第70話「ホウライ伝説 終世 六日目 モノローグ・ヴィクトリア④」
「……ここは、どこ?」
暖かな木漏れ陽が降り注ぐ中で、ヴィクトリアは目覚めた。
身体の下に敷かれているのは、芳しい香りの果実の山。
「え。ぇぇっ!?」
食材の上で寝るなど、豊かな食糧事情の村であっても許されざる行いだ。
ましてや、模範たる村長の娘がそれをしたとあっては、一度も怒った所を見た事がない父にすら、説教をされるかもしれない。
無論、父の代わりに怒りやすい母など、熟れたトマトの様に激怒するに違いないのだ。
ヴィクトリアは慌てて荷車から飛び降りる。
そしてすぐに振り返り、果物が痛んでないかを確認し始めた。
「良かった、皮の厚い果物が多くて」
ヴィクトリアの素肌に触れていたスイカやミカン、グレープフルーツなどの夏の果実は、しっかりした皮によって守られている。
更に、ブドウや桃などの柔らかい果実は綺麗で頑丈な箱に収納されていた。
それが最高品質の証であると知っているヴィクトリアは、両親の愛情を理解して僅かに頬笑む。
「奉納祭の最中なのに寝ちゃうなんて。早く私も食べて貰わないと」
周囲に人影は無い。
それどころか、生命の息吹をまったく感じることが出来ない静けさだ。
家族に愛されて育ったヴィクトリアの周囲には、いつだって人がいた。
父が、母が、そして……大好きな幼馴染の男の子が。
誰かの声が聞こえない静寂、それはヴィクトリアには馴染みがないものだ。
「……世界で独りぼっちになったみたい」
白くて幼い少女が言う。
求愛を宿したその声で。
「目覚めたか。まったく待ちくたびれたぞ」
「ひっ!」
その声は唐突に、目の前にそそり立った『鋼の絶壁』から発せられた。
キラキラと輝く甲冑、それが昆虫の甲殻であると認識するまで10秒。
それを持つ存在が、世界最強である事を思い出すまで、さらに10秒。
「……世界最強ちゃん。私の全てを捧げるひと」
「あぁ、そうだ。その為にわざわざ一日も待っていたのだ。では捧げ――」
「ぇ、まって。一日……、って?」
「一日は一日に決まっているだろう。何を言っているのだ」
「一日、経ってるってこと……?それじゃ、今日はもう、奉納祭じゃない……?」
意識を失ったヴィクトリアが目覚めたのは、奉納祭の翌日の午後だった。
奇しくも、蟲量大数と出会った時刻とほぼ変わらず、だからこそ、ヴィクトリアは数十分の仮眠だと勘違いしたのだ。
「そんな……っ、じゃあ村の皆は!?」
「ふぅむ。近くに人間の気配は無い。この森で生き残っている生物は……、そうだな。我が輩の手のひら程度の虫だけだ」
特に大した意味は無く、蟲量大数はヴィクトリアを抱えあげた。
周囲を気にしているのなら、見せてやるのが手っ取り早い。
そうして空へと飛び立ち……、見るも無残な惨状と化した森をヴィクトリアに見せつける。
「こ、れ、は……」
「あれだけの数の皇が集ったのだ。何もおかしくはあるまい」
ヴィクトリアが目覚めた場所には新緑があった。
いつもと変わらない見慣れた森の風景、だからこそ、それがずっと続いていると錯覚した。
「川に溜まった流木みたいに、全部、倒れてる。村だって何処にあるか分からない……」
「奴の飯処を潰したのは我が輩では無い。……が、頭が痛い状況ではある」
「それじゃ、みんなは……?村人で生き残っている人は……?」
「先程も言ったが、周囲5kmで生き残っている人間は貴様だけだ。弔うにしても面倒だぞ。やるなら全員へまとめて祈りでも捧げろ」
周囲5kmの生存者は一名。
たった一人の勝利者。
その事に気が付いてしまった時、彼女の瞳から涙が零れ落ちた。
村人全員が奉納祭を終えたこと、そして、自分だけが失敗してしまったこと。
奉納祭は村人たる証。
それを蔑にする者は村人失格。
そんな不義理な人物を仲間と呼ぶ事はない。
だからもう、自分は村の住人では無いのだと。
「そんな……っ。私、村長の娘なのに……」
ポロポロと流れ続ける落涙が、蟲量大数の腕を濡らしていく。
命乞いと共に流れた涙なら、嫌というほど経験がある。
だが、こんなに暖かい涙は始めてだと、蟲量大数は思った。
白くて幼い少女が泣く。
悲愛を宿したその声で。
**********
「ふぅむ、そろそろ涙は枯れたか?》
「……はい」
結局、蟲量大数には何もする事が出来なかった。
世界最強たる肉体で不用意に少女に触れれば、その肉体を傷つけてしまう……訳がない。
力のコントロールが出来ない者など、世界最強には決してなれないのだから。
だが、蟲量大数は知らなかった。
強すぎるが故に群れを必要としない……、神と対峙するときでさえ、涎を垂らしたタヌキが来なければ一匹で戦い、殺す。
だからこそ知らないのだ。
傷付いた者へ掛ける言葉を。
「我が輩の望みは勝利の果実だ。泣きながら食うものではない」
「……うん」
「では、差し出せ。勝利者の果実を」
「はい。……一日、遅れちゃったけど、私も皆と一緒に」
たった一日、それでも、村の掟を破った事には違いない。
だからもう、真の意味で村人になることはないかもしれないけど……。
ヴィクトリアは来ていた服のボタンを外し始めた。
服をしゅるり。と脱いで、絹の様な美肌を露わにさせる。
潤んだ瞳、紅潮した頬と唇、そして……。
色づいた身体は、すべて、ホーライちゃんのもの。
そして、さぁ、食べて。と頬笑んだ。
「準備が出来ました。どうぞ、お召し上がりください」
「…………。」
蟲量大数、絶句ッッ。
タヌキが神を喰らう光景に見慣れてしまった今、その偉業を成し遂げられる存在は皆無だ。
「……なぜ、服を脱いだ。着ろ。風邪を引くぞ」
「服もお召し上がりになるんですか?あっ、虫だから」
「確かに我が輩の種族名は神斬蟲だが、人間の服など食ったこと無い」
「じゃあ何で?食べるのに邪魔じゃないですか。あっ、包み紙的な?」
ヴィクトリアの村には、料理を手掴みで食べる風習は無い。
衛生管理は村発展の基本であり、村長の一族である彼女は特に厳しく躾けられている。
なお、十回を超える涙交じりの叱責の結果、幼馴染の男の子も手掴みで食べることがなくなった。
「ちょっと待ってください。持ちやすいように巻いて……、はい、できました」
「なんだその独創的な格好は。タヌキですら、もう少しまともな着方をするぞ」
ワンピースを腹に巻き付けただけという格好は、隠すべき所がすべて見えてしまっている。
そして、情緒など欠片も分からない蟲量大数であっても、流石に異常だと気が付いた。
「精神改変の類か。ふぅむ……、貴様の望みはなんだ」
「私はホーライちゃんとずっと一緒にいたい。だからその為に、奉納祭で食べて貰うの」
「それは誰に言われたのだ?」
「村の掟、あと、金鳳花様」
「あのキツネ……、神の先兵の仕業か」
この世界は神を楽しませる為だけに存在している。
生殺与奪も神の思うがまま、それは世界最強であっても覆せない理だ。
神が設定したルールの上であれば、我が輩の方が強い。
だが、ルールを超えた神の意思――、極論、我が輩と同等の生物を10体も生み出されれば、我が輩は成す術なく殺されるだろう。
それに、あの金鳳花は、神の認めし審判。
下手に刺激をするのは、面倒が増えるだけか。
「我が輩の望みは勝利の果実だ。それ以外はいらん」
「はい、分かりました。どうぞ」
「だからなぜ脱ぐ!?」
「私をお望みなんですよね」
「いらん。食って食えない事も無いが、我が輩は肉より野菜の方が好物だ」
そんな事を言いながら、蟲量大数は近くにあった荷車から野菜をつまみあげた。
そして、丸々太った大根のみずみずしい肢を豪快に噛み砕く。
「うむ。うまい!」
「……?ぇ、だって。ヴィクトリアを食べたいって」
「我が輩が欲しているのは貴様が抱いていた果実だ。勝利の果実と呼ばれているのだろう?」
バリバリと大根を噛み砕きながら、ヴィクトリアが寝ていた荷車を指差す。
その頂点には、太陽光に照らされた深緑色のスイカが輝いている。
「…………ぇ。」
「ただのスイカではないと聞いている。我が輩を食い意地だけで凌駕しかねない奴が言うのだから間違いない」
蟲量大数にとって、那由他とは特別な存在だ。
神に捕獲され檻に閉じ込められても、噛斬虫であった彼は動じなかった。
種を切り開く者である彼は、その時点で昆虫の頂点に立っている。
神に力を貰って皇種へと覚醒した者とは違う、自力で世界最強へと上り詰めた存在だったのだ。
だが、その檻の横に別の檻が置かれた瞬間、身の毛もよだつ恐怖が押し寄せた。
ヴィィ~~アァ~~!
ヴィィィ~~ギルアァ~~!!
この世界には絶対強者である自分を、涎を垂らしながら見つめてくる捕食者がいるのだと、蟲量大数は生まれて初めて知った。
「我が輩が食いたいのは、そのスイカだ。貴様の様な人間を食う趣味はない。何を勘違いしているのか知らんが――!」
「……言ったのに。ヴィクトリアを食べたいって。私を食べるって言ったのにッ!!」
白くて偉大な少女が啼く。
支配愛を宿した、その声で。
「なにっ!?これは――」
「村人全てが奉納祭で命を捧げた。お父さんもお母さんも友達も、みんな、みんな……っ!!」
「落ち着け。また気を失うぞ」
「私の望みは、世界最強ちゃんに命を捧げることっ!!それがっ、ずっとっ、小さい頃から憧れていた幸せだったのにッ!!」
「くっ、この感覚は――、那由他が行使する威圧のオリジナルか」
湧きだした感情を声と共に撒き散らす。
大切な家族、友達、ヴィクトリアの全ては、彼女を残して行ってしまった。
それを理解したが故の、悲哀。
私だけが生き残った。
私だけが掟を守れなかった。
その悔しさが、怒りが、焦りが、不安が、ヴィクトリアを慟哭へ掻き立てる。
白くて幼い少女が泣く。
遺愛を宿したその声で。
「ひっく、ひっく、ぐすっ……、」
「そうか、貴様の名前はヴィクトリアというのか」
「ひっく、そう。スイカはスイカでしかないよ。ひっく」
「だとすると……」
昨日の少年の目的は、この少女だったのか。
那由他の加護が付いていたから食い物を狙っているのかと思ったんだが、違ったようだな。
そんな独白を蟲量大数は飲み込んだ。
せっかく会話が可能な程度に落ち着いてきたのに蒸し返す様な事はしたくないと思ったのだ。
「ひっく……、ずっとずっと恋焦がれてた。指折り数えて待って、恥ずかしくなって、でもまた数えて。奉納祭は私の人生の夢。だからどうか、私を……」
いくら世絶の神の因子であろうとも、限界はある。
特に強制的な覚醒を促されたヴィクトリアの能力行使は常に最大。
枯れた喉ともに、その影響力も少なくなっていくと蟲量大数は知っていた。
「ひっく、ひっく、やだ……。みんな、置いていかないで……」
弱々しく紡がれたのは、純粋な寂しさ。
もう二度と願いが叶う事は無い。
それを理解してしまったが故の、孤独。
奉納祭はヴィクトリアの憧れだった。
毎日同じことを繰り返す村の、人生でたった一度きりの特別な日。
白くて幼い少女が泣く。
愛情を欲する、その声で。
「ひっく、ひぅ、……ほーらい、ちゃ……ん」
「ふぅむ?ならば一つ確認したい事がある。貴様はコレを作れるか?」
再び泣きだしたヴィクトリアが落ち着つくのを見計らっていた蟲量大数が、何かを思い付いた。
おもむろに荷車に手を突っ込み、そこに隠していた物を取り出す。
それは、ねっとりとした汁が滴り落ちる網状の袋。
「……カブトムシトラップ?」
「うむ。森で見かけたので食ってみたのだが、大変な美味さだった」
蟲量大数が摘まんでいる網には、発酵したバナナが入っている。
漬けこまれているのはホウライの父が隠していた焼酎。
作成してから5日以上経過しているそれは、数100m以上離れた地にいる昆虫を引き寄せる匂いを発している。
「……。あ」
そうしてヴィクトリアは出会ったのだ。
カブトムシトラップ連続窃盗事件の犯人と。
「ふぅむ、作れんか?」
「いえ、できます。というかそれを作ったの私だし」
「そうなのか!?それは素晴らしい。ではこれを我が輩に捧げて貰おうか」
「そんなのが欲しいの?」
まぁーた、おやつバナナだってよ。どうするヴィクトリア。
飽きたねー。そういえばグンローが言ってたんだけど、バナナにお酒を漬け込むとカブトムシが寄って来るらしいよ?
マジかよ!?
おっきいの獲れるかな?
よっしゃ!とっ捕まえて勝負させようぜ!!
「……。でかすぎでしょ」
「何がだ?」
「いえ、何も」
脳裏に浮かんだ光景で吹き出しそうになり、必死に取り繕う。
そんな悲壮の中に浮かんだ小さな頬笑み、それを蟲量大数は見逃さない。
「貴様はこれを作って捧げる。我が輩は美味い思いが出来る。両者の願いが叶う良い方策だろう」
「そんなので良ければいくらでも作るけど……、それって奉納祭になるの?」
「無論だ。我が輩が知っている脳みそ胃袋タヌキによれば、『料理とは至高なる俸物。100万の肉の山が、ひと欠片の料理に負けるなどよくある話じゃの!』だそうだからな」
「そうなんだ。くす……、こんなので良ければいくつでも。あ、使う果物はやっぱりバナナがいい?違うのも出来るよ」
「なんだと!?ならば……、この桃も梨も!?」
「できる」
「……流石にキュウリは無理であろう?」
「むしろ、蜂蜜キュウリは鉄板でしょ」
「なんだとッ!?素晴らしい!!素晴らしいぞ!!ヴィクトリア!!」
じゃあ作りますね。
そう言いながらヴィクトリアが頬笑んだ。
思い描いていた形とは全く違うけど、自分も奉納祭をやり遂げられる。
心のどこかで引っ掛かる、『想い人との生活』が始まるのだと。
**********
「蟲量大数様、今日の俸物はどれにしますか?」
「ふぅむ。勝利の果実を貰おうか」
「スイカですね、畏まりました。お塩も振ります」
「発酵酒果実もあるか?」
「もちろん、カブトムシトラップの用意もございます」
「素晴らしい。那由他が褒めるだけの事はある」
「蟲量大数様へ奉納する。それが私の望みですから」
こうして、一人と一匹の奇妙な関係が続いて行く。
世界で最も強き……、絶対捕食者・蟲量大数と、捧物の少女ヴィクトリア。
彼らは数年の安寧を過ごし、そして、そのあり方を変えことになる。




