第101話「亡国の夜①」
「陛下、お加減はいかがでしょうか?」
静かに瞼を上げた国王ルイへ、王室付きの侍従が声を掛けた。
国王ルイが王としての責務を全う出来ていない現状、ここを訪れる官僚は皆無。
必然的に、王が身を沈めている天蓋付きのベッドに近づけるのは、身の回りの世話をしている側近の侍従のみとなっている。
そして、彼女はメイドと呼ぶには華やかさに欠け、護衛と呼ぶには武器が無く、書記官と呼ぶには学が足りない。
それでも彼女は、国王ルイが最も心を許している侍従だ。
病に伏せ、静かに眠る王の側で時を過ごせる事実が、それを雄弁に語っている。
「あぁ、ダマスリィール。私が眠ってから幾つ刻が経ったのだ?」
国王ルイの顔色は悪く、声も皺枯れている。
壮年に差し掛かったばかりにしては老いた姿には、王という威厳は見当たらない。
それでも、言葉を掛けられた侍従は安堵の吐息をついた。
「陛下がお休みに成られて、29時間が経っております」
傅いて頭を下げている侍従『ダマスリィール』へ向けた王の瞳の中には、理知が宿っている。
それを機敏に感じ取ったダマスリィールは、抱いていた緊張を解いたのだ。
国王ロイが患っている病気は、人格の豹変を引き起こす。
年齢と共に変化してきた人格が逆行し、突然、青年時代や、児童時代、もしくは泣き喚くだけの乳幼児になってしまうのだ。
そうなる原因は分かっていないが、とりわけ、目覚めた後に発症している場合が多かった。
だからこそ、今の国王ルイが実年齢に近しい人格だと知ってダマスリィールは安堵している。
「一日以上経ってしまったか。どおりで喉が渇くはずだ」
「柑橘を混ぜた水をご用意してあります」
「頼む。……いや、ひと心地付くのは後にしよう」
ダマスリィールが勧めた水は、最近の国王ルイが愛飲しているものだ。
文字通りの意味で意思の疎通が図れない場合を除き、ルイは必ず、目覚めた後にこの水で喉を潤す。
今日もそうなると思いながらの問い掛けだったが故に、ダマスリィールは僅かに訝しんだ。
「余が気を失ったのは、フィートフィルシア領への大災厄襲来の報を受けた時であった。かの領地はどうなったのだ?」
「このタイミングでのご報告は、陛下のお体に差し触ると存じております」
「報告を」
「お断りします。陛下が再び気を悪くなさり、御眠りについてしまえば、国の行く末に関わるのです」
「教えてくれと、縋っておるのだ。結局、私は何もしてやれなかった。せめて後悔くらいはしたいのだ」
今度は明確に、ダマスリィールは眉をしかめた。
王であるルイが一介の侍従程度に頭を下げ、願い縋ってきたからだ。
ダマスリィールが持つ、冷徹なまでに研ぎ澄まされた切れ長の瞳。
それに興味の色が灯り、静かに口を開く。
「お顔をお上げください。陛下が侍従に頭を下げるなど、醜聞となってしまいます」
「あぁ、私はまだ王なのだった。玉座にすら座れぬ身なので忘れておったよ」
「笑えない冗談ですね。……フィートフィルシアはレジェンダリアの手に落ちました。今は占有され、レジェンダリア軍の駐屯地と化しています」
「冥王竜はどうなった?甚大な被害が出たのではないか?」
「いいえ。レジェリクエは冥王竜を示威に使用しただけで、武力を行使しませんでした。フィートフィルシア領主が早々に降伏を宣言した事もあり、死者は一人も出ておりません」
「なんと……。そうであったか。せめてもの救いであるな」
今度は国王ルイが安堵のため息を吐き、室内が沈黙に包まれた。
沈痛なまでの静けさと、青白いルイの顔。
その両方を耐えかねたダマスリィールは、そっと話題を逸らした。
「私からも奏上賜りたき事がございます。陛下は、なぜ、フィートフィルシアを気に掛けるのですか?」
「お前が私に仕えて7年。その時には既に、ネシアは亡くなっておったか」
「私が陛下にお仕えしたのは、王妃様が姿を御隠しに成られて一年が過ぎての事であります」
「フィートフィルシアは私の恥に関わる事だ。知る者が少なければ良いという浅墓な考えがあったからこそ、お前には伝えてなかった。すまぬ」
再び頭を下げたルイを、もう一度、窘めよう。
ダマスリィールがそう思った時には、ルイの強い瞳が真っ直ぐに向けられていた。
その吸い込まれそうな瞳に見惚れ、小言を付けるタイミングを見失う。
「私には多くの妻がいた。正妃ネシアは複数国の有力者が支持した御旗であり、愛よりも先に義務が来るような、そんな女だった」
「他国の姫を王妃に迎え入れるのは正しい事だと存じます」
「あぁ、王として正しかったというのは理解している。だが、男としての私は違ったのだ」
「それは?」
「私が始めて愛した女の名は『テレーズ』。フィートフィルシア領出身のじゃじゃ馬だ」
「じゃじゃ馬ですか?側室とはいえ、王配を評する言葉とは思えません」
「気安い関係だったのだ、奴とは。王子であった私を歯牙にもかけず木刀でブチのめし、その後は、ただの友人として振る舞いおった」
「……木刀ですか?見間違いでは無く?」
「さてな。今思えば、王室晩餐会に鈍器を持ち込めるとは思えぬが……、話の要は、地方領主の娘ごときが王子に手を上げたということだ」
声にこそ出さなかったが、ダマスリィールは『良く処刑されなかったですね。その子』と思っている。
それ程までに、ブルファム王国の男尊女卑は強い。
「その時、目が覚めたのだ。男女の性別の前に、相手は一人の人間であると」
「……目覚めたの間違いでは?」
「そうやもしれぬ。私は男装女子が大好きだしな。……ともかく、私はテレーズを愛していた」
「愛していたというのなら、なぜここにテレーズ様がいらっしゃらないのですか?」
「簡単な話だ。アイツは私を捨てたのだ。いや、見限ったというべきか」
そう語った国王ルイの表情は、酷く残念なようであり、そして、何処か安心したようでもあった。
そんな複雑な表情をダマスリィールは静かに見守っている。
「次代の王を産むという大願に取り憑かれたネシアは、妊娠中のテレーズに毒を盛った。自身が生んだ第二子が姫であった事に落胆した故の暴走だった」
「王妃様の心中は、私には察する事が出来ない程の辛苦があったのですね」
「ネシアはテレーズと犬猿の仲ではあった。だが、後になって間違ったと泣いておった。その懺悔も取り返しのつかない事態になった後のことであり、私は何も出来なかった」
「王妃様は志が強いお方だと聞いています。そんなお方が涙を?」
「ネシアと褥を共にする時、出てくる言葉は弱音ばかりだ。王妃として、王妃として、王妃として。そう振舞う彼女に私は甘え続け、……ネシアも、テレーズも、娘達も、誰ひとり幸せにしてやれなかった」
第二子を産む事が出来ず、悲観に暮れてフィートフィルシアへ帰ったテレーズ。
大願に取りつかれたまま、失意の末にこの世を去ったネシア。
性別が女性というだけで、自棄を運命づけられた姫達。
その全てが、自分の弱い心のせいだと国王ルイは語った。
テレーズを王妃にしていれば。
ネシアの後ろにいる属国を嗜めていれば。
王として独裁を敷いていれば。
それらを成しえなかった国王は語る。
すべて、私が悪いのだ――、と。
「ネシアが亡くなってなお、申し訳ないとの念がフィートフィルシアへの優遇を迷い、そこをレジェリクエに付けこまれた。結局、私は最後まで何も出来なかったのだ」
「陛下は、ネシア王妃様を愛していたのですね」
「ネシアだけでは無い。テレーズも、他の側室も、娘も、全員を愛している。だが、それを振りかざす才覚が私には足りていなかった。47歳にもなって、こうも優柔不断だとはな」
「人は、一時の感情で取り返しのつかない過ちを犯す事がございます。毒を盛ったネシア様、領地に帰ったテレーズ様、もちろん陛下も、その理からは逃れられません」
「笑ってくれてよいのだぞ、ダマスリィール。王妃と側室の全てを取りこぼし、もう誰も残っていない。そんな状況に陥ってなお、私はお前とテレーズの影を重ねてしまっている」
「……私ですか?」
「顔立ちも、言葉づかいも、お前とテレーズは何もかも違う。だが、不思議と同じ気安さを感じる事があるのだ。さぁ、優柔不断な男だと笑ってくれ」
ダマスィールは明らかに眉をしかめ、怪訝な表情を隠しもしていない。
まるで、ゴミに集った小虫を見る様な、無感情に徹した目。
その中に動揺が奔っている事を、国王・ルイは見抜けなかった。
「いえ、下らない問答は差し控えさせていただきます。実は、陛下に謁見を求め、お越しになった人達がいるのです」
「フィートフィルシアの次にあるドゥゲシティ領主か?もしくは、敗戦を見越し、絶縁を申し出た属国か?」
「どちらでもありません。そのお方達は強く謁見を所望されていらっしゃいますので、此処に通したく存じております」
「違うだと?こんな場所にわざわざ足を向けるとは、相当に高尚な人のようだな」
「えぇ。『聖女』と『魔王』と『亡者』と『カミさま』を名乗っております」
「………………。そうそうたる顔触れではないか。私の人生も此処までか」
よくある大衆小説に登場する、『死』の代名詞。
趣味として文学を愛する国王は、自分の最期を言い渡しに来た顔触れに満足し、力無い笑顔を浮かべた。




