146 邪神アノロの隘路(1)
崖の切れ目から風が吹いてくる。ひんやりと湿った風はとてもじゃないけど気分爽快とは言えない。切れ目の隘路は不自然にうねっていて、ずっと先まで見通すことはできなかった。
なんだかこの崖に人為的なものを感じる。こんなふうにうまいこと通路なんてできるものだろうか?
まあ、今さらか。アノロが神の試練のために造った場所だったとしても僕らのやることに変わりはない。
「じゃあ、行くよ」
足を踏み入れる。
足下は悪くない。平らで、踏み固められている。
そのくせ多くの通行があったような痕跡は見られない。
「いつ敵が襲ってくるかもわからないからね、警戒お願いね」
エリーゼは僕のすぐ後ろ、モラは最後尾、リンゴは上空を見張る。
僕は前方の警戒だ。嗅覚でね。でも変なんだよな……ここ、ニオイがほとんどしないんだ。
ニルハもそう言えばそうだった。あれが「精霊だから」という理由で納得はしたけど。
「さァて、どんな試練が待ってることやら」
「モラ……だいぶ余裕だね」
「余裕ってほどじゃァねェが、リラックスしてるほうが全力を出せるだろ? ほれ、ノロット。お前ェが知ってるアノロに関する知識を吐いちまいな」
「んー。神の試練に参考になりそうな情報は全然ないよ。モラのほうが知ってるんじゃない?」
「邪神の魔法はとんとご無沙汰でなァ」
「じゃ、とりあえず言うけど」
ヴィリエやルシアは今でも魔法の詠唱で使われる名前だし、結構な資料が残ってる。
だけどアノロは全然ない。オライエ、アノロ、ロノア。この3人に関する情報は非常に薄いのだ。
それでもなんとか集めたのは――。
・光神ロノアと双璧をなす神で、世界を導くロノア、世界を滅ぼすアノロと言われている。
・人面獣身の邪神で、身体は翼の生えた獅子であるという。
・聖者フォルリアードが世直しの旅をしているとき、邪神が現れて彼の周りを夜で包んでしまった。フォルリアードはあわてずにこれを打ち破った。――この「邪神」がアノロではないかと言われている。
・北方ドルデンドン地方の原住民に伝わる闇の魔法はアノロの名を借りて執行される。
・一部邪教徒がアノロを崇拝している。「邪神アノロの隘路」を騙った遺跡が過去にあったが、嗅ぎつけた邪教徒がこれを「ニセモノだ」として破壊した。
「ほォ……なるほどなァ。だがニルハによると人面獣身じゃァねェッてことだよな?」
「うん。詳しくは教えられないけどそれは違うよ、って言ってたかな。そもそもヴィリエと同じサラマド村の出身者なら人間だよね」
「どう、して、その、ように、記述、が、変わっ、て、しまっ、たの、でしょ、うか」
変な話し方をしているのはリンゴだ。
頭を上に向けて話しているから言葉が変なふうに途切れている。
「1000年前の大戦だろォな……こいつがどォしてもネックになってきやァがる。資料は焼失し、情報は散逸し、神の試練は迷走した。それもこれも大戦のせいだ」
ヴィリエたちは混沌の魔王を倒した。
それは人類のためだったはずだ。この世界を守るためだった。
なのに人間は同族で争っている。
まあ、神の試練の存在が秘匿されても世界の危機は訪れなかったし、混沌の魔王みたいな存在も現れなかったからいいっちゃあいいんだけど。
そうか、神の試練のほんとうの目的も、もしここを突破してアノロに会えたら聞いてみたいな。
「カーブがあるから、気をつけてね。ニオイはしないけど、ニオイのない敵が出てきたら困るし」
僕は十分警戒してカーブを曲がっていく。
……直線に出た。
うーん、なにもいないな。
「よかった。とりあえずは安全みたい――」
振り返って言いかけて、僕は口を閉ざした。
そこには誰もいなかった。
「……モラ? モラッ! エリーゼ! リンゴ! どこ!?」
声を上げたけど、誰からの返事もなかった。
僕は小走りに後ろへとって返す。
モラたちが僕をからかうために隠れたとか? まさか、さすがに悪ふざけできるような場所じゃない。隠れられるような場所もない。だけど僕は戻っていく。
「はぁ、はぁっはぁっ」
僕は違和感に気づいた。
こんなカーブあったっけ? こんな直線あったっけ?
こんなに――入口まで遠かったっけ?
「はぁ、はぁ、はぁ……」
立ち止まった。ちょっと走っただけなのに息切れがひどい。
落ち着け。パニックに陥って心拍数が上がってる。こういうときは落ち着かないと。
罠? 罠だろう。
いつ踏んだ? わからない。カーブを曲がったときか?
転移魔法……のような感じはなかった。
さすがに周囲で魔法が起動したら気がつく。
「え……?」
僕は空を見上げて、気がついた。
空が黒い。いや、崖の上の森が見えない。黒い霞がかかったように。
空が黒々としてるのに、なぜか足下は見える。
なんだよこれ。どうなってるんだ。
もう一度前方を見る。振り返って背後を見る。
同じような道が続いている。
「あっ」
黒い霞が降りてきている。
手を伸ばせば届きそうなところに。
なにこれ。どうしたらいいんだ。吸ったら毒なのか? 逃げなきゃ、逃げなきゃ――。
僕は全力で走る。
目元まで黒い霞が降りてくる。
僕は全力で走る。
首まで黒い霞が降りてくる。
前が、見えない。
息が苦しくなる。
「あ――」
僕の意識が――闇に呑まれた。
どおおおんっ、というすさまじい音とともに火花が散るのを僕は見た。
紫色とオレンジを混ぜたような魔力による火花だ。
「どうして、どうしてですかっ!」
魔法によって生じた砂塵の向こう、女性の鋭い声が聞こえてくる。
あれ……聞いたことがあるような声……。
『魔神ルシアよ――』
僕が詠唱を開始すると、僕の周囲に魔法陣が浮かび上がる。
……え?
僕が、詠唱?
「いやです! なぜあなた様と戦わなければならないのですか!?」
風が砂塵をぬぐい去り、その人物の姿があらわになる。
目元のほくろは泣きぼくろ。きめ細やかな初雪のごとき白い肌。
プラチナブロンドの髪が彼女の背で揺れている。
流し目ひとつで10を超える男が彼女に心酔したという美貌の持ち主――。
魔女アラゾア。
僕らとは別れ、モラがひとりで追った彼女が、僕の目の前にいた。
「観念しろィ、アラゾア」
そして僕の口からこぼれた声は、よく知っている――魔剣士モラのものだった。




