王家の騎士、王の軍務を担う懐刀よ。貿易領としての発展は強引な手段を使わなければ成し得ない。貴方は望んでいたのではないかしら?テレーズが他国で幸せになる事を」
魔王としての問い詰めと、聖女としての懺悔。
二つの顔を持つレジェリクエの、告解が始まろうとしている。
「国王・ルイ。貴方の願いは失われている。妻を失い、人を失い、国を失う。そして、このままでは命すら失うでしょう」
「私では、テレーズを幸せにしてやれないと思ったのだ……。王としてではない、人として、妻を愛する夫として」
「咎人・ルイ。貴方は選択肢を間違えたの。妻を愛する夫として、最悪の選択肢を選んだわ」
「最悪の、選択肢……」
「テレーズは貴方に迎えに来て欲しかった。何年もフィートフィルシアで待っていたのよ。最愛の子を育てながら」
「そうであったのか……、だから、いつまで経っても迎えに行かない私に失望を」
「そう、失う事を恐れたの。貴方が不治の病に犯されたと知って、テレーズは行動を起こしたわ」
はぇ……?と、力無い吐息がルイから漏れた。
頭の中を駆け巡る情報によって、思考が止まりかけているのだ。
「私が病だと診断されたのは、ネシアを亡くしてすぐの事だ。そして、一年も経つ頃には既に……、私の横には、ダマスリィールがいた」
「レジェンダリアに亡命したテレーズは、従者として必要なあらゆる事を勉強したわ。今度は妻としてではなく、メイドとして主人を支える為に」
「妙に、私の好みを知っていると思ってはいたのだ……。偶然だと笑うダマスリィールは、いつも私の好みの紅茶を淹れて来た……」
「テレーズが支払った対価は『ブルファム国王の席』。貴方を国王の席から下ろす為に、情報の習得、策謀の立案、暗躍の指揮、何でもしてくれた。一人の男・ルイを手に入れる為に頑張ったのよ」
「そこまでの好意を向けられてなお……、国王ルイはそれを知らず、か。どうしようもない男だな、私は」
「ブルファム王・ルイ。王位継承者の指名権を余に預けなさい。しかるべき者をブルファム王にし、この国を導いてあげるわ」
纏っていた示威も威勢も消え失せたルイは、静かに机に視線を落とした。
そこには、何もない。
ただ真っ白で汚れ一つない机が広がっている。
「レジェリクエよ……。救ってはくれまいか。ブルファム王国を」
「巣食ってあげましょう。傀儡の主、魔王・レジェリクエとして」
「……流石は魔王だな。あぁ、私は疲れた。疲れたよ、テレーズ……」
静かに涙を流し始めたルイの嗚咽は、次第に大きくなっていった。
それはまるで、子供が泣きじゃくる光景そのもので。
見かねたテレーズが優しく頭を抱いた後も、延々と涙が流れ続けていく。
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「そろそろ落ち着いたかしらぁ?ルイ様ぁ?」
「うん!もう大丈夫だよ、レジェリクエ様!」
「あ、全然大丈夫じゃないわねぇ。カミナー」
テレーズに抱き付いて長年のしがらみや感情を洗い流したルイは、大人の男性として大切な物まで流してしまっていた。
その笑顔は壮年ではある。
だが、子供のようなまっすぐな瞳と、大きく開けて笑う口が、大国を統べた王とは思わせない。
抱き付いたテレーズの胸に顔を押し当て始めたあたりから感じていた疑問が現実となり、レジェリクエは溜め息を吐いた。
「カミナ、すぐに治してぇ」
「これはこれで可愛いから良いんじゃないかしら?」
「まだ肝心な話が出来ていないでしょぉ。ここからが面白い所なんだからぁ」
「しょうがないわねぇ。一服、盛るわ」
そう言って、カミナは空間に手を沈め、銀色のケースを取り出した。
カパリ。と軽快な音と共に蓋が空き、その中にあったガラス管を見たルイが悲鳴を上げる。
「お注射っ……!」
「大丈夫よ、ルイくん。このお注射針は痛くないもの」
「えっ、そうなの?」
「ほらこのケースを見て。このキャラクターが見守ってくれるから痛くないのよ」
「あっ!トビイロドリマンだ!!」
注射器が入っていた銀色のケースの内側に張られていたシールは、悪を挫き、正義を守る、みんな大好き『トビイロドリマン』だ。
心無き魔人達の統括者・リーダー自らが考案したというこのキャラクターは、主に7歳以下の児童に絶大な人気を誇る。
その人気の功労者は、尋常じゃない金銭の投入と、抗えぬ政治的圧力なのは言うまでもない。
「はい、終わりました。痛く無かったでしょ」
「うん?全然痛く無かっ……ぐはぁああああ!」
トビイロドリマンに意識を持って行かれていたルイは、一切の痛痒を感じなかった。
カミさまと称されたカミナの御技に掛れば、痛覚神経を一切反応させないなど造作もない。
そして、注射自体は痛みなく終わったのだから、約束を違えた訳でもない。
机の上に崩れ落ちて震えるルイを見ながら、カミナは淡々と片付けを始めた。
「はぁっ……、はぁっ……、なんだ今の苦しみは。頭の中に湯をぶちまけられたかのような……」
「詳しい病状説明は後にするけど……、貴方の病は、眼底下に出来た瘤が原因。脳内の電気神経統シナプスが異常伝達を起こし、繋がるはずのない古い記憶が呼び起こされる事によって発生しているわ」
「の、脳内電気神経統シナプス……?」
「シナプス前部の電気依存性カルシウムチャネルが増大したカルシウムによって閉じられなくなり、脳内で信号が拡散。そのとき、最も強く反応出来たシナプスが表層に出る事で、人格の……」
「カミナ、ストープ。それの何処が詳しくない説明なの?」
「あら、脳科学の入門編よ、これ」
「普通の人は脳科学に触れること無く一生を終えるわぁ。電気神経統シナプスとやらに記憶しておきなさぁい」
脂汗を拭いながら、ルイは様々な激情を抱いている。
こんな特効薬が存在していたのか……!という、それを手に入れる事が出来なかった不満。
こんな地獄のような苦しみを何度も味わう可能性があったのか……、という安心。
そして、相反する二つの激情も、カミナが注射に混ぜていた精神安定剤によって鎮静化。
まるで悪夢から覚めた後のような顔になったルイは、差し出された水を煽った。
「ふぅ……。すまぬ。手間を掛けさせたようだな。なるほど、この薬を常用すれば私は健常で居られる訳だ」
「頭がぶっ壊れるわよ。5回目の服用で廃人確定ね」
「えっ」
「説明すると苦情が出るから割愛するけど、これは毒なのよ」
「過ぎた薬は毒と同じとは聞くが……、毒そのものを盛るとはな」
「その理屈だと、足りない毒は薬になる。それで納得してね」
淡々と語るカミナだが、もちろん、ルイの命を奪うつもりなど無い。
彼女が発動している『大規模個人魔法・生命認識強制支配』によって、心電図、発汗状態、脈、脳波などの生命維持情報は把握済み。
その情報を元に注射量を変えたのだから、事故など起こりようが無いのだ。
「ブルファム王の指名権はレジェリクエ陛下に譲ろう。そもそも、絢爛謳歌の導きがある以上、正当性は御身にあるのだ」
「潔いのは良い事ねぇ。でも、いくつか疑問があるんじゃないかしらぁ?」
「いくつかではない、沢山だ。だが、王を退く身で知って良い事なのかと思ってな。無論、明日の私の居場所が冥府なのだとしたら杞憂ではあるが」
「しないわよぉ、そんな事ぉ。余は既にブルファム王国を掌握しているけれどぉ、王しか知らない情報は流石に持っていない。貴方には王の教育係をして貰わないといけないわぁ」
「それは、王だった者の責務だが……。いいのか?私が次の王を都合のいい様に育てるかもしれんのだぞ」
「貴方は余との争いを望むのぉ?」
「いいや。まったく。微塵も思わん」
「なら、貴方の好きなように、レジェリクエに尽くす王を育てなさぁい」
くすくすくすと笑うレジェリクエに対し、ルイが取ったのは最敬礼だった。
ブルファム王……、実質的な大陸の覇者であったルイは、最敬礼を向けられる側だ。
相手が大聖母ノウィンであっても、相手が同じ立場として、敬礼を送り合う事が無かったからだ。
だからこれは、人生初の最敬礼。
これからの人生で幾度となく繰り返すルイという男の日常、その第一歩だ。
「貴方が抱いている疑問の最たる所。それは次の王位継承者が誰になるのか、って事よねぇ?」
「そうだ。不甲斐ない事に、私には王位を任せられる男児が居ない。傀儡はレジェリクエ陛下が用意した事になる。まさか、ユルドルードの息子か?」
「違うわ。彼にこんな国を納めさせるのは勿体無いものぉ」
「こんな国か、返す言葉もない」
「安心なさぁい。余が指名する王位継承者はブルファム王家の血を引いているテレーズの子よぉ」
「テロルか。なるほど、既に王としての基礎知識をレジェンダリアで勉強させているのだな」
「それも違うぅ!次の王は王務なんて全く知らないド素人。教育に苦労して悩む事が、貴方への罰ぅ」
「話が見えん。私の子供達は最低限の教育を施している。素人とは……そういうことか」
自分の置かれている状況を理解したルイは、悔しそうな表情を溢した。
次代の王はテロルではない、テレーズの子供。
そして、自分の側にテレーズがいる、その意味を悟ってしまったからだ。
「苦言を呈する立場にないのは分かっている。だが、自分の妻が別の男とこさえた子供を認知するのは、少々、堪えるな……」
「ダマスリィールとして王の側にいたテレーズは、密かにルイと子を成していた。その子は、正当な王位継承権をもつ男児であるがゆえ、青年になるまで隠していた。筋書きとしては上出来ねぇ」
「これ程までに、手を出さなかった自分が恨めしい事は無い。もし、ダマスリィールを抱いていれば、私は抵抗なく受け入れる事が出来たのだから」
「親子喧嘩は禁じるわぁ。これからは地方領主と王としてではなく、親子として仲良くしなさぁい」
「地方領主だと……?何を言っているのだ。ダマスリィールが私に仕えたのは7年だぞ。計算が合わなくなるではないか」
「そう、貴方の理屈を通すのならば、ダマスリィールの子供でなければならないわぁ」
「そうだ。だが、領主にそんな子供はいない。どうなってるのだ?」
困惑が広がっていくルイの顔と、愉快で堪らないというレジェリクエの顔。
そして、テレーズは目を伏せて弾劾の時を待っている。
「次の王は正真正銘、貴方の子ぉ。20年前、テレーズが領地に帰る前に成した子よぉ」
「20年前だと?私の子であるならば、まさか……」
「無事に生まれた子は男児であった。身の危険を感じたテレーズは、その子を弟の息子だと偽り、自分が領地に赴く形で育て上げた」
「あ、あぁ、あぁあああ……」
「ロイ・フィートフィルシアは貴方の息子ぉ。喜色である金髪がこんなにも瓜二つなんですもの、二人で横に並んだら、誰もが親子だと認めるわ」




