第46話「ベアトリクスの主張①」
「傷の治りが悪い。ちっ、だから魔法攻撃は厄介なんだゾ……」
人化の魔法陣を持って生まれたベアトリクスにとって、肉体損傷は馴染みのない事態だ。
そもそも『人間』という種は、唯一神が作り出した同じ姿を持つ存在。
それを模すとはつまり、神と同じ姿を得る事と同義となる。
故に、人化の魔法は魔法十典範の外側、『魔法創神典』に記載されし魔法。
神に知識を望んだ那由他、人との遊びが願いだった金枝玉葉。
初めから理解していた両者とその種のみに許された禁忌であり、これ以外の種が人間の姿を模そうとしても、形だけを真似た不完全な存在にしかならない。
世界最強である蟲量大数ですら、おおよそ人間のシルエットと呼べる程度にしかなれないのだ。
「隠れても、匂いでバレバレだゾ。どうにか、しないと……」
そして現在、第三の特異点が生まれた。
ランダムに選ばれた魔法を爪に宿す獣……、真頭熊。
それの対象は全ての魔法――、神にのみ扱うことが許された魔法創神典も含まれていたからこそ、起こった奇跡。
骨格も筋肉もまるで違う存在になる人化の魔法は、肉体を一から再構築している。
故に、自己再生も思いのまま。
ましてや、肉体操作の権能『錬熊術師』を持つベアトリクスにとって治癒とは、呼吸と同じように自分の意思でコントロールできることのはずだった。
「はぁ、はぁ、ふぅ、血は止まったゾ。汚れた服は……、破くしかねーかダゾ」
それが通常の傷だったのなら、10秒もしない内に完治しただろう。
だが、ベアトリクスが傷を負ったのは、20分も前。
ようやく塞がった傷口、そして、そこから流れ出た血液、そのどちらもベアトリクスにとって経験のない事態だ。
「エイワズニール、アルミラユエト。どっちも溶嶽熊よりも先に皇になった古強者。だけど、奴らは穏健派。縄張りを侵害されたら反撃するけど、侵略はしない。オイラと交わした協定も守っていたはずダゾ」
そこにあったのは確かな違和感。
その正体を探るため、こんな事態になった切っ掛けを思い出す。
**********
「……ダゾ?」
濃い血の匂いを感じたのは、ダルダロシア大冥林に向かう途中。
そこはサチナの縄張りであり、食物連鎖禁止結界があるべき場所。
不慮の事故を除き、血が流れるはずがない。
だが、匂う血液は2種族のものだった。
真頭熊と破滅鹿。
ありえるはずのない争いの痕跡、それをベアトリクスは見逃すことが出来なかった。
「オイラと大差ない、若いオス。皇の定めに反するような気概ある感じじゃねーゾ……」
見つけた死体は3つ。
真頭熊が1、破滅鹿が2。
両者ともに損壊が酷い相打ち、それは食物連鎖禁止結界の効果が消えていることを意味している。
「サチナの結界が解けた……?ありえねーゾ」
ベアトリクスはサチナと戦っている。
その時に理解させられたのは、隔絶した才能の差。
筋肉の質こそ上回っていたが、魔力量、魔法適性、肉体強度……それ以外の全てで劣っていたのだ。
戦い終えた後の感想は、サチナはタヌキ帝王ソドムよりも上。
事実、ソドムを追い払ったと聞いて笑顔になった半面、サチナを怒らせないようにしようと誓うぐらいに畏怖を感じた。
そんなサチナが全力で張った結界が消失した。
ベアトリクスが感じている危機感は、それだけではない。
「……格上だゾ。これ」
そこら中から立ち上る、殺気とは呼べない、か細い何か。
それは人間の街では経験できない、野生の厳しさ。
ベアトリクスには、この感覚に覚えがあった。
『人外の皇・ユルドルード』
かの英雄が放った自分へ向けた値踏み、そして、その後に続いた敗北。
九死に一生は二度も続かないと、ベアトリクスは判断した。
「見てるのは分かってるゾ。縄張りに侵入してオイラの配下に手を出した以上、タダで返す訳にはいかねーゾ」
ベアトリクスは声を張った。
決して、不安を気取られてはならないと。
カシュコン……。
カシュコン……。
カシュコン……。
虚勢に返されたのは、死の足音の接近。
現れたのは、全身が骨で出来た骸骨の鹿。
……否、全身を魔法紋が刻まれた角で覆った白亜の皇だ。
「エイワズニール。お前か、ダゾ」
「あルてィ。まーグマのこ。敗ボク者の、不熟な皇のこ」
「相変わらず、見下す癖は治ってねーのかダゾ。お前、ここが誰の縄張りなのか分かってんのか、ダゾ」
「キツネ。特別な竜と狐の相のこ。あすまでは」
「なんだゾ……?」
「明日にはダレのものでもなくナる。ワタシは欲しい。この地が」
違和感が増えたと、ベアトリクスは思った。
『種の存ゾク、そのタメには、我欲を捨てなければナラナイ』
この世には、話にならないレベルの絶対強者がいると。
それらは戦ってみなければ分からず、だからこそ、こちらから仕掛けてはならないと。
そんな考えの下、安定した種族統治をしている賢い皇。
それが、ベアトリクスが抱いていたエイワズニールの評価だ。
「サチナはオイラ達より格上だゾ。森の最上位、ラグナガルムですら戦いたくないと言ってる。そんな相手に仕掛けるのか、ダゾ」
「クカカ、クカ。誰があんな化けモノと戦うものか」
「あ”?」
「化けモノはさらなる化けモノが始末する。ワタシの相手は格下、オマエだよ」
パキン。と剥がれ落ちたのは、エイワズニールが被っていた仮面。
骸骨の下に隠されていたのは、肉から芽吹く樹木の仮面。
「ッ!?」
「《カッ》《カッ》《カッ》《カッ》《カッ》!!《カッ》《カッ》《カッ》《カッ》《カッ》《カッ》《カッ》!!」
地面に落ちた骸骨の欠片が、意志を持ったように地を跳ね駆け回る。
ばらばらと砕け、数を増やし、それが攻撃だとベアトリクスが理解した時には既に、形成が決まっていた。
「解体して統合セよ《凝塊の権能・emeth》」
「高位魔法陣ダゾ!?」
皇であるベアトリクスは、現存するクマが持つ全ての魔法紋を扱える。
だからこそ理解してしまうのだ、目の前に広がっているのは『未知』なのだと。
地上にバラまかれた骨が、正しい役割を発揮した。
骨が肉を纏うように、大地を吸い上げて肉体を形成。
それは、物語に登場するような、人造生命。
「知恵比べヲ、しよう」
「どこが、ダゾッ!?」
はるか上空から叩きつけられる巨腕を迎え撃ちながら、ベアトリクスが吠える。
ぬかるむ大地から上半身だけ生えた異形の存在。
泥で出来たバフォメット、いや、確かにそれは泥だった。
ベアトリクスは、一方的に力負けした。
変な方向に曲がった腕、裂けた傷口に容赦なく土石流が流れ込む。
「《二十重皇牙・月欠けの輪ッ!!》」
魔法十典範『原審を下せし戦陣王』を宿す上顎、同じく魔法十典範『原形に戻りし時計王』を宿す下顎。
それらが噛み合わさって出来たベアトリクスの咆哮が、死の濁流を押し返す。
「知恵比べだったロう……?」
「がはッ、がふっ、汚ったねぇ、ゾッ!!」
泥に塗れ、戯言を吐く。
サチナと一緒に選んだ煌びやかな衣装は見る影もなく。
ベアトリクスは即座に爪に魔力を通し、大量の水を召喚。
それを頭から被る、そんな視界を失うリスクを負わざるを得ないのは、その泥が死に直結しているからだ。
一方的な力負けの原因、それは『泥に足を取られたから』。
ゴーレムに下半身が無いのではない、ぬかるんだ大地は既にゴーレムの一部となっていた。
最初から最後まで、相手の掌の上。
付着した泥を全て洗い流さなければ、どんな悪影響があるか分からない。
『洗い流す』
それが正しいとベアトリクスは思った。
そしてエイワズニールも、それが正しいと思っている。
「いねぇ――ッ!?」
嗅覚を頼りに木の上に移動し、攻勢の機会を探る。
だがそこに、エイワズニールの姿はなかった。
高さ3m強の身体、小さくはない。
隠せる障害物は周囲には存在しない、あるのは普通の森だけ。
木と草と、……土の集合体のみ。
「ッ!?いっ、ぎぃ、ぁあ”あ”ッ!!」
背後に感じた違和感へ、本能的に爪を差し向けた。
刹那、それが押し返される。
ゴキゴキと軋む指に安堵した。
防御が間に合っていなければ、ここで終わっていたから。
「ほゥ?最低限の知恵はアルか」
「はっ、これは生存本能っていうんだゾ……」
『環境』が笑っていた。
ぐにゃりと顔を歪ませて。
「あるティ。私が教えた、未熟なこ」
「お前の権能は物質の固さの操作。要するに、粘土遊びダゾ」
「遊びというにハ、イササか、滑稽な姿ダナ?」
「お前が言ったんだゾ。互いに手の内はバレてる、が、オイラの成長までは知らねーだろダゾ」
ベアトリクスはエイワズニールと取引を行っている。
相互不可侵条約、そして、その証明として互いの権能を明かしているのだ。
それは、皇種同士の協定ではありふれた条件。
賢いエイワズニールが得意とする戦場。
「クカ、クカカ」
「勝ち誇るには早いゾ、エイワズニール」
「そうカ?」
どぽん。と跳ねた地面から、光の矢が飛ぶ。
それを魔法無効の爪で弾き飛ばし、ベアトリクスも前に飛ぶ。
「だぁああああああぞぉおおおおおおおおおお!!」
嗅覚を強化し、エイワズニールの隠れ場所を特定。
そこはただの地面にしか見えない。
だが、巨木と巨木の間、全身に迷彩柄を施したエイワズニールがそこに居る。
凝縮させた筋肉に物を言わせた、ベアトリクスの突撃。
音速を超えるそれは、ソドムのエゼキエルに対抗するために鍛えた技。
魔導師系のエイワズニールでは反応できない。
このまま無防備な首筋を爪で穿つ。
無防備を晒したのは、ベアトリクスの方だった。
「がッ!?!?」
真横から殴られた。
ただそれだけ、だが、予期せぬ攻撃は容易に命に届きうる。
結果としてベアトリクスは一命を取り留めた。
先日、ラグナガルムから受けた奇襲があったからこそ、無意識下で警戒していたからだ。
「おイ」
エイワズニールの苛立ちを聞いて、ベアトリクスは理解する。
敵は一匹じゃなかったのだと。
そして、ベアトリクスは走り出す。
類まれなる身体能力を、逃亡に使用して。
**********
「やっぱ変だゾ。先代同士の戦いで兎は熊に惨敗してる。協定を持ち掛けて来たのだって、アルミラユエトの方だったゾ」
心の中で呟いて、その時の記憶を探る。
アルミラユエト、兎の皇種。
長きに渡り繰り返された縄張り争い、それにウンザリしている穏健派の皇種だ。
「溶嶽熊の記憶でも……」
*
『ヴァジュラコック、アルミラユエト、エイワズニール、どいつもこいつも足りてねぇ』
脳裏に浮かんだ、溶嶽熊の声。
それは、アルティがベアトリクスになる前の記憶。
『おぉ、来たか。コイツが人化の魔法紋を持ってる小熊だ』
『ふむ?……熔嶽熊よ、正気か?』
『あぁ、勝機だ。つーより、生き残るにはこれしかねぇわな。お前、名前は?』
先代の熊の皇と狼の皇。
その言葉の意味を、当時は理解できなかった。
『生まれたばかりではないか。こんなのを皇にしてどうする?』
『おめーに育てさせる」
『なんだと!?』
『くかか、冗談だよ、冗談。ちゃんと当てはある。……が、外れた時は頼む』
皇にする。
その言葉の重さは、今でこそ理解できる。
溶嶽熊は言ったのだ、アルティに種族を賭けると。
『ヴァジュラコック、エイワズニール、アルミラユエト、どいつもこいつも足りてねぇ。直ぐにやられるぞ』
『その中ではお前が一番若造なんだが?よくもデカイ事が言えたもんだと褒めてやろう』
『ブービーに言われたかねーよ。だがなぁ、まぁ、事実か』
溶嶽熊が立ち上がり、その全身を露わした。
当時は恐れながら見上げた。
今は、困惑の方が勝っている。
『良く見ろ、メスガキ。酷ぇもんだろ?』
『これ、なんダゾ……?』
『負けるとこうなるっつー見本だよ』
骨に皮が張り付いているだけ。
熔嶽熊の下半身は理解不能なほど弱弱しい、皇が持つ回復力ではありえない事態だった。
『メスガキ……、いや、アルティ。お前はこうなりたいか?』
『い、嫌だぞ!なんか痛そうなんダゾ!?』
『じゃあ、よく見ろ。よく聞け。よく感じろ。しらねぇもんに手を出すな。いや、手を出す前に観察しろ』
『何の事を言ってるんダゾ!?』
『考えろつーことだ。お前が神から授かった魔法紋は、筋肉じゃ解決できねぇ差をひっくり返せる。皇である俺様には分かるんだ』
『皇さま、ダゾ!?』
皇種とは、本能の根底に刻まれた『畏敬』。
同種族の皇には絶対の忠誠を抱き、他種族の皇には絶対の恐怖を抱く。
改めて理解したアルティは、感謝した。
生き残る為の方法を教えられていたのだと。
『逝くのか、熔嶽熊マーグマー』
『ちょっくら人間を殺しにな。人がどういう動きをすんのか分かってりゃ、役に立つだろ』
『最後に出てくるのはユルドルードか。……勝てよ』
『あぁ、クソ不味い肉で宴会でもしようや。じゃ、娘を頼む』
*
『……おい、ベアトリクス。俺が生きている内に人間に手を出したら殺すと言った。覚えてるか?』
『忘れちまったなぁ。代わりに教えてくれや、その時の俺様は、「ひぃ、分かりましたぁ、ユルドルード様の言う通りにしますぅ」とでも言ったか?』
人間の頭をちぎって口に放り込むという、安い挑発。
溶嶽熊の煽りに、ユルドルードは剣を抜く。
『それが答えでいいんだな』
『まったく、人間ってのはいつ食ってもクソみてぇな味がするぜ』
『ベアトリクスッ!!』
『クソ共。てめぇの尻くらい、てめぇで拭えや、人間』
爆裂する溶岩地帯に沈んだベアトリクスには、両腕が無い。
牙もない、片目もない。
足もない、それでも権能を駆使して戦った。
結果だけ見れば、ユルドルードの圧勝だった。
だが、その戦闘時間は5時間を超える。
神壊戦刃グラム――、世界最強の攻撃力を持つユルドルードの戦闘では、トップクラスの長さだった。
*
「溶嶽熊がオイラに種を託した理由は……、リリンサ達が言ってた、無色の悪意って奴なのかダゾ……?」
溶嶽熊の下半身をボロボロにした存在、それは植物だ。
唐突に下半身から芽吹いた植物、その根が張っていたのは神経。
それを権能で焼き切って取り除いた結果、足は二度と再生しなかった。
「エイワズニールの素顔にも、根っこが生えてたぞ。それに、アルミラユエトが擬態してたのも木……」
『ヴァジュラコックも、アルミラユエトも、エイワズニールもすぐにやられる』
……誰にやられる?
再度、思い出した言葉は、すべての答え。
知ってはいけない、事実。
「輪廻を宿す木星竜ッ!!」
ぞくりとした。
その仮定が真実なら、サチナですら――。




