第66話「ホウライ伝説 終世 五日目 ⑤」
「此処から先は我が輩の出番だ。よかろう、ヴィクトリア」
「……。はい」
白くて小さな蟲が鳴く。
遺愛を宿した、その声で。
「……テメェの出番だと?何を勝手な事を言ってやがる」
「ヴィクトリア自身が、我が輩に捧げられた俸物であり所有物だと言っている。好き勝手な事を言っているのは貴様の方だと思うがな」
愛する人を俸物と呼ぶ。
人間として扱っていないその言動への怒りを燃料に、ホウライは動き出す。
「そういう話をしてるんじゃねぇ。仮にもヴィクトリアと一緒に居るんなら、物扱いをするのはおかしいっつってんだ」
「ふぅむ。愛の形は人それぞれ、庇護愛もあれば、愛着もあるが……、まぁいい。ヴィクトリアが欲しいというのなら、我が輩を殺して奪う以外に方法は無い」
「それについちゃ同意だ。何度、夢に見て焦がれたと思う?テメェを殴るこの瞬間を」
「一つ、忠告をしておこう。貴様は人間種の皇であり、我が輩と同格だ。以前の児戯のように見逃しもしなければ、手加減もしない」
「覚えてんのかよ。……あぁ、それでいい」
蟲量大数が歩き出す。
ゆっくりと、何も無いかのようにホウライに向かって。
路傍の石を無視するがごとく、その歩みに何の影響も与えやしないのだと。
「せいぜい足掻け。我が輩に傷の一つでも付けて見せろ」
ホウライが歩き出す。
ゆっくりと息を整えて、何も無い空虚を否定するように蟲量大数に向かって。
運命の階段を駆け上がるがごとく、その歩みの一つ一つが、新たな未来を作って行くのだと。
「舐めてんのか。弱体化してんのはテメェの方だろうが」
くんっ、っと小さく鼻を鳴らし、ホウライが仕掛けた。
神香比例を最大限に拡張、この数瞬の後に鼻が潰れてしまっても構わないと、全神経を集中させる。
「……いくぜ」
右手に宿しているのは、溜めに溜めた雷神皇の掌。
五本の指それぞれが極限に高めた雷霆絶起。
ヴィクトリアに向けた時とは根本的に違う、万物を瞬時に同化融合させて終わらせる――、激甚の雷人皇・ホーライの腕。
始まりは唐突に。
大地を踏みしめて奔るホウライは、森羅万象の動きを嗅ぎ分けている。
次、蟲量大数は右足を前に出す。
一回の歩みで進む距離は1m、速度は神経速、邂逅まで0.0001秒。
ホウライの指が、蟲量大数の胸に触れた。
始めて感じる硬さに眉をひそめながらも、深く深く、指を突き入れる。
0.1mm、0.2mm、……。
確かに前進するたびに、目の前に勝利の顔が浮かんでは消えた。
あぁ、やっぱりお前は可愛いな、ヴィクトリア。
笑った顔も、怒った顔も。
いまみてぇな泣き顔ですら、俺の気持ちを昂ぶらせちまう。
ごめんな。
もう、……ほんのちょっとも、指が進まない。
「命を貰うぞ、ホーライ。なぜなら我が輩こそが、この世界最強の『簒奪者』なのだから」
するりと、ホウライの腕が堕ちた。
薄く付けられたひっかき傷を残し、あっけなく、その役割を終えたのだ。
今、ホウライの体を支えているのは、胸に深々と突き刺さった蟲量大数の右腕のみ。
「……だが見事だ。我が輩の胸に傷を付けた者など、20本の指でこと足りる。誇れ」
ぱつん。とホウライの命が弾けた。
体内で粉々に握り潰された心臓が、命の器という役割を奪われてしまったかのように一瞬で砕け消える。
蟲量大数は奪ったのだ。
例え人智を超えた肉体や精神があろうとも、魔法で復元ができないように。
心臓に刻まれた皇の紋章――、『魔法行使』という人間種の権能、そのものを。
「……ほーらいちゃ、ん」
ヴィクトリアが歩き出す。
息を切らして、今この瞬間に何かを悟ったかの様に、ふたりの想いひとに向かって。
その体は、小さな小さな人間の少女、何も知らなかったあの頃のまま。
「ホーライちゃんっ、ホーライちゃんっっ!!」
ただの村娘だった時の、些細な喧嘩で泣いてばかりいた時の。
そんな泣き顔のヴィクトリアが、ホウライを抱き起こして。
**********
あぁ……、ちくしょう。
俺の負けかよ。
へへ、強えな、コイツ……。
流石はお前が選んだ……。
虚ろな眼球が写したのは、愛する人の泣き顔だった。
涙でぐちゃぐちゃになったその顔に抱き起こされ、ヴィクトリアの唇に触れそうになる。
身体に力が入らないのが何よりも口惜しいと、ホウライは思った。
「ごめん、ごめんね……。ぐすっ、こんな事になって、ひどいこと、ひっく……」
死するホウライの頭を抱き起こし、そのまま自分の太ももに乗せる。
昔、母に甘える時に父がして貰っていた膝枕。
幼い頃に抱いていた夢を叶え、ヴィクトリアは慟哭する。
幼馴染へ向けた偽りのない『愛』を、声に乗せて。
「疲れたよね、苦しかったよね。いっぱいいっぱい、凄い事してきたんだもんね。偉かったね、かっこいいね」
朦朧とする意識でも、ハッキリと分かった。
これが、これこそが欲しかったんだと、ホウライは心の中で慟哭する。
「ホーライちゃんの身体、傷だらけだね。すごく、すごく、頑張ってきたんだね。大変だったよね、辛かったよね。……世界で一番になるって約束、守ろうとしてくれたんだね、ありがとうね」
ゆっくりと頭を撫でながら、ヴィクトリアは頬笑んだ。
無理やりに作った笑顔のせいで、溜まっていた涙が止め処なく流れて落ちる。
その温かな雫を拭ってやれないのが、何よりも不甲斐なくて。
笑顔を返せないのが、どんな過去よりもつらくて。
「ホントはね、何年も前から気が付いていたんだ。ブルファム王国にいる『ホーライ』がホウライちゃんだって。凄くびっくりしてね、嬉しくなって、ドキドキして」
「ちょっとだけ妬いてね、こっそり見に行って、キラキラのお姫様へ笑顔を向けてる所を見て、もっと妬いちゃって」
「でもね。その時にはもう、私は蟲になっていたから。ヴィクティム様に『命』を貰った後だったから、もう、ホーライちゃんに奉納できるもの、残って無くて……」
そうかよ。俺が生きてるって知ってたのかよ。
んだよ、言ってくれよ。そうすればさ……、なんて言えねぇよ。だってさ。
俺だって気がついてたんだ。
お前がワザと酷いこと言って、俺を遠ざけようとしてたこと。
本当は自分だって未練があるのに、その感情を押し殺して、俺の為に嘘をついていたこと。
「痛かったよね、辛かったよね。酷いことばっかり言って、ごめん。殺して、ごめんね……」
だから謝らないでくれよ。
俺の為にしてくれたことなんだろ。
分かってるからさ、お前が俺を好きなままだってこと。
……でも、諦めなくちゃいけなかったってこと。
俺はもう、お前に何にも返せない。
一緒に居てやりたかったけど、俺は、ホーライになれなかったから。
「……優しいホウライちゃんには、神殺しなんて似合わないよ。そういうのは、ヴィクティム様にやらせておけばいいの」
もしも、アイツ以外に神がいるのなら。
せめてヴィクトリアの願いだけは……、俺の愛する人に望んだ未来を与えて欲しい。
「だから、ゆっくりお休み。世界で一番、強くなくても、世界で一番、かっこいい……、私のホーライちゃん」
薄れ行く意識の中、ホウライが最後に見たのは近づいてくるヴィクトリアの顔。
真っ暗になった視界、彼の鼻をくすぐったのは甘い甘い、愛烙の譲渡。
重なった唇を通して、ホウライの意識はヴィクトリアに包まれた。
世界で一番、愛した人の、世界で一番、愛しい匂い。
「ヴぃく、と、り……あ」
動かないはずの重なっている唇を震わせて、最期に名前を呼んだ。
あぁ、此処が天国か。
今度は俺が、先に行って待ってるよ。
一日どころか、いつまでも待っててやる。
ラルバと、アサイシスと、
エリウィスにグンロー、フォルファ、
父さん、母さん、ドナド義父さんに、村の皆も一緒にさ。
だから、ゆっくり来いよ。
世界を救って、その世界で幸せになって。
その後で、みんなで……。
「ホーライちゃん。……次の人生は、ちゃんと幸せになってね」
離れた唇から洩れる吐息は、一人分。
呼吸も、血流も、魔力の流れも完全に止めた想い人を大地へ横たえ、ゆっくりと瞼を閉ざす。
そうして手向けるヴィクトリアへ、世界最強が語り掛けた。
「世界最大の『生命力』。我が輩とは酷く反発する不可思議竜の力も、お前にはよく馴染んでいるようだな」
「……はい」
「握り潰した心臓には、殆ど魂が残っていなかった。放っておけば死ぬくらいにな」
「……はい」
「お前は自分の手で決着を付けていたのだ。何も悲観する事は無い」
ヴィクトリアによって、ホウライの魂の殆どは奪われていた。
ダンヴィンゲンが稼いだ一瞬の時間、それを使ってヴィクトリアは命の権能を起動。
やがて起こった指の接触により、ホウライの物語には終止符が打たれていたのだ。
その後でもホウライが動けたのは、皇の紋章と神香比例の効果により、魂の一部と肉体が融合していたから。
『ヴィクトリアを取り戻す』
その瞬間に強く願っていた意識が肉体と共にあったからこそ、動けていただけに過ぎない。
「ヴィクティム様、ありがとうございました。私の我儘に付き合ってくれて」
「ふぅむ、そこが我が輩には分からん。人の皇の資格を奪うのは良い。神に勝つ為には必須だからな。だが何故、こんな回りくどい事をする?」
振り返って礼を言うヴィクトリアと、四本の腕を組んで思案する蟲量大数。
その空気が読めない物言いに、ヴィクトリアは言い淀んだ。
「それは……」
「神に勝利した後、我が輩たちは世界を復元する。その時にホーライも蘇生すれば良かろう。で、何食わぬ顔で会いに行けば良いと思うのだがな?」
「それじゃだめ。もう、ホーライちゃんへの愛想は尽きたんだから」
「そうなのか?」
蟲量大数には、そうは見えなかった。
だが、自分は空気が読めないと、よくヴィクトリアに言われている。
それゆえの肯定だった。
「……ホーライちゃんには、大切に想ってくれる人がいっぱいいるの。私がいなくても平気。ううん、いつまでも私に捕らわれてちゃいけないんだよ」
「お前がそういうのなら、そうなんだろう。……ふぅむ、次が来たようだが、どうする?」
「任せます」
「ふむ。此処からでも簡単に殺せるが……、相手をしてやるのが最低限の礼儀ではあるな」
ヴィクトリアへ背を向けて、蟲量大数は歩き出す。
余計な邪魔が入らないように張っていた世界最強の音圧の結界に、二人だけを残して。
「ひっく、ぐす……、ホーライちゃんは、私のだったのに……」
白くて小さな蟲が、泣く。
愛を亡くした、その声で。
**********
「こちらは終わったぞ。ヴィクトリア」
選別は済んだと、戻ってきた蟲量多数が言った。
今は、神に対抗できる権能を持つ者へ、那由他が作戦を説明している。
どうせ碌なものじゃないから、我が輩は聞かんがな。
そんな失笑を含んだ陽気な雰囲気で、蟲量大数はヴィクトリアの横に立った。
そして、重みのある声で問い掛ける。
「ところで、気になる事があるのだが?」
「……。なんでしょうか?」
「わざわざ口付けをする意味は有ったか?尻尾の毒針でブスリとやれば十分だろう?」
昆虫の中には、尾に有る毒針を産卵管として使うものがいる。
オスであり交尾とは無縁なヴィクティムは失念しているが、貞操感や恥じらいを持つヴィクトリアは話が別だ。
ましてや、あれだけ愛だ恋だ奉納だと騒いだ後での物言いは、ヴィクトリアの乙女心に毒針を突き刺す行いだった。
「……。ヴィクティム様は、世界最強の虫ケラですね」
白くて小さな蟲が啼く。
軽蔑を宿したその声で。
「それは褒めているのか?」
「えぇ、とても。」
「ふぅむ。ならば良し。では行こうか、ヴィクトリア。……神を殺しに」
「はい、仰せのままに。ヴィクティム様」




