第90話「セフィナ・リンサベル①揺らぐ感情」
嘘だ。
……嘘だ。
そんなはずがない。ありえない。
そんな都合の良いことなんて、ありえない。
死に直面したら、人は、戻れない。
どんなに頑張っても、どれだけ手を尽くしたとしても、どれほどの手段を講じたとしても、すべて、すべて、すべて……無駄になった。
それは、何でも出来たパパでさえ、起こす事の出来なかった奇跡。
それは、絶対で、確定で、揺るぎようのない……理不尽。
だから私は……諦めた。
あらゆるものを諦めて、泣いて、喚いて……。
ユニクルフィンという希望に、依存したんだ。
「私の勝ちだね!おねーちゃん!」
「う……、あ……。」
リリンサは、その甘えるような声を聞き、背筋を凍りつかせ、嗚咽を吐く事しかできない。
理論や理屈では証明できない、心の中が示す『答え』。
リリンサは、脆く儚い直感に従い、目の前の人物が『セフィナ』であると理解した。
そして、理解してしまったが故に、己の歩んできた人生そのものが否定されたのだ。
それは、一人の人間の人格をも壊しうる行為。
誰が敵で、誰が味方なのか。
何が真実で、何が嘘なのか。
リリンサの揺らぐ瞳と崩れた平均的な表情は、ただただ、困惑という感情が発露した不安定なもの。
それでも、熟練の冒険者たる経験のおかげか、現状の把握はどうにかする事が出来た。
敵に襲撃されているという事実と、魔導師たる自分が魔法を封印されたという事実に、再びリリンサの背筋が凍りつく。
「あは。いくらおねーちゃんが凄い魔導師でも、魔法が使えないんじゃ何も出来ないよね?だから、私の勝ちだよ!」
「こんな大がかりな魔法まで使って……、なんの為に、こんなこと……」
「ユニクルフィンさんを、おねーちゃんから遠ざける為だよ。あのね、ユニクルフィンさんは悪い人なの!すっごくすっごく悪い人なの!!」
「ユニクが悪人?なにを馬鹿なことを言っているの?」
リリンサが張った、精一杯の虚勢。
それは、うっすらと微笑むという力無いものだった。
だがそれを、セフィナは好意的に捉えた。
ずっとずっと待ち焦がれた、最愛の姉との再会。
高ぶる感情は、幼いセフィナの感覚を麻痺させていた。
さらに、優しく頭を撫でてくれるおねーちゃんの”一番大切”は私なのだと、歪んだ自信が思考を鈍らせる。
そして、セフィナは語る。
リリンサと一緒に居たいという自分の都合のみを、一方的に。
「凄い聖女様から聞いたんだよ。ユニクルフィンさんは極悪非道な大悪人と友達なんだって。あのね、この人たちはね、すっごく悪い人でね、『心無き魔人達の統括者』ていう……」
「……例えユニクがどんな存在だとしても、彼は私のすべてと言っても良い。ユニクが隣に居ないなんて、今の私には考えられない」
「おねーちゃん、悪いユニクルフィンさんを庇ったりしなくていいんだよ?おねーちゃんはユニクルフィンさんと一緒に居ちゃダメなの!」
「庇って貰っているのは私の方。私の心はもう、ユニクのものだから」
「むぅう!おねーちゃんが変なのは、ユニクルフィンさんのせいだよね!?だから、今からユニクルフィンさんをやっつけるよ。おねーちゃんはそこで見てて」
混乱している思考でも、ユニクルフィンの事となれば、饒舌に話す事が出来た。
リリンサはそんな都合のいい自分に苦笑しながら、纏まらない思考で目の前の人物を見やる。
そして再び、リリンサの思考は捕らわれるのだ。
奇跡に喜ぶ感情と、受け入れられない感情。
複雑な気持ちは、延々と渦を巻き続ける。
そんなリリンサの複雑な表情を見たセフィナは、想い焦がれていた姉との再会が思い通り行かなかった事に不機嫌になり、視線を別の方向に向けた。
そこでは、いっぱいのタヌキ帝王が、ユニクルフィンを翻弄している。
「わぁぁぁ!!おねーちゃん見て見て、ゴモラがいっぱいいるよ!?すごいね!圧倒してるよ!」
「なにあれ……。まるで、冥王竜がいっぱいいるかのよう……。あんなの、勝てるわけない……」
「よっし!それじゃ、ゴモラと私で、悪いユニクルフィンさんを懲らしめてくるね!」
軽やかな足取りで、セフィナは歩き出した。
セフィナは、ゴモラとユニクルフィンの戦いの趨勢を完全に見抜いている。
だからこそ、焦って向かう必要を感じず、歩くスピードもゆっくりとしたものだ。
セフィナには、那由他から与えられし加護がある。
『始原の皇種・那由他の加護』とは、あらゆる知識を内包する『悪喰=イーター』へのアクセス権限。
加護を持つ者が得た知識は全て悪喰=イーターへと内包され、同時に、加護を持つ者は悪喰=イーターから必要な知識を得る事が出来る。
そして、加護を得たセフィナが一番に願った事は、「お友達のゴモラとも、お話したい!」だった。
それは、皇種として備えている『完全言語理解』を習得する事と等しい、神の力。
しかし、その願いを『悪喰=イーター』はいとも簡単に叶えた。
人類が欲して止まない崇高なる英知を、何の対価も必要なく、まるで足元の小石を拾い上げるような気安さでセフィナに与えたのだ。
会話が出来る事を喜んだセフィナがゴモラと作戦会議をしていると、ゴモラは「足止めは任せて。ユニクルフィンで遊んでくる」と申し出た。
だからこそ、絶対の信頼をセフィナはゴモラに置いているのだ。
セフィナは歩く。
大好きな姉と一緒に過ごす、想い続けた未来を手に入れる為に。
それを遮るものはどんな者でも打ち倒すという無邪気を秘めて、歩きだし――。
それをリリンサが、遮った。
「……おねーちゃんは、あっちで見てて欲しいな」
「そんなこと出来るわけないし、しない。あなたは私の……敵。そう判断した」
セフィナの前に回り込んだリリンサは、何かの策があって行動したわけではない。
絶体絶命のピンチであることも、勝機が無いことも理解している。
それでもセフィナを遮ったのは、二つの想いがあってのこと。
一つは、ユニクルフィンに敵を近づけたくなかった。
そしてもう一つは……。
大切なセフィナが自分の元から去ってしまうのを、心が拒否したのだ。
リリンサはぐちゃぐちゃになった心で、必死になって考える。
嘘が混じり込んだ悪質な問題、答えが出せるわけがない問題の答えを、必死になって考える。
「ユニクに危害を加えるというのなら、まず、私を倒してからにして」
「杖を構えても怖くないよ?おねーちゃんは魔法使えないからね。だって封じてるもん!」
「そんな事は理由にならない。例え私がどうなろうとも、ユニクの所には行かせない」
「んー。こうなったおねーちゃんは、ママでも動かせないもんね……。分かった。じゃあ、力ずくで諦めさせてあげるね《 五十重奏魔法連・渦巻く星屑》」
軽々しく唱えられた魔法は、ランク6の星魔法。
難解とされる星魔法は、一つ身につけるのでさえ多大な才能と幸運が必要とされる。
当然、相応の威力を秘めているこの魔法は、直径50cm程の星の欠片を出現させ、相手に叩きつける技だ。
特筆すべきは、その汎用性。
打ち出す速度と星の欠片の硬度を自由自在に変更できるセフィナは、最低限の威力に調整し、お願いを聞いてくれない姉へ不満と共にぶつけた。
「おねーちゃんは、黙って見てて!」
感情に任せて振るわれた杖に従い、50の星の欠片は真っ直ぐにリリンサへと向かう。
セフィナの目線で見れば、これは脅しであり、ぶつかっても大したダメージを受けない威嚇射撃だ。
それでも、リリンサの目線で見れば、敵に攻撃された事実そのものだった。
「《拡散せよ、星丈―ルナ!》」
あらかじめ掛けていた瞬界加速と飛行脚を全開で起動させ、リリンサは走り出す。
その体に刻まれた戦闘経験は、揺らぐ思考の中でも容易く答えを出したのだ。
防御魔法は使えない。
ならば、全ての魔法を星丈ールナの拡散の能力で叩き落とすしか、生き残る道はない。
だから……!
「そんな魔法で倒せるほど、私は甘くない!!」
それは、一筋の青い流星が、五十の流星を撃ち落としてゆく美しき光景。
迫る流星に対しリリンサが行ったのは、完全な位置コントロールだ。
同時に複数の星が着弾しないように、駆け、停止し、飛び、切り返し……すべて一撃で叩き伏せる。
忌むべき筋肉フェチの教えに感謝を抱いたのは、弟子を卒業してからは、これが初めてかもしれないとリリンサは思った。
息一つ乱さないままに星を下し終え、目を丸くしてビックリしているセフィナへ一気に詰め寄る。
「私は知っている。星の対消滅が強力な魔法であることも、そして……その弱点も!」
リリンサの視線は一点に集まり、狙うべき対象物を捉えている。
それは、セフィナの頭の上に浮かぶ、金色の星の彫刻。
大きさにして50cm程のこの物体は、星の対消滅の本体だ。
炎の化身を生み出す『荼毘に臥す火之迦具土』がそうであるように、この魔法も目に見える形として、この星の彫刻を出現させる。
それは明らかな弱点でもあり、この魔法が、『魔導師にとって絶対致死』と呼ばれる理由そのものだ。
魔導師にとって絶対致死。それは、裏返せば魔法的手段を使わない相手には、何の影響も与えられないということ。
そして、星の本体を破壊すれば、アンチ魔法効果は消える。
だからこそ近接戦闘を行える者には、この魔法を攻略できる可能性が残されていた。
「うん。特攻しかないって私も思うよ、おねーちゃん。それで、魔法も使えないのに、どうやって私に近づくの?《拒絶波動》」
「くぅ!」
しかしそれは、どんな魔法も受け付けない強靭な肉体を持つ者の話だ。
リリンサの肉体は、様々なバッファの影響と忌むべき筋肉フェチの教えにより、少女にしては強い。
それでもランク7の魔法を真正面から弾き返す程の強度はなく、放たれた波動によりあっけなく吹き飛ばされてしまった。
リリンサは空中で回転し、走り出す前の位置まで押し戻された。
それを見て、「やっぱり無理でしょ?」と諦めを突きつけようとしたセフィナは言葉を止め、代わりに「何それ?」と呟く。
華麗に着地したリリンサの口には、小さな笛がくわえられていた。
そして、親愛なるペットを呼ぶ笛が鳴り響く。
「確かに私一人では、攻略は難しい。だから、頼りになる増援を呼んだ」
「ふーん。あの白いドラゴンさんだよね?見たこと有るけど……レベルが低かったし、あんまり脅威じゃ無さそうだね」
特攻を仕掛けたリリンサの真なる狙いは、増援としてホロビノを呼ぶ事だった。
現在の状況を打破するために最も必要な存在は、攻撃力。
ホロビノはアンチ魔法の範囲内であっても、竜魔法を使う事が出来る。
それを経験から知るリリンサは最も有効的な手段としてホロビノを欲し、ワザと隙を見せて安全に笛を吹いたのだ。
ホロビノがここに来るまで、恐らく10分くらい。
それまでに致命打を受けなければ、状況を打破できる。
ハッタリでも何でも使って、時間を稼がないと……!
「私のホロビノを舐めていると、痛い目を見る事になる。覚えておくといい」
「そうなの?それじゃ、来る前におねーちゃんを無効化しないとね。《公転軌道》」
リリンサの思惑を無視し、セフィナは一気に決着をつけようとバッファの呪文を唱えた。
偉大なる恒星が星を連れ回すように、この魔法は対象物に引力を付与するランク7の魔法。
今回、対象に選ばれたのはリリンサ。
そして、被対象物たるセフィナはその引力に身を任せ、導かれたのだ。
走るという動作すら行わずに、セフィナはリリンサの目の前に迫る。
有酸素運動を一切していない彼女は、すらすらと詠唱を唱え終え……そして、ランク9の魔法が世界に示された。
「――封じて!《閉じこめる銀河系》」
「くぅ!《魔導よ皆既し、顕現せよ。ルーンムーン!》」
セフィナの発動した魔法は、指定した範囲にある物体の動きを完全に掌握するという、ランク9の星魔法。
この魔法に捕らわれてしまえば、眼球一つでさえ己が意思で動かす事が出来なくなり、生殺与奪の権利を奪われる。
効果範囲は5mと非常に狭く扱いが難しいものの、その課題さえクリアしてしまえば、どんなランク9の魔法よりも凶悪だ。
幸いにして、リリンサはこの魔法を知っていた。
親友の持つコレクションの中にこの魔法の魔導書も存在し、リリンサも取得を試みたことがあったのだ。
しかし、実用的なレベルでの使用は出来ず、効果を把握した程度に過ぎない。
それでも、完全な形で発動されれば敗北すると知っているリリンサは、悪手であると分かっていながらも星丈―ルナを解き放ち、ルーンムーンへと覚醒させた。
そして、強まった拡散の効果を起動し、なんとかその効果が出る前に打ち消す事に成功したのだ。
急激に失われる魔力と体力。
それでも、一撃を防ぎきった事で安堵を抱いてしまったリリンサは、セフィナの表情を見て戦慄した。
無邪気に笑う、幼い笑顔。
セフィナは、嬉しくてたまらなかった。
尊敬する姉が、魔法も使えないのにランク9の魔法に対応して見せたこと。
そして……自分の作戦が上手く行った事が、尊敬する姉に勝った事が、嬉しくて嬉しくてたまらないのだ。
「《偉大なる父も、受け継いだ姉も、もういない。だから私が代わりにやるよ。この杖こそ皇たる証なのだから。目覚めて!神魔杖罰・メルクリウス!》」
「それはっ、パパの杖……!」
「いっけえ!《流れ落ちる水銀!》」
リリンサの目の前で、その杖は本来の姿を現した。
『神魔杖罰・メルクリウス』
神をも罰する魔法と魔術の杖であるこのメルクリウスの力を、リリンサは朧げながらに理解していた。
それは、偉大なる父が持っていた、最高の魔導杖。
どんなお願いだろうと叶えてくれる父が、絶対に触らせてくれなかった、崇高なる禁忌の力。
それを前にしたリリンサは、驚愕と困惑により、一瞬だけ思考が停止した。
そして、そんな時間があれば、敗北するのは必然だったのだ。
リリンサの思考が動き出したのは、全ての決着が付いた後だった。
力なく地面に膝をつき、ふらつく体を必死に繋ぎ止めているリリンサと、それを見下すセフィナ。
敗者と勝者の立場は明らかで、覆す事は出来ない。
「何をした……?これは……私に掛っていた全ての魔法効果が打ち消されている?」
「流れ落ちる水銀って言ってね、この杖の特殊能力の一つなの。対象物に掛ってる魔法的効果を一定時間打ち消す事が出来る。だから今のおねーちゃんはもう戦えないよ。防御魔法やバッファはみんな消えちゃったし、その服も杖も、ただの布だし木の棒なんだから」
「そんな……」
リリンサは、言いようのない喪失感に襲われていた。
普段からバッファを多用しているとはいえ、全ての魔法効果を解除する瞬間はある。
しかし、今感じている喪失感はそんな時とは比べ物にならない程に、大きいもので。
まるで、心の中に眠っていた大切な存在までもが消えてしまったかのような、取り返しのつかない後悔の波に飲み込まれ、リリンサは揺らぐ瞳でセフィナを見上げた。
「どうして……。どうして今、なの……?今になって、ユニクともう少しで結ばれるという今になって、どうして……?」
「今だからだよ。おねーちゃんが貰った神託ね、間違いだったんだって」
「私の神託が……間違い……?」
「そうだよ。だってね、私が貰った神託は、『リリンサおねーちゃんの神託は間違いだったから、それを正してきて』って内容だったの。だから、おねーちゃんがユニクルフィンさんと一緒にいるのはダメなの」
セフィナは自分にとっての真実を告げ、リリンサにとっての真実を壊した。
それがどれだけ残酷なことかも分からず、壊れた玩具のように、与えられた役割すらも放棄して。
何もかも全て壊されたリリンサは力なく座り込み、誰にも聞きとれない小さな声を漏らす。
「私は、また、大切な人を失うの……?」
「見て、おねーちゃん。お別れの時に失敗しちゃった魔法も、こんなに上手になったんだよ。《 五十重奏魔法連・雷光槍》」
「……やだ。……そんなのやだよ」
「そんな悲しそうな顔しないで、褒めてよ。こんなにも頑張ったんだから、おねーちゃんにも勝てるくらい頑張ったんだから、褒めてよ」
「……ぐすっ。……ユニク……」
「……なんでユニクルフィンさんなの。何で、私じゃないの?私はただ、昔みたいに、褒めて欲しいだけなのにっ!!」
セフィナは、まだ子供だ。
それも、早くに家族から離れ、心が成長する事の無かった、幼すぎる子供。
高ぶった感情は、そのまま光の槍となってリリンサへと放たれた。
防御手段の無いリリンサにとって、あまりにも強大なそれは、たったの一本ですら命が危ぶまれる程の脅威。
それを良く知るリリンサは、50本の雷光槍を見て、助かり様が無いことを理解した。
そして、再び死に分かれてしまうであろう未来を察したリリンサは、最期に、セフィナの姿を目に焼きつけようと虚ろな視線を向ける。
しかしそれは、リリンサが恋慕を抱いた背中によって、遮られた。
「喰らい尽くせ!グラムッ!!」
唯のランク4の魔法など、その剣の前では児戯に等しい。
放たれた全ての雷を剣に飲み込ませ、少年は、力なく座り込んでいるパートナーへ横顔と言葉を向けた。
「……悪い、遅くなっちまったな、リリン」




