2 幸せはいつだって短い
お金があるだけでは心が豊かにならない――らしい。
でもさ、思うんだけど、お金に余裕がなきゃ心は豊かにならないよね?
「むひゅっふっふっふふふふ……」
「……おいおいおい……汚ねェ笑い顔しやァがって。なんだィ」
「だってさ、68万ゲムだよ! ろ・く・じゅ・う・は・ち・ま」
「わかってらァ。浮かれんなバカタレ」
「なんだよ、モラだって大喜びだったくせに!」
ビシィッと僕はモラの鼻先に指を突きつける。
黄金のカエル――いや、正確に言うなら“ぴかぴかになった”黄金のカエルだ。
ちなみに言うと68万ゲムっていうのは、つましく暮らせば僕がこのストームゲートで20年はゆうに暮らせるくらいの金額なのだ。すごいでしょ?
「あんなに長風呂して!」
「風呂ォついてる部屋選んだのはお前ェだ」
そう!
お金があるからさー、ね、ちょっとね、奮発してしまいましたよ。“この町一番のホテル”にね。
砂漠の町だから、ふつう、お風呂なんかついてない。
みんな公衆浴場で汗を流す。
その浴場は、蒸気が立ちこめているスチームサウナってやつだね。
こんなふうに1部屋にお風呂がついているホテルなんて――この町には3軒しかなかった。
その3軒のうち1つがここ。
しかも最高グレードの部屋。
うひひひ。
え? 誰が「目立たないようにしたい」って言ってたかって?
聞こえませーん。
人間ってのは……人が変わるのさ。
金を、持つとな。
フッ。
「で、たまの贅沢がこれかィ」
僕がかつて暮らしていた下宿なんかとは比べものにならないほど広い部屋。
その中央に置かれた丸テーブル。
どどんと並べられたお料理の皿、皿、皿!
「はわわわ……」
僕は感動で涙が出そうだよ。
さっき露店で見たトカゲを焼いたヤツ(頼んだら「え、この部屋にお泊まりなのにそんなものを?」って言われたけどどうやら下品な食べ物みたいだ)もちゃあんとある。
くんくんくんくん。
うん、どれもこれも一級品の素材、香辛料だ。
僕の鼻が言うから間違いない。
「いただきます!」
と僕が言うのが早いか、モラの舌もびよーんと伸びて、赤紫色の果実をむしり取っていた。
モラは元魔剣士で、その魂がカエルに乗り移っただけではあるんだけど、人間と同じものを食べるのが好きみたい。
「おほっ、おほほ、おほっ」
僕が口にいっぱい幸せをほおばっていると、しょりしょりごくんと果実を呑み込んだモラが聞く。
「んで、ちゃァんと支配人には話つけたんだろうなァ」
「んむんむ――もちろん」
ホテルの支配人には真っ先に話をしてきた。
ふつうに考えるなら僕のような子どもが大金を持っているはずがない。
だから僕は前金でいいと言って、いくらか金貨を渡したんだ。
「金だけじゃァ納得しなかったろォ」
「すごいね、よくわかるね。ホテルは由緒あるとか格式がなんとかって言ってた」
「連中は、妙なウワサを立てられるのがイヤなんだィ。裏社会の汚ねェ金もらってるとか、そういうウワサが立つのがイヤなんだ」
「商売に影響が出るってこと?」
「まァな。だがどっちかと言えば、政治の話だ。ホテルなんてェのは格がすべてだ。どいつもこいつも箔が付く客を取りたがる。支配人の自意識の問題でェ」
そんなもんかな? 僕にはわからないや。
「んで、金でどうにもならなかった支配人をどうしたんでェ」
「……ちらっと、ムクドリ共和国政府がくれた認定証を見せた」
ムクドリ共和国は、「魔剣士モラの翡翠回廊」があった国だ。僕みたいな子どもが翡翠回廊を踏破したと主張しても、それをきっちり検証してくれた。
踏破がほんとうだとわかってめちゃくちゃ驚いてたけども。
それで僕の身分を証明するために「冒険者認定証」を発行してくれたんだ。最上級のダイヤモンドグレードを。
「ンなもん見せびらかすんじゃねェや」
「なに不機嫌になってんのさ」
「別に……」
モラってば、ムクドリのころの話はしたくないんだよね。
魔剣士——人間だったモラが、カエルになってしまう原因があったあの国のことはね。
「よし」
夜も更けて。
ホテルが用意してくれたパジャマに着替えると、僕は読んでいた本をぱたんと閉じた。
この本は写本で、原本じゃない。当たり前だけどね。
本はほとんど全部が写本だ。誰かが書いた原稿を、他の誰かが書き写す。そうして革のカバーで装丁する。
1冊作るだけでも時間がかかるから本は贅沢品だ。
この本のタイトルは「いち冒険家としての生き様」なんていうもので、著者は不明なんだ。だけど、彼が体験したあらゆる冒険について書かれている。
僕はこの本が大好きだった。冒険に憧れて夜に夢想したことは十や百じゃ利かない。
誰もが知らなかった遺跡を発見する僕。
誰もがあきらめた洞窟を踏破する僕。
誰もが忘れた沈没船を発見する僕。
『トレージャーハントに必要なのは、たったひとつの才能だ。どんな才能でもいい。文才でも、歌でも、腕っ節でもいい。その才能が、他人に負けないほどきらめいているのであれば』
いい言葉じゃない?
だから僕は冒険者になりたかった。トレジャーハント専門の冒険者に。
今はその夢が叶っている。誰も見たことがない未知を見つけ出す、夢のある職業。
冒険のために冒険している、みたいなところがあるね。
えへへ。
明かりのない室内は、外から射し込む月明かりだけが光源だ。
ベッドの天蓋から垂れるレースは青白くなっている。
本を布でくるんで、バックパックにまた詰めた。何度も読んだ本。暗記するほどに。でも何度読んでもわくわくさせてくれる——。
深夜。
その人は、音もなく僕のベッドに歩み寄ってきた。
部屋には他に誰もいないことを確認する。
そうして――ちょうど人ひとりぶんがある、ベッドのふくらみへとダイブした。
「!?」
その人の顔が驚きに染まる。
そりゃそうだろう。
だって、
「ねえ、あなたは誰?」
僕はベッドから“とっくに抜け出して”、バルコニーから現れたんだから。
「!? !?」
驚き顔のその人は、ベッドの膨らみ――シーツをはがす。
そこには、枕があっただけ。
「気配を殺して近づいてきたのにどうして? って顔してるよね――うん、でも僕には丸わかりなんだ」
そう。
僕の武器は嗅覚。
嗅覚ってね、寝ていてもわかるんだよ。ニオイが。まあ、この人にそんなこと教えてあげるつもりはないけどね。
「でもわからないんだ。どうして――あなたみたいな人が、僕の部屋に忍び込んできたの?」
月明かりで見えたのは、女性だった。
長く、軽く波を打つような赤色の髪。
きっと太陽の下では真っ赤に輝くんだろう。でもこの夜では、ワインのように大人びた光沢を放っていた。
彼女が着ていたドレスはどこかで見たような気がした。自慢じゃないけど僕は記憶力がすばらしいわけでもなんでもないからね。
落ち着いた色だけれど、金糸の刺繍が美しい。
それより美しい――きれいなのは、彼女の顔だった。
切れ長の目は憂うように長いまつげ。
まつげの下には宝石のように輝く碧の瞳。
陶磁器みたいに曇りも汚れもまったくない白い肌。
触れればぷるんと震えそうな柔らかそうな唇――。
「……おわかりになりませんか?」
声は、すべやかなビロードに鈴を転がしたようで、耳がくすぐったいほどに魅惑的だった。
「わからないよ」
声がかすれそうになる。
わかるわけがないよ――こんな美人が、深夜に僕のベッドに飛び込んでくる理由なんて。
「そうですか……残念です」
ほんとうに残念そうに言うと、彼女はベッドから降りた。
「わたくしは、あなたさまにお仕えするために参りました」
「は? お仕え?」
「左様でございます」
「な……にを言ってるの? 僕、あなたの名前も知らないのに」
「名前ですか? わたくしは……」
ベッドから降りるや、彼女は自らの衣服に手をかけた。
肩で留めたボタンを外すや――ばさりと、見事なまでにばさりと、ドレスは床に落ちた。
そんな仕組みのドレスを僕は知らない。
……じゃなくて!
それよりも!
「……名前が、ないのです」
彼女は下に、なにも着ていなかった。
一糸まとわぬ姿があらわになった。