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魔女語り  作者: 灰撒しずる
Ⅰ 偉大なるマリヤ
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 土地の支配とは、大きな力を有す者の一つの役目、運命のようなものだ。竜もその例に漏れず、大地の一部を我が物として統治していた。円弧の竜として大陸の全てを抱えることも可能だった彼の竜が陸の中心に近い一カ所のみをそうとしたのは、その地がもっとも豊かに神代の名残を残して、星の如き輝き――鉱脈を秘めていたからに他ならない。人の手に余る光に人が触れることを、竜は厭ったのだ。

 誰が治者かを知らしめんと、竜は高い山の頂で眠ることが多くあった。そんなときはマリヤも家を出て夫に寄り添って眠った。空が近く、静けさに包まれた清浄な大地は竜とその妻にとって居心地のよい寝台だった。何も邪魔をする者はなく、安らぎがあった。

 竜がいつになく長いこと目を閉じていたのは、マリヤとの出逢いから三百年近く経ったある日のことだ。

 朝陽が地平から顔を出し、散る雪を花のように照らした。竜はそのとき、自分の体が上手く動かないことに気づいた。その後の理解は早かった。竜は自分の死を知ったのだ。世界と共に生まれて万年、直に体がまったく動かなくなり、魂と離れて朽ちることを予感した。

 丸めた身の内側に居る妻を見つめ、毛布のようにかけていた翼を広げ、竜は起き上がる。マリヤはすぐに身を起こした。そして自分を見る夫の眼差しが常と違うことに気づき、背を伸ばして座りなおした。

 辺りは静かだった。他の生き物の声は何もなく、全てを見下ろすことができた。竜の鬣とマリヤの髪は緩やかに靡いて光っていた。

「マリヤ、我が(いも)よ、()はじきに死ぬ」

 静寂を破り告げる竜に、マリヤは目を見開いて蒼白になった。声を失って、正していた姿勢が崩れる。そのまま倒れてしまいそうな妻を体で受け止め、竜は鼻先で彼女の額に触れた。

 神や竜が死ぬものだなどと、マリヤは思いもしなかった。幸福は永遠に続くのだと、娘の無邪気な考えをどこかに抱き続けていた。それを当の幸福が否定した。

「それならば、私も共に死にます。死んでしまいます」

 雪降る冷え込みの中でも温かな、大きな夫の体を抱き締め、震える声でマリヤは言う。彼女にはそれ以外のことは考えられなかった。竜は彼女のすべてで、居なくなった後など光を欠いた闇だけの世と思えた。明けない、冷たい夜の底を思わせた。

 竜はそんな妻の頭を尾で撫でて、否と言った。

「ならぬ。其方は己に何を望んだのか忘れたのか」

 顔を上げたマリヤの頬を、遠くからの陽が照らしている。輪郭は白く眩く――それよりも強い光は瞳にあった。

 彼女の瞳は竜から貰い受けた至上の宝石、山の下に眠る鉱脈よりも強く輝く、双つの星だ。薄青は、銀に輝く気高い魂を透かしている。

「生きたいと、あの時願ったであろう。己のように生きたいと、其方が願ったのは気の迷いであったか?」

 出会った頃とまったく変わらぬ声、変わらぬ瞳で、竜は妻を見て問いかけた。

 あまりに優しい問い。マリヤの目に涙が溢れて零れ落ちた。鱗を濡らすその温かさに、竜は目を閉じて微睡み、古を思う。

 舟に乗って諾々と死に向かっていた娘の前に現れた、譬えようも無く美しい始まりの光。それを見て、娘は思ったのだ。

 ――生きたい。

 死にたくない。神に嫁ぎ死すよりも、生きてこの光を見続けていたい。そうしたマリヤの生への切望は竜にも聞こえた。それが竜にとっては何事よりも清く美しく思えた。だからこそ、マリヤは竜の嫁足り得る。彼女以外の娘ならば娶ることはなかっただろうと、竜は言う。

 願いを聞き入れるに値すると思った。慈悲を垂れたのではなく、魅入られ、見惚れ、愛を抱いた。

 竜は一年をかけ娘を己と同じものに作り変え、マリヤが望むとおりに命を与えた。己と同じだけ長く。己が生きてきただけ長く。己が死んでも――その身を絶えさせて魂だけの存在となり、世界と共になっても続く、永い命を。

「其方は己の命を継いでいる。其方は己の子のようでもあるな」

 竜は静かに息を吐いた。土と草の香のする大地の吐息だった。翼でもってマリヤの頬を拭い、起き上がる。

 翼を広げ、尾を揺らめかせ、竜はかつて出会った時のように座り込んでいる小さな女を見据えた。優しき夫ではなく、厳かな地の主として妻に向かう。マリヤはその姿をたしかに見るために涙を拭い、応えるように背を伸ばした。

 見目は十ほどしか変わっていなくとも、百年以上の時が流れていた。

「死ぬとは申すが、己の骨肉はこの大地と共に、魂は世界と共にある。其方と共にある」

「はい」

「其方の身が己と同じく磨り減り消えたとき、また共になれるだろう」

「……はい」

「マリヤ。――それまでは生きよ。己のように」

「はい……我が()、愛しい方――貴方様に頂いたこの命、無駄には致しません」

 言葉を交わして、竜はかつてのようにマリヤの身に額を寄せた。マリヤは竜を抱き締めて、声を押し殺して泣いた。

 金の髪は竜の鬣と共に靡く。山の全てが朝陽に照らされても、娘と竜は離れなかった。

 連れ添った時間が人の夫婦より遥かに長くとも――長いからこそ、離れがたかった。

 けれど互いに存分に愛し、喜び、幸せでいた覚えがあった。この先もそうだろうという予感もあった。死に別れたところで抱く愛は潰えるものではなく、むしろより深く、心に根付くのかもしれない。

「其方との出会いがもっと早いものならば良かった。身の朽ちるがこのように惜しいこととは思わなんだ」

 竜はマリヤと出会った川の上で、その身を土と大気に還した。マリヤは最後まで傍に居て、川に白い花を散らして愛する竜を見送った。世界と身の内に竜の魂を感じながら。

 夫の骸となった大地の上で、マリヤは大きな声で咆えた。誰が竜を継ぎ、地を統べる者であるか、すべてに知らせる為に。竜の咆哮は地を揺るがし、西の大陸の隅々までに行き渡ったという。それからは誰もが彼女をいと高き主として崇めた。

 マリヤはずっと生き続けている。人や獣が数えきれないほど生まれて死に、部族や国がいくつも興り亡ぶほど長い時を。


 暖炉の中で燠火(おきび)が静かに爆ぜた。エスタアルの意識は知らぬ過去から引き上げられる。

「――私はあの方と同じものとして生まれたの。魔女は皆そうして、ここから、人の体から作り変えられる」

 マリヤは下腹を撫でて言う。子を胎に宿した女が慈しみ愛するように。エスタアルはじっとその手を見つめていた。彼の歳を倍にしても足りないほどの昔の出来事は、目の前に肉体を伴って続いている。

 竜と娘の取り交わした命と約束。古語りにある人は、彼の前に生きて語る。

「それに、もっと簡単なこともあるわ。あの尾根が、あの方の体。時には原が、時にはあの川が。……私にはそんな気もするの。つまりは、愛おしいものを守っているだけなのよ。あの方と、あの方の土地、あの方から頂いた私自身。私には、すべてが愛おしいわ」

「貴女は――魔女とは、それで土地を守るのですね」

 央国の国守りは呟いた。緑色の目は答えを得て、強い意思を宿していた。それこそが彼の本来の姿だった。誇り高く、迷いなく。導く者はそうであらねばと、誰より彼自身が考えていた。

 国が大きくなっていく中で生じた、国の守護である自らへの惑い。何故守るのか。その身に代えても守るのか。その問いが彼を、同じように守護者であり、敬愛する魔女の元へと向かわせた。答えはあまりに簡潔だった。

 愛おしいから守るのだ。すべてはただ愛に繋がる。

 ああ、とエスタアルは頷く。口元には笑みがあった。

「そう。この地には私の魂のすべてがある。守らねばあの方を愛した私ではなくなるわ。私は私である為に、この地と自らを守るのよ」

 言葉を続けるマリヤの唇もまた、淡く弧を描いていた。柔く息を継いで、彼女は続ける。

「貴方は王と民と大地に誓い、私たちは愛する方と添い遂げる。成り立ちは随分違うでしょうが、貴方と私が同じなのは、そういうわけよ。ねえ、エスタアル」

 同じでしょう、とマリヤはエスタアルに言う。エスタアルも魔女と同様に、愛しいものを守っているのだと指摘した。

 国守りだから、それが務めだから守るのではない。愛おしいから守るのだ。エスタアルは魔女が語った古に比べてはずっと最近の、国運びを継いだ時のことを思い出していた。師から名を呼ばれ、杖を託されたその時のことを。

 若きエスタアルが塔の上で見渡したルドイエは美しかった。八つの町すべてを眼下に治めることはできなかったが、それでも馬に乗れば一日で着く、手に届く距離の小さな国だった。そこでは民と王が笑っていた。誇らしく愛おしい国だった。

 ――あの時守ろうと誓ったのは、そんなものではなかったか。

 かつての国境から、四日駆けても国の果てに至らない。ルドイエは彼の目が行き届かない国に変わっていた。知るだけして見たことのない場所が、一体いくつあるだろうか。自分は今、何を守っているのか。この先それを、守りきれるのか。

「エスタアル、きっと、永遠の国などないわ」

「存じております」

 柔らかなマリヤの声が言う。冷めた茶を飲んだ彼女に、エスタアルははっきりと応じた。何処にも無駄のない笑みの内には哀しみがあった。彼には魔女の言葉が予言に聞こえた。何よりも嘆くべき、亡国の予言。

 けれど国守りは否定せず、魔女と向かい合った。

「それでも望むのです。我らは、美しい永久を」

 それが人と言うものだった。手に入らないもの、果てのないものを求める。彼の仕える王もまた、その一人だった。そして彼も、また。

 エスタアルは一息に――儀礼の酒のように茶を飲み干し、裾を引いて立ち上がった。決意を持って挑む、けっして折れ得ぬ一枝のような佇まい。横顔は火に照らされてなお白く。

「特別なお話を、ありがとうございました、マリヤ様。私はこれからも国守りとしてあれるでしょう。私は、私の務めを果たします」

 そうして深く頭を下げた男の手に、マリヤは杖を幻視した。エスタアルが城に置いてきたはずの、星と車輪を象った〝国運び〟の杖だ。ルドイエの国守りはそこに居た。悲しみの予感に、しかしマリヤは心の底から喜んでみせた

 末席の文句に彼女もまた腰を上げ、ルドイエの守護に相応しく高潔な男の前に立つ。

 私もこのように在るかしら、とマリヤは自分を省みた。夫と等しく、望まれ――自らがかつて望んだようにあるだろうかと。

 暫し、二人は沈黙して向かい合った。ほんの束の間のことだったが、それで互いに、もう会うことはないだろうと確信した。

 先に口を開いたのはエスタアルだった。畏まり遜るのではなく、国の頂に座す者の一人として、背を伸ばしたままにマリヤと相対する。

「……魔女、……偉大なるマリヤ。無礼とお思いになるかも知れないが――私は貴女のことも、愛しております」

 低い声が明瞭に言う。それはけっして恋の歌ではない。気高い同胞に贈る、賛辞としての言葉だった。

 マリヤは何度経験しても慣れない胸の痛みを堪え、地の主として相応しく応じた。しゃんと背筋を伸ばして顎を引くように頷いたマリヤが清い国守りを見ているように、エスタアルは小さな家の中に貴き竜の幻を見た。

「私もよ、崇高な友。貴方がいつまでも貴方で、よき人であることを祈っているわ」

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