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魔女語り  作者: 灰撒しずる
Ⅰ 偉大なるマリヤ
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 マリヤは部屋の窓を開け、冷えた空気を胸に吸い込んだ。

 今年の初雪が暗い空からちらちらと落ちてくる。日々は確かに、穏やかにゆっくりと過ぎている。

 ふーっ、と長く白い息を吐き肩を擦って、マリヤは九百年も住んでいる小さな家の中で動き始めた。

 寝台から数歩で至る暖炉に火を熾して、そこからまた数歩で水瓶に行きつく。冷たい水で顔を洗い口を漱ぎ、櫛を手に取り、長い金の髪を梳いて慣れた手つきで編んでしまう。頭の後ろで纏める四十過ぎの見た目に合う髪型にして、そうして、日が地の果てに見える頃には予定通りに食事を始めた。蜂蜜を入れた麦粥を作り、温かなオルティの茶を小さなカップで二杯。青地に花模様のテーブルクロスの上でゆったりと時間をかけて片付けて、それから着替える。白い服の襟元を飾るのは、曲線の優美な蔦模様だ。

 毛皮を張った温かな靴を履いて、彼女は麻袋を抱えて外へと踏み出した。

「おはよう。いよいよ寒くなったけれど、皆元気かしら?」

 笑って弾んだ息が白く濁る。袋から麦粒を撒いて家禽たちに問うと、ガッと短い鳴き声が応えた。亜麻色のふくよかな鵞鳥はマリヤの近頃の話し相手で、偶に卵を恵んでくれる。今は二羽だけが庭で暮らしているが、去年までは三羽居た。

 麦粒に惹かれてやってきた他の鳥たちを蹴らないように大股で歩き、マリヤは凍りついた土を踏みながら畑に残っているウェーライ蕪を引き抜く。袋の上に載せて、もう一つ。夕食はこれのスープね、と決めて、隅で雪を被っている香草も一つ引き抜いた。

 そうして動くうち、東側へと向いたときに何かひっかかりを感じて、マリヤは改めて顔を上げた。持つ物を落とさないようにと手を添えながら、首を伸ばして遠くを見遣る。

 魔女の視野、人ならば到底見通せない物を視る目に映ったのは、馬を駆る人の姿。

「……急だこと。今日はお客さんが来るわ」

 銀の星を潜めた目を瞬いて、マリヤは呟いた。思案気に佇んでいたのは束の間、踵を返した彼女は麦粒の片づいた地を軽やかに蹴った。舞う雪が彼女の金の髪や額に触れ、姿を消していく。

「持て成しが必要ね? ……報せも寄越さないで来るなんて失礼だと言って差し上げようかしら。ねえお前、きのこの沢山ある場所を教えてちょうだい。あとは何がいいかしら」

 考えを口に出して向ける先は、まだ麦の欲しそうな鵞鳥たち。そこから視線を移して、木立の奥に居る鹿の数頭へ。家の中に戻ろうとしたマリヤは庭の奥に作った鵞鳥たちの寝床に白く丸い物を見つけて、ひょいと体を折って拾い上げた。

「卵は好きだったわね。買い出しは……いいわ、町の物は普段から食べ慣れているに違いないもの。とっておきのコンフィと蜂蜜でも出してさしあげましょう」

 袋を逆さまにして残っていた麦をばら撒き、家の中へと戻って蕪や卵を置く。そうして暖炉の前に立ち、彼女は魔性の瞳で火を見つめた。絶えず動いて薪を食い潰そうとしていた火は、その強さを変えないままに動きを遅々とし、魔女の意に沿って眠り始める。固まった先端は捩れた花弁のようだった。

 マリヤは真新しい純白の肩掛けを羽織り、十年ほど前に編んだ籠を手に再び屋外へと出た。案内を頼んだ鹿が時を止めても居ないのに硬直しているのを見ると、その視線を追って狼を見つける。体格も毛並もよい、健康な若い雄と見えた。

「お前、今から来る男を噛んでは駄目よ。分かっているでしょうね、引っ掻きでもしたら森に火が点くわよ。他にも教えておきなさい」

 マリヤが声を上げたのは鹿を助けるためではなかったが。竜の妻に呼びかけられ、ただでも彼女の庭と思って牙を控えていた狼は弾けるように逃げ出した。灰色の尾まで、すぐに木立の奥に見えなくなる。

 その頃には、鹿がマリヤの前に来て頭を垂れていた。マリヤは頷き鹿を促して、夕餉の食材を探しに森の中へと立ち入った。


 日が暮れようとしていた。白く覆われた大地は遠い空の色を映し、青く朱く。薄い雲から零れる雪は星の真似事をして光っていた。

 雪と同じように、マリヤの衣服も空や光の色に薄く染まっていた。彼女は指先と顔以外に露出のない寡婦の白服の上に銀刺繍の襟をつけ、銀の櫛を挿した礼装で家の前に立っていた。

 そうした装いは、今までならば何処かそうした物を着るべき所に向かう時にしていたものだ。こうして家で人を迎え入れるときに支度したのは初めてのことで――それに足ると彼女が考えただけで、実のところ大事である。

 青い目を閉ざし、美しい女の顔は上を向いた。雪は星のように降り注ぐ。

「どうぞお入りなさい」

 マリヤは虚空に向かって声をかけた。

 薄く色を霞ませた渓谷で、それまで吹いていた風は固まるようにして途絶え、雪もまた静止した。

 次の瞬間、谷の間を流れる空気に切り込み横に吹きつけた風は、まったく繋がりのない、別の場所から吹いたものだった。もっと開けた場所で生じた風が吹き込んだのだ。渦成した風にヒンと高い馬の嘶きが混じって耳に触れ、マリヤは目を開けた。

 雪が元通り静かに落ちるようになった道の先、景色は一変していた。葉を落とした木々があるばかりだったところは開けた原になり――そこに彼女の客は居た。

 青毛の馬が身震いする。銀の枝が描かれた蒼い馬着と、飾りのついた鞍と頭絡を身に着ける、体躯と毛艶の申し分ない素晴らしい馬だった。そんな馬を先に立たせ、男は直立していた。灰色の長い髪を分けて編み垂らし、銀糸で植物の模様が刺繍された蒼色のローブを纏っている。実質八十二歳、見目は隣国の民にして言わせればその半分ほどでしかないその男は、名をエスタアルという。

 央国――フェルエーイも歴史の上ではその内に身を置く、清廉なるルドイエ国の一高官だった。

 エスタアルはマリヤの姿を認めると跪き、深い礼の姿勢をとった。すると馬も前肢を折り頭を下げる。

「ようこそ、エスタアル」

 胸に手を当て返礼としたマリヤは、友の姿に歩み寄って微笑んだ。

「無沙汰をしておりました、マリヤ様。御健勝のお姿、なによりです」

 地に広がった裾を暫く眺め、立ち上がり雪を払ったエスタアルもまた微笑を浮かべた。感情に沿わない作り笑顔というわけではなかったが、よく訓練された絶妙の笑みだった。マリヤよりも随分と背が高い彼は向かい合ったところでも遜って、体をやや前に倒している。そうしながら馬の手綱を引いてやり、身を起こさせる。

「珍しいわね、貴方のほうから訊ねてくるなんて。しかもこの私に対して、報せもなしに」

「こう見えて私も多忙でございまして。急な訪問になり、御迷惑でなければよいのですが」

 マリヤはゆっくりと言った。言葉に含まれる諧謔にエスタアルはすぐに気づき、同様にゆっくりと声を発する。衰えの見えない友人の言葉に、二人ともが控えめに笑いを零した。

「本当に迷惑なら門を開けたりはしないわ。さあ、入って。寒いでしょう。こんなに急いで来て。馬は大丈夫?」

 形式の挨拶も冗談の挨拶も終えたところで、マリヤは門――山の下の平野と繋いだ空間から客人を促し、裾を引く。

 エスタアルは頷いて渓谷の主、大いなる魔女に従った。新芽色の目は辺りを見渡して、白い息を散らしている愛馬を見遣る。

「彼は平気ですが、放しておいても?」

「客人の足を齧ることはないと思うけれど、庭まで入れておきなさい」

 マリヤの応答に、エスタアルはヴァンダヌイと馬の名を呼んだ。夜風の名を持つ馬はマリヤを見つめてまた身震いしたが、結局足を前に出し、連れられるままに魔女の庭へと入って、騒ぎ始めた鵞鳥たちを落ち着いた目で見つめた。騒がしいのには慣れているようで、耳は寝ずに動いている。

「賢い子だこと。お前たちも静かになさい」

「――この辺りで狼などは見たことがありませんが、出るのですか」

 身を飾る装飾に負い目のない知性を持つ馬の振る舞いに目を細めて喚く鵞鳥たちを窘めていたマリヤは、問いにまた笑った。そうするうちに高価な装飾付の鞍は外され地面に置かれてしまう。丁寧な手つきではあったが、それでもぞんざいと言えばぞんざいだった。急がせた馬を労う男を眺め、さあとマリヤは首を傾げてみせる。

「貴方に何かしたらさすがに向こうも黙っていないわって、主が先に言い含めてあるのかも知れないわね」

 エスタアルは顔を上げてマリヤを見つめた。

 魔女マリヤは、人々、国との諍いをよしとしていない。ただの高官でも危害を加えては国との軋轢は避けられないが――ことエスタアルに関しては格別の注意が必要だった。彼はルドイエの中で、王に次ぐ上座に身を置く男なのだ。

 宰相にして軍師。占師神官にして司直。一人の王に従う側近、王に従うすべての先導者。そして王と民、国土を守護する国守り。即ち国に欠かせぬ楔。それが〝国運び〟と呼ばれるルドイエの最高官だった。エスタアルはその、八代目になる。不注意で怪我でもさせようものならば、如何に相手が齢千を数える魔女といっても、央国も黙してはいない。

 ただし、国運びと魔女マリヤは国の儀礼で顔を合わせて以降幾度か交流があり、こうして個人的に会うこともある間柄だった。友人と言ってもよい。

「それはそれは――重ねての気遣いに、感謝申し上げます」

 その身分にそぐわず腰低く礼を口ずさみ目礼した彼は、ところでと鞍と共に下ろした荷から包みを取り出した。外気に冷えた包みでも甘い香りを発していることにマリヤはすぐに気づく。彼女は耳も目も鼻も、常人より遥かに優れている。

「干し葡萄はお好きでしたよね。お口に合えばと思ったのですが」

「まあお土産? 気の利いていること。ご機嫌取りかしら。……食事は用意したから、その後に頂きましょう。お茶は何が合うかしら」

 言葉通りに干し葡萄を用いた焼き菓子の受け渡しを和気藹々と終えた二人は、連れ立って家へと入る。その様は長年の友人らしい、くだけたものだった。

 着飾り引き締めた格好の者たちが小さな家の中で向かい合い食事をすると言うのは、奇妙な光景だった。簡素な作りのテーブルの上には清潔な白い布がかけられ、その上にマリヤの衣装に似た銀刺繍の帯が重ねられてそこだけ光るように明るいが、並べられた温かな料理は飾り気のない物だ。蕪ときのこのスープ、柔らかなオムレツ、焼いたばかりの柔らかなパン。そしてマリヤのとっておきの、丸梨のコンフィと蜂蜜。飾り気は無くとも、豪勢だった。

 料理上手な女の用意に喜んだエスタアルは、もう一つ、と土産に酒の瓶を取り出した。黄金色と淡い菩提樹の香りを持つ白葡萄酒だ。二人は微笑みを交わして、マリヤの用意した杯を互いに満たした。

 儀礼のように一杯の酒を乾し、二人は食事をしながら暫し歓談した。

 マリヤはフェルエーイ渓谷の様子、季節の移り変わりや、先程に話した狼のこと。それに近くの町で聞いた僧侶の教えなどを話した。エスタアルは夏に平定した国のことや、支度の始まっている冬の祝祭について、そして王城での出来事をマリヤを楽しませるように巧みに語って聞かせた。

「務めは置いてきてもよかったのかしら?」

「私の他にも〝運び〟は居ります。何かの時に任せられぬようではいけない」

「けれど貴方は特別。まだ後継は決めていないのでしょう?」

「……ええ」

 穏やかな会話は食事が終わっても続き――やがて一筋の流れを成す。

 マリヤは「この為に彼は訪れたのだ」と勘付いていて、エスタアルは「この為に此処に来たのだ」と思い出していた。二人は楽しく語らう為だけに顔を合わせたのではなかった。

 国運びは同胞にして部下である〝運び〟たちのことを思い出し、東、ルドイエ王都を見遣った。マリヤの指摘通り、彼は未だ後継者、九代目の国運びを選んではいない。こうして城を出て留守を任せるに足るだけの者はいると考えていても。誰よりも先を考えねばならない彼は、先のことを考えるよりも今のことを憂いている。

「お茶にしましょうか」

 マリヤは立ち上がり、暖炉にかけていた薬缶を手に取った。

「ルドイエも大きくなったものね。この前までは八つばかりだったと思うのに」

 そうしてポットを湯で満たしながら、子供の話めいた調子で言う。

 八つばかりだった、のは年の話などではなく、町の数の話だ。かつて都市国家だったルドイエは、やがて周囲七つの町や集落を統べて央国としての地盤を固めた。――それから既に七百年余り。

「……ただの十年でこれほど大きくなるとは、私も思ってはいなかったのですが」

 大陸の中、北方や東方でも国が纏まり始めたと聞こえてくる中で、ルドイエは再び大きくなり始めていた。今や、町の数は倍以上に増えた。興ったのではなく、呑み込んだのだ。配下に引き入れた小国は二つ。夏に戦をした国と共に、国の名を消そうとしている。

 すべて王命を受けたエスタアルの指揮したことだった。一切の綻びなく彼はやりおおせた。これからもそうであろうと、王にも、肩を並べる者たちにも思われている。

 ルドイエには、この冬のうちに南の都市国デーヌを引き入れる計画があった。春には、力をつけ育ち始めている二国に恭順の意を問う支度も。

「貴方はあまり喜ばしく思っていないのね?」

 マリヤの声が軽く核心を突いた。エスタアルは何か言おうとしたが言葉にならず、息だけを吐き、それを弱い笑い声にする。

「ご勘弁を、マリヤ様」

 テーブルに置かれた杯が香りと共に湯気を立ち上らせる。自分が持ってきた酒と似た色をしたその表面に上手く笑えていない顔を見て、エスタアルは肩を落として眉を下げた。口元はなおも笑っているが、眼差しは憂いを帯びて暗い。

 マリヤは切り分けた土産の菓子を置き、椅子に座りなおした。温かな杯を手に、じっとエスタアルを見つめている。

 己を見つめる眼差し、銀の膜を持つ極上の宝石の色味に酔いそうになりながら、エスタアルは問いを声にした。急に魔女を訪ったその目的を果たすべく。

「貴女は――貴女たち魔女も、土地を護られるのでしたね」

「ええ、そうよ」

「それは、何故ですか?」

 ふ、とマリヤは息を吐いた。青い目を細め、首を傾ぐ。

「貴方にしては、ぼやけた問いかけね」

 その評は尤もだった。平素の――マリヤのよく知るエスタアルという男ならば、答えるべきことは何か、答える側にも分かるような明快な問いを発していただろう。それが彼で、〝運び〟というものでもあった。

 しかし似合いだと、マリヤは思った。何故。これ以上の問いがあるだろうか。彼女がこの地を守り続けるのは、何かの利益の為でも、誰かに頼まれたからでもない。

 人の妻が、夫の居ない家を守るように。

「愛しているからかしら」

「愛?」

 エスタアルが小さな声で聞き返す。マリヤは笑みを携えて肯き、淹れたばかりの熱い茶を口に含んだ。

「貴方は、私の夫のことを覚えておいで? ――いいえ、物覚えの良い貴方のこと、忘れてやいないでしょうね」

「……貴き円弧の竜(アエルセ)、この西の地、すべての獣たちと草木の主であらせられる方。神代に生まれ、神にも等しいと」

 エスタアルは詩を諳んじるように口を動かし、青い目が細められるのを見た。

「ええ、そう。私にとってはあの方こそ神のよう。この地はあの方のものだった。王が土地を治めるのと同じように、それよりも前から、あの方はこの地にあられた。そして、私はあの方と同じなのよ」

 宝石が人を魅了するのは、創世の光の名残を秘めているからだ。マリヤの瞳は同じように光る。神々しい力を秘めて――しかし今、恋を謳う生娘のようにあった。手にする杯を撫でてはにかみ、女は一人になる前を思う。

 魔女は、一人で舟に乗った日と同じほどに、もしくはそれ以上に悲しい日のことを思い出す。悲しいと同時に、酷く美しい思い出だった。

「あの方がそれを私に教えてくださったのは、今日のような美しい雪の日だった」

 呟き、マリヤは過去へと立ち返った。

 エスタアルが身を置くルドイエが建つ前の、遠い昔のことだ。

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