六
銀枝の紋章を背にした座に就く王アルブランの顔は険しくあった。視線は長く連れ添った忠臣に据えられ、逸らされることはない。
国運びエスタアルは主君に気圧されることなく、ざわめく周囲を意に介することなく、常のように涼しい顔で柱の立ち並ぶ部屋の中央を占めていた。
彼の手には身の丈にも等しい銀の杖が握られている。杖の先には輪があり、八角の星を捉えて車輪のようだった。
「使いを出すなと申すのか」
白衣の袖の下で拳を握りながら、王は問うた。集まった臣下たちは水を打ったように静まり返った。
夏の平定から何か思い悩む顔をしていた国運びが、急に遠出をすると言いだし城を出たのは二十日前、祝祭の支度が始まる頃のことだ。フェルエーイに赴いた彼はたった一晩で戻ってきて、何事も無かったかのように務めに戻った。
祝祭の為の手配を手早く済ませていくその姿、すっきりと悩みが失せた顔に、彼の同輩や弟子たちは安堵していた。フェルエーイで魔女と何を話してきたのかは知れないが、これで次の年もルドイエは安泰だろうと、口にした。
しかし、彼らのその予想は手酷く裏切られた。祝祭の始まる冬至の日、エスタアルは王に抗言したのだ。王が彼を含めた〝運び〟たちの一年の仕事を労い、来たる年は彼の国々を治下にと述べた、その次のことだった。
一年で最後の仕事日を、エスタアルは最後の日に選んだ。
「デーヌの王は首を縦に振らぬでしょう。戦になります。あの地は山に囲まれ攻めづらくある。ルドイエの受ける被害も少なくないでしょう」
「被害を抑え勝つようにするのが、君の務めではないのか」
「勝つことはできましょう。しかしその後は。ルドイエを善き方へと運ぶためには、今戦を起こすべきではないと申し上げているのです」
デーヌをルドイエの治下に治めることはならぬと言ったエスタアルに、柱の横に並んだ者たちは驚き耳を疑った。これまで王と共に計略を巡らせ、戦士を率いて国土を広げてきた宰相にして軍師の男がそのようなことを言うとは、誰も思っていなかった。しかもこのような日に。
王は驚きはしなかった。エスタアルは既に、幾度となく彼に忠告を繰り返していた。それはマリヤに会いに行くよりも前のことだったが。それ以後は静かなものだった。
納得して言うのを止めたのだと思っていたアルブランは、自分の思い違いに気づいた。国運びの胸にあるのは納得ではなく決意だ。エスタアルは今、王の御前に立ちはだかっているのだ。
何よりも王の横に居並ぶべき男が、王の前に壁となっている。
アルブランは銀と水晶で作られた冠に手を添えた。指先の熱を奪う金属の表面を辿り、円環に刻まれた文字を伝う。〝神が授けし……〟から始まる一文は、王の正統性を記すものだ。
彼はたしかに王だった。神がそうとし、地を治めるに値する人間だった。
「犠牲を厭うては何事も起こせぬ。他国が手を組み、固まってからでは遅いのだぞ。君も分かっておろう」
「……これ以上国土を広げるのはお止めください。ルドイエは貴方の望まぬものに変わってしまいます。どうかお考え直しを」
「私は望んでいるのだ!」
大声が部屋を震わせた。灯の火さえ、外に降る雪さえ身震いするほどの覇気ある声だったが、エスタアルは微塵も揺らがずに立ち尽くしていた。春の新芽を思わせる色の瞳が王を見つめている。
弛まぬ意志を見て取って、アルブランはエスタアルの意図を知った。友が己と道を違えたことを知り、邪魔立てしようとしていることを知った。魔女の入れ知恵だと思った。
「我がルドイエが上に立てばこの世はすべて平らかになる。一国がすべての民を幸福にする。戦も、乱も起きぬ国だ」
ルドイエ王アルブランは、王位を継ぐ以前から大陸統一を望んでいた。国土が欲しかったのではない。多くを支配したかったのでもない。ただ純粋に、それがもっとも人々を幸福にできる道だと信じたのだ。彼はルドイエとルドイエの民を愛していた。陸地のすべてをそのようにできればと願っていた。
実際、彼は善き王で、ルドイエ・ルーは優れた国だった。だが――このまま進めばどうなるか、エスタアルには見えていた。それもまた彼の仕事であったために、見通さねばならなかった。王の望みは達されない。国を大きくすることは可能でも、一つにすることは叶わない。
「一見統べたように見せることは、できましょう。しかし陸は広すぎる。貴方の目が届かなくなります。国が一つでなくなる。踏み固められぬ地は其処に立つ人の心をも揺らし――民は心を方々に散らすでしょう。纏まれぬ者たちは新しい王を求める。そして神はその声に応え、新たな王が生まれ、新たな国が建つ。戦も叛乱も無くなりはしない。末は、今のルドイエさえ崩壊する」
エスタアルは予言し、王と同じ白衣を揺らして足を前に出す。同時に両腕も前に出て、杖で床を打った。
「王よ、貴方は神の授けし冠を持つ。けれども貴方も人なのです。抱えきれぬものを持つべきではない。我々は、抱えるものが愛しいのならば、なおのこと選び出さねばならない」
大きく口を動かし、杖を身の前に立てる。そのまま膝を折り頭を垂れれば、王に従う臣の礼となる姿勢だった。エスタアルはそれを望んでいた。王が考え直すと口にして、ルドイエの行く末を変えることができたなら、再び彼に跪こうと考えていた。その後は国運びの任を解かれようが構いはしないと。しかし、そうでなかったときは。
アルブランの目が見開かれ、唇が震える。賢い王であり長くエスタアルの友であった彼には、エスタアルの、国守りの決意がよく分かった。
だからこそ彼は、エスタアルが再び忠臣に納まることを許さなかった。自らの望みの為、自らの望みを信じぬ壁は打ち倒さなければならなかった。
「我らが国が亡ぶと申したか」
深く息を吸い、アルブランはとうとう立ち上がり叫んだ。エスタアルは長く仕えた王を仰ぎ目を閉じる。
「エスタアル。なお王に異を申し、国に影を落とすこと企てるならば、最早聞きはせぬ。――命を差し出すことを最後の務めとせよ」
「お受け致します」
常の命の如く響いた極刑の宣告に、膝を折らぬまま、間を入れずエスタアルは応じた。辺りは一瞬静まり返り、途端に騒がしくなった。王が国守りを処刑を命じるなどと、建国どころか創世以来の、前代未聞のことだった。極刑を言い渡された罪人を捕らえる為に動くべき人々は、暫く凍りついたままだった。
エスタアルはその中で、逃げも隠れもせずに居た。
――その夜の内、エスタアルは自らの足で王城の只中にある処刑穴へと赴いた。雪が吸い込まれてなお暗い奈落の底を見つめて薄く笑んだ彼の横顔を見たのは、彼と共に国守りの候補だった〝運び〟の兄弟子だった。
兄弟子はその笑みを狂気と見た。情けなく死に至る自分を笑った嘲りの笑みであると。
「王の心を思うが儘に運ぶことのできなかったお前の未熟さが、このような結果を生んだのだ」
兄弟子が言う。その言葉で、エスタアルは何故彼が国守り足り得なかったのかを理解した。
「否」
否定は囁きの声量で返される。
エスタアルは愛するルドイエの地を眺めて笑う。優しく慈しむ、心安らかな和ぎの表情だった。
「王も私も国を愛しているが、望みが違っただけのこと。王は馬ではなく、私は騎手ではない。冠を持つ王の横に国守りは在り、その周りで民が国土を踏み踊り、国の名を謳う――一所に無いのなら、ルドイエは既に亡びた。貴方方は新たな国を見るでしょう」
建国に要される五つを諳んじ、その一つである国守りは後ろを振り向いた。
「それでも私は守ります。王よ、貴方が進む先で何が起ころうと、貴方が今治めるこの地だけはたしかに、貴方の国で在り続けるように。私はこの身と魂を以て守り続ける」
紡がれる言葉は祈り、呪いだった。多くの見知った者たちが立つ中に、王が居る。エスタアルは最後に彼を見て、頭を垂れぬまま、穴へと向き直った。
「ルドイエに幸いあれ」
切なる願いを声にし、国運びであった男は誰の手を煩わせることもなく、自らを王命のとおりに刑に処した。冬至の最も暗い夜、雪の冷たく降る闇で、雪と共に愛する地に落ちた。彼は死の間際まで――死してなお、国守りだった。これだけが愛するルドイエを守る術と判じて、その身を大地へと打ちつけた。
アルブランは冠の重さと冷たさを感じながらそれを見ていた。自分の立つ大地が一層、堅くなったように感じながら。
フェルエーイで、足を置く地が一度揺れた気がして、マリヤは顔を上げた。そして見開いた魔女の目に男が落ちていくのを見た。国守りが深い穴に身を投げる様を見た。
「ねえ、エスタアル――愛おしい呪縛ね。たとえ千年苦しもうと、それでも愛おしいのだわ」
マリヤは痛む胸を抱え、嗚咽のような息を漏らした。白く濁った吐息はすぐに風に解れて消えて行く。
友を見送るのも、永くを生きる者の宿命といえた。人も国も、彼女の知る限り永遠ではなく、いつかは死と亡びが訪れる。今回のように。
魔女マリヤには分かっていた。城に戻ればエスタアルは死に、国と王は深い嘆きを抱いて進むことになると。それでもエスタアルはルドイエを守る為に、自らを贄にするであろうと。エスタアルは、自身が生きたままでは国を裂く楔になることを悟っていた。死ねば、その意思を地に遺して守りと成せるとも。
彼女は見通していた。それでもエスタアルを引きとめなかったのは――そこに愛があったからだ。彼女が魔女であるのと同様に、彼も国守りだったからに違いない。
マリヤの周囲の雪が急に沈み込んだのは、風のせいなどではない。
水晶の鉤爪は雪を散らし、青い翼は広がり風を掴む。白銀の竜は天高く飛翔し、山を一つ越えた先、美しく栄えるルドイエの都を見た。今の彼女には鼻先の距離と思えた。
竜は流星のように天に昇る。西の大陸のすべての人々が、その姿を見た。