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第83話「夜のお茶会⑤」

 俺は……困惑している。

 目の前に、人類最高峰の変態が織りなす、空前絶後の物証があるからだ。


 本来ならば、このパンツという物体は、俺の激情を呼び覚まし、天を突く程の熱いパトスとなるはずだ。

 なにせ、初恋の人がついさっきまで履いていたパンツなのだ。

 そんなものが明るみに晒されるばかりか、机の上に広げられているのだから、童貞の俺には耐えがたい。


 しかし、このパンツには夢も希望もない。

 形状は良く見慣れた『男もののトランクスタイプ』で、『女性の下着』という理想とは、かけ離れたものだからだ。


 ……だが、それだけだったのなら、まだ、どうにでもなっただろう。

 男装趣味といえば恰好が付くし、じじぃの秘密コレクションには『人妻のススメ5月号~守ってあげたい男の娘特集~』なる本もあった。

 アルカディアさんは美人でカッコよくもあるし、そういうのであれば断然、アリだと思う。


 だがな……。

 俺はリリンが指差している先、パンツ裏のゴムに視線を落とした。

 そこには、薄く滲んだ文字で、名前らしきものが書かれている。



『ユU十U-十』



 ……。

 どう見てもこの文字は、『アルカディア』ではない。

 一応、文字数はあっているものの、形が違いすぎる。

 ならば、この文字は誰を現しているというのだろうか?


 答えは簡単だ。

『ユU十U-十』

『ユルドルード』



 ……なぁ、親父よ。

 全人類に全裸を公開して、ドヤ顔をしていた親父よ。

 俺、初恋の人が出来たんだ。

 その人はさ、可愛くて、強くて。……タヌキ好きな所はちょっと困るけど、それでも……初恋だったんだ。


 でさ、息子として相談があるんだ。


 初恋の人が、実の親父の中古パンツを履いていた場合は、どうすればいいんだ?

 親父に銀河終焉核を撃ち込めばいいのか?それとも、出来もしないのにグラムの最終形態を無理やり呼び起こせばいいのか?


 教えてくれよ、親父。

 そして、俺に謝罪しろおおおおおおッ!!



「……。ちくしょうめ……」

「ユニク。そんなにパンツを見つめてどうしたの?……あ。もしかしてパンツを見て興奮している?ダメ!そういうのは、私のでして欲しいと思う!!」



 こっちはこっちで、暴走し始めてるんだけど。

 そりゃ、リリンのパンツなら……あぁ、そういえばこっちは『タヌキパンツ』疑惑があったっけな。

 夢も希望もなく、俺の魂だけが確実に縮んでゆく。



「いや、パンツ談義は置いておくとしよう。で、問題のコレだが……」

「うん。どう見てもこの文字は『アルカディア』には見えない。このパンツは恐らく、背後に立つ人物の物だったと推測できる」



 うん。リリンは俺と同じ意見らしい。

 で、どう見ても『ユルドルード』にしか見えないんだけど、どうしよう……。


 もはや、アルカディアさんの師匠とやらは親父で間違いないだろう。

 これには、絶対の確信がある。

 思い出せないはずの記憶も、『これは親父のパンツだ。よく洗濯させられてただろ?』と囁いて来ている。


 問題は……この事実をリリンに打ち明けた場合、どうなるのか?だ。

 想像しなくても分かる気もするが……少し探りつつ、リリンの様子を見よう。



「確かにその可能性は高いだろうな。で、持ち主を特定した後はどうするつもりだ?」

「そんなの決まっている。ボッコボコにブチ転がす!」


「どうしてそうなった!?」

「アルカディアは当然女の子。そして、人間の常識が欠落している。それを良いことに、こんな変態趣味を押しつけてくる人物など、真っ当であるはずが無い!」


「うぐっ!」

「第一、このパンツ自体が随分とボロイ。アルカディアの他の服と比べてもその差は歴然で、意図的にやっていると思われる。やっぱり変態!」


「ぐふっ!」

「それに、アルカディアはさっき「おじさまは服を出し渋った」と言った。それはつまり、このパンツで過ごす事を強要していたという事!!もはや、こんな究極変態は生かしておく価値はない。一族すべて根絶やしにするべき!」


「一族すべて根絶やし!?」



 やめてくれ!!俺は関係ないだろッ!!

 ……と叫びたがったが、全力で言葉を飲み込む。


 これはヤバい。非常にヤバすぎる状況だ。

 もし、このパンツの持ち主が親父だとバレた場合、リリンの抱く失望は半端な物じゃないだろう。


 リリンの英雄(親父)に対する憧れは、それはもう凄いものだ。

 それなのに、年頃の女の子に使い古したパンツを履かせる変態野郎だとバレたらどうなってしまうのだろうか?


 間違いなく、大悪魔降臨ルートだな。

 古来より、英雄の敵は魔王だと相場が決まっているし。


 なんてこった。親父のパンツで、世界がヤバいッ!!

 なんとかして、リリンの興味を他の事に向けないと!!



「なぁ、案外、このパンツは手掛かりにならないんじゃないか?」

「そんなこと無い。敵の名前なんてものすごく重大な情報。……このパンツ、回収してワルトナの所に送ろう」



 やめてくれッ!!

 ワルトなら、絶対に気が付くからッ!!

 気が付いた末に、心無き大悪魔を集結させて、俺を抹殺しに来るから!!



「待て、リリン。それは流石に辞めておくべきだ」

「なんで?」



 そりゃ、俺の自尊心が死ぬからだよ。



「ワルトも重要な任務に付いているんだろ?そんな生死を掛けた戦いの最中に、こんなパンツなんて送られてきたらどう思う?」

「……困惑して、余計なミスを呼ぶ?」



 あぁ、間違いなく困惑するだろうぜ。

 一晩じっくり考え込むレベルで困惑した後、俺が謎の失踪を遂げる。



「そうだ。俺達は対等な関係であって、協力者だ。相手の邪魔になる様な事はするべきじゃない」

「確かにそう。うん。だったら私達できちんと考察するべきだね」



 考察しなくていいんだよッ!!

 今すぐ火にくべて、証拠隠滅を図るべきだッ!!


 だが、あからさまな行動を起こせばリリンに怪しまれる。

 ちくしょう、なんだよこの状況。

 初恋の人が親父のパンツを履いているって、どんな超展開だよッ!


 だが、俺はやり切るしかないのだ。

 もはや、敵とかどうでもよくなってきたが、俺は最高速度で頭脳を回転させる。



「そうだな。まずは文字の特定から始めないとな……始めの文字は?んー『ア』か?」

「うん?どうみても『ユ』だと思う」



 クリティカルヒットッ!!

 俺の精神に1万のダメ―ジ!!


 ちくしょう!ちょっとずつ違う文字を当てて行く作戦が、一瞬で水泡に帰したんだけど!!



「えっとそうだな、『ユ』にも見えるな」

「あ、見て。2文字目と4文字目、それと、3文字目と6文字目の形が一緒。これは同じ文字が入ると思う!」



 メガクリティカルヒットッ!!

 俺の精神に、100万のダメージ!!


 リリン!何でこんな時だけ賢いんだよ!

 つーか親父も、もっと複雑怪奇な名前にしておけよ!!

 名前で一冊本が書ける感じのが良いぞ!なんなら、呪文みたいなのでもOKだ!



「同じに見えるが……、ど、どうだろうな?」

「ふむ。5文字目の『―』は延ばす記号の長音符だと推察できる。うん。だいぶ見えてきたね」



 見えてこなくてよろしいんだよッ!!

 というかリリン、これ、半分くらい気が付いてるんじゃないのか!?

 平均的な表情が、ちょっと楽しそうなんだけど!!



「不明な2文字の組み合わせは、2652通り。一文字ずつ当てはめていく?地道な作業になるけど、この方法なら確実に容疑者を特定できる」

「お、おう……。そこまでやる価値があるのかって思っちまうけどな」


「ある。アルカディアの正体を知るのは凄く重要。ライバルの可能性がある以上、放置するのは許されない!!」



 ライバル?それは、リリンも英雄になりたいって事か?

 おう、それは本気で辞めて欲しい。


 リリンまで親父のパンツを履き始めたら、俺のストレスが限界値を超える。

 たぶん、俺はホロビノに乗って放浪の旅に出るだろう。



「な、もうパンツはいいからさ、他のこ……」


「ヴィ!?ヴィギルアアアアアアアアアアッッッ!!!!」



 どうにかして話題をすり替えようとした瞬間、浴室からアホタヌキっぽい悲鳴が上がった。

 まぁ、この部屋にアホタヌキが忍びこんでいる訳が無い。


 が、タヌキっぽい口癖をするのは、アホタヌキだけじゃない。

 もしや、アルカディアさんに危機が迫っている!?



「リリン!アルカディアさんに何かあったみたいだ!行くぞ!」

「え!?ちょ、ちょっと待ってユニク!」



 リリンに引き止められたが、待ってられる様な悲鳴じゃなかった。

 一刻を争う程に切羽詰まった声だったし、もしや、このタイミングで敵が襲撃を掛けてきた?


 えぇい!今はアルカディアさんの安全を確保するのが先だ。

 ついでにパンツの事もどっか行ってくれたら嬉しいなって思ってるぜッ!!



「アルカディアさん、大丈夫で……でかいッッごふっぁ!!!」

「見てはダメッ!!《主雷撃!!》」



 勢いよく扉を開けた先に居たのは、天衣無縫の褐色なる天使。

 たわわに実った果実が見事で、その美しさに、俺は見とれ……ゴッッ!!がふっ。


 く。流石一流ホテル。良い石壁使ってるじゃねえか。


 ずるずると崩れ落ちて行く俺が目にしたのは、口論する二人の美少女だ。

 涙ながらに怒るアルカディアさんと、それに落ち着いて対応しているリリン。

 服を強奪したのがバレたのかと思ったが、どうやらそうじゃないらしい。



「う”ぎるあ!!皮を剥ぐなんて、なんて酷い!!これはあんまりだと思う!!人間は外道!!鬼畜!!」

「……そのパジャマ、お気に召さなかった?」



 アルカディアさんが両手で広げているのは、タヌキの毛皮……もとい、タヌキパジャマだ。

 相変らず憎たらしい顔がプリントされたそれを身体の前でヒラヒラさせ、リリンに猛抗議している。


 あぁ、俺も抗議したい。

 おい、タヌキ。邪魔だ、そこをどけ!

 アルカディアさんの体が見え……ぐああ!防御魔法が壊れたんだけど!?



「ユニク。はいタオル。……デット()or目隠し。選んでいいよ」

「すみませんでしたッ!」


「……でアルカディア。タヌキパジャマ、そんなに嫌だった?」

「嫌とかそういうレベルじゃない!皮を剥いで服を作るなんて、人間は酷過ぎるぎるっ!!」



 リリンに投げつけられたタオルを目に巻きつけて、隅っこに座る俺。

 ここからは音声のみをお楽しみください。



「皮……?あぁ、そういうこと。大丈夫。それはタヌキの姿を真似て作った模造品。素材は綿100%だよ」

「綿?……すんすん。ホントだ……。タヌキの匂いじゃなくて綿だね」


「そう。だから安心して着るといい」

「分かった。えっとどうすれば……」


「先にパンツから。これは新品だから気にしなくていい」

「えっと、こう?」


「後前が逆。こっち」

「ん。なんかぴったりする……。動きやすいかも?」


「アレに比べればね。次は上。こうして……むぅ……。むぅう!」

「待って、きつ……あ!弾けた」


「そんな……こうなることを見越して、ゴム製の奴を選んだのに……」



 そりゃそうなるだろ。

 胸の兵力差を考えろよ。

 ……ん?足音が近づいて……ぐふっ!



「ユニクは外に出ていて欲しい。えい」



 そうして俺は、魅惑の天国から追放された。

 見る事はおろか、声を聞いて妄想を膨らませることすら許されなかったらしい。


 ちくしょう、闇落ちしそうだぜ!!



 **********



「う”ぎるあ~!」

「うん。気に入って貰えたようでなによりだと思う!」



 程なくして俺達は再び席に戻り、会談を始めた。

 まるで何も無かったかのように元通りだが、違う点もある。


 うわっ!アルカディアさん、すっげえタヌキパジャマ似合ってるッ!!

 まさに溢れ出るタヌキ感。

 自称タヌキの集落で育った少女は伊達じゃない。 

 タヌキ・オブ・タヌキと呼ぶべきか?


 いや、あまりにも見事すぎるので普通のタヌキじゃないだろう。

 タヌキ将軍・アルカディア。

 タヌキを統べる者たる絶対的風格すら纏い、美味そうにフルーツ牛乳を飲んでいる。



「アルカディア。あなたがお風呂に入っている間に、持ち物を調べさせてもらった。そして、気になることがある!!」

「う”ぎるあ!?えっと、ドングリ欲しい?」


「ドングリはいらない。その代わり、このパンツについて、白状して貰う!!」

「あ、おじさまのパンツ……」



 この嫌な流れ、まだ続くのかよッ!!

 ホントに闇落ちするぞ、変態親父!!

 反抗期……いや、反攻期だ!!見つけ次第、ブチ転がしてやるッ!!



「そう。私はその、『おじさま』とやらの正体が知りたい。教えて?」

「ダメ!」


「アルカディア。これは、あなたの為に聞いている事」

「私のため?」


「そう。あなたはそのおじさまに捕らえられているのでは?おそらく、弱みを握られるとかの外道な手段によって、逆らう事が出来ない」



 なんだって?

 親父がアルカディアさんの弱みを握っていて、中古パンツを履かせているだとッ!?



「……確かに、私じゃおじさまに勝てないし、逆らえる訳もない。弱肉強食」

「そうだと思った。こんなパンツを履かされている以上、ロクな人物じゃないだろうから。ここで提案がある」


「提案?」

「そう。そのおじさまの正体を教えてくれるなら、あなたの身柄は私達が保護しよう」


「一緒に居ても良いって事?」

「今度から隠れて見ている必要なない。いつでも声を掛けてくれていい」


「……ご飯は?ご飯も出てくる?」

「もちろん。デザートも付けると約束する!」


「分かった。話す!」



 親父ぃぃぃぃぃぃ!!弟子に売られたぞぉおおおおおおお!!

 欠片も信頼されて無さそうなんだが!!

 なにせ、対価が飯だ。


『英雄全裸親父<<フルコースディナー、デザート付き』か。

 飯に負けるとか、少しは信頼の獲得に努めておけよぉぉ!!


 心の中で絶叫するも、もう遅い。

 アルカディアさんはリリンと約束の指切りをした後、あっさりと口を開いた。



「ゆる……。」

「ゆる?」



 うわぁああああ!やっぱりぃいいいいい!!

 やめてくれぇぇええ!!



「ユルユルおパンツおじさま」

「「……は?」」


「おじさまのパンツはユルユル。リンなんちゃらのとは全然違う」

「……そうじゃない。私が知りたいのは、そのおじさまの名前」


「でも、多分こんな感じだった。ユルユルなんちゃら」

「ゆるゆる……。名前までふざけているというの?理解しがたい変態だと思う!」



 た、助かった!?!?

 ギリギリ、首の皮一枚で繋がった?



「アルカディア、他に特徴は?肩書きとはある?」

「肩書き?そう言えば確か……『人間もどき』って呼ばれてた」


「人間もどき?人間性を疑われる程の変態だというの?」

「たぶんそう。あと特徴は、めちゃんこ強い。ドラゴンも尻尾を巻いて逃げだす強さ」


「強いのに変態……むぅ。師匠(変態共)みたいなもの?むぅ。死ねばいいのに」



 助かったけど、死ねばいいとか言われてんだけど!!

 まぁ、俺も同意だけどな!はは!



「アルカディア、ついでに聞いておきたい。あなたは昔のユニクを知っているの?」



 ここで唐突にリリンが切り込んでいった。

 何でもない風を装っているが、その瞳は笑っておらず、真剣そのものだ。


 回答次第では、アルカディアさんは俺の幼馴染という事に……。

 張り詰める空気感の中、俺も真剣に耳を傾けた。



「知らない。ユニなんちゃらに初めて会ったのは、この間の森が初めてだし!」

「それは本当?」


「嘘をつく必要がない。本当」

「ちなみに、二回目にユニクに会ったのは、どこ?」


「森ドラと戦っている時」

「森ドラ……?じゃあ、三回目は?」


「その日の内にもう一回。葉っぱを届けに」



 アルカディアさんは真っ直ぐに俺達を見ながらそう言った。

 とても嘘をついているようには見えず、俺と幼馴染という線は消えたことになる。


 そうか……。アルカディアさんは幼馴染で、親父はいつまで経ってもアルカディアさんの事を子供扱いしている……という起死回生の可能性も消滅したわけだ。

 あまりの絶望のせいで、その後リリンが何回か質問をしていたが、ぜんぜん記憶に残らなかった。



「……ちなみに、闘技場以外で、一番最後にユニクに会ったのはいつ?」

「この町の近くの森。……あ、服は返してもらう」



 俺の願望をあっさりと否定したアルカディアさんは、洗濯籠を引き寄せ、服を魔法空間に放り込んでゆく。

 そして、籠の底に残っていた名札を手に取り胸に付けた。


 ん?カードの裏に文字らしきものが見えた気がするが、気のせいか?

 俺の顔が映り込むくらいにツヤツヤだったし、机の木目でも映ったのかもしれない。



「アルカディアさん、もう一度聞くけどさ、その『おじさま』の名前や素性は、何も知らないって事で良いんだよな?」

「うん。おじさまはおじさまだし!」


「そうか。なぁ、リリン。俺も風呂に入ってきていいか?」

「……森ドラゴンと戦っている時にも近くに居た?周囲の警戒をしている戦闘中に見過ごしたというの……?それに、葉っぱ……。」


「リリン?」

「ずっと私達を見ていた……。セフィロトアルテの森に住んでいて……。タヌキっぽい鳴き声に、パジャマを見た時の反応……」


「おーいリリン?えい。」

「ひゃあん!どうしたの?ユニク」


「俺も風呂に入って来ようかと思ってさ。色んな情報も出てきたし、一旦落ち着いて考えを纏めてくるぜ」

「そうだね。それが良いと思う」


「じゃ、行って来るぜ」



 アルカディアさんから、親父の名前が出てくる事は無さそうだ。

 だったら一度風呂にでも入って、疲れた体と心を癒すべきだな。


 俺は用意しておいた着替えを持って浴室へと向かった。

 オレンジとハーブの香りが、しっかり癒してくれそうだ。



 **********



「いいのか……?俺は、この湯船に浸かってしまっても、いいのか……?」



 しっかりと体を洗い、いざ湯船に入ろうかと思った瞬間、電撃的ひらめきが俺を貫いた。

 気が付いてしまった以上、葛藤は避けられない。

 俺は湯船の前で硬直し、思考を回してゆく。



「この風呂は……リリンとアルカディアさんが入った風呂だぞ?童貞の俺が触れて良い代物なのか?」



 自分でも、アホだと思う。

 でもさ、これは大事な事なのだ。


 いつもならリリンよりも先に、俺が風呂に入る。

 出会った当時、訓練やら何やらで疲れていた俺はさっさと風呂に入って汚れを落とし、寝たかった。

 そして、いつの間にかそれは習慣化して、風呂は俺が先となったのだ。


 だから、言うならばこれは初体験。

 旅のパートナーと初恋の人が入った風呂とか、いきなり皇種に遭遇したかのような急展開。

 そして、俺の心は素直になれと囁いてくる。



「た、たかが風呂……だろ……?二人が入ったとはいえ、入浴剤も入っているし……な……?」



 もちろん、他人が入った風呂に抵抗があるという事ではない。

 旅のパートナーと初恋の人の体を、余すことなく包み込んだこの神聖なお湯に、俺みたいな変態の息子が触れても良いのかという葛藤があるのだ。


 えぇい!勇気を出せ、俺!

 こんなチャンス、滅多にないぞ!

 聖なる温泉に体を浸し、心身ともに疲れ切った身体を癒すのだ!

 よ、よし……。い、いくぞ……!!



 カラン。



「ん?なんだよ?脱衣所で何かが落ちたのか?」



 ち。良い所で邪魔しやがって。

 だが、一応確認しておくか。リリンやアルカディアさんが忘れていった貴重品かもしれないしな。


 俺は浴室の扉を開けて、脱衣所を覗きこむ。

 そこにあったのは、渦巻く漆黒の槍だった。

 ガチの魔王様な槍が鎮座し、圧倒的恐怖を撒き散らして、俺を威嚇してきている。



「ははは、魔王の右腕か。……ひぃいいいい!!」



 **********



「《魔王の降臨(サモン・デーモン)魔王の右腕(デモン・ライト)魔王の左腕(デモン・レフト)魔王の心臓核(デモン・センターコア)》……行け、魔王の右腕。悪なる私が命ずる《浴室を、完全に、封鎖せよ!》」

「う”ぎるあ……。う“ぃぎるあ……。う”ぎぃるあ……。」


「ふふ、怯えているね、アルカディア」

「怖い……リンなんちゃら、それ、怖い……」


「そう。怖がらせるために召喚した。魔法で閉じ込めてもあるし、逃げ場はない」

「来ないで……!う”ぎるあ……。助けて、おじさま、ソドム様……!」



 暗黒微笑を称えたリリンサは、 不敵にアルカディアに近寄り、ゆっくりと手を伸ばす。

 まるで、命の恩人を慈しむように、優しくアルカディアの頬を撫で、そして……。



「えい。」

「冷たい!?何これ!?」


「恐怖抑制シール。これでもう怖くないはず」



 リリンサはアルカディアのおでこに恐怖抑制シールを張り、構えていた魔王の左腕を下ろした。

 訳も分からず呆然とするアルカディアの横に座り直し、そして、平均的な微笑みをアルカディアに向ける。



「本当は、ユニクを閉じ込めている間に、さっさと決着をつけてしまうつもりだった」

「け、決着?」


「私は、あなたの事を、ユニクの恋人になるライバルだと思っていた。一目惚れとか言ってたし、その点についてはアルカディアも悪いと思う!」

「えっと、それは、そう言えば近くに居れると思ったからだし……」


「魔王の左腕と心臓核を使っての尋問。あなたの正体を暴いた後は、力で屈服させて、私優位に事を勧めるつもりでいたし、そういう風になる様に準備もした。 ……けど、どうやら全部必要ないみたい?」



 リリンサは、魔王の左腕と心臓を手放し魔法空間に送り返すと、再びアルカディアに微笑みかけた。

 その瞳には、全ての線が繋がったという、確信の色を灯して。



「森ドラゴンから助けて貰ったあなたは、ユニクに惚れた。そうだよね?」

「う”ぎるあ……。そ、それは……」


「隠さなくていい。もう、あなたの正体は見破っているよ。……タヌキ」


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