三
その後、マリヤは竜と共に長くを過ごした。人々が集まり、争い、国を建てる歴史の只中で。百年、二百年、長い時を。
マリヤはすべての親しい人々を見送った。竜と同じものを手に入れた彼女の体は老いと衰えを遠ざけ、人と流れを別にしていた。百年経てば、かつての彼女を知る者は一人として居なくなった。娘マリヤは神の嫁となり――やがては魔女と呼ばれるに至る。
途方もなく長い時を生きる竜の嫁御。時に娶られた偉大なる女と。
そんな彼女も、夫の横ではただの女、愛する者に寄り添う貞淑な妻だった。彼女は渓谷に立てられた小さな家の中で竜が望むように糸を紡いで見せ、好きな色に染めて織ったり縫ったりした。森の中を歩いて山菜や木の実を取って料理をする日もあれば、家の横に畑や庭を作ってみる日も、川下に出来た町に赴いて布を売ってくる日もあった。
その日もまた、マリヤは何枚も遊び織った布を売りに町に出ようとしていた。
二十歳ほどの見目となったマリヤは編み髪に櫛を挿して、纏めた布を抱え上げた。藍染めの布が一巻き、白い布が二巻きある。白い布のうち一つは既に色糸を刺して、金雀枝の花を咲かせている。マリヤが好んで用いる草花の模様の一つだった。
「行くのか」
軽々抱えて外に出ると、風を引き連れ竜が姿を現す。若々しく赤い服を着たマリヤの周りを飛んで、布の模様を確かめて、銀の体をくねらせて止まった。同時に風も止んだが、青い鬣は熱でも受けているようにゆらゆらと揺らいでいた。
「ええ、行って参ります」
「気をつけて参れ。何かあれば直ぐに呼ぶのだぞ」
「はい」
マリヤは答えてくすりとした。夫と共に強大な存在となったマリヤに害を成せる者など誰も居ないというのに。
「お呼びすることはないと思いますわ。けれど――共に行けたら、とても素敵なのですけれど」
笑ったまま呟き、マリヤは夫を見上げた。青い翼が飛ぶでもなく羽ばたいているのを見てああと首を振る。そうした動きは竜が物を思案している時の癖だと、マリヤは共に歩んだ長い月日の中で知っていた。
「我侭を申しました。ごめんなさい。……日暮れには帰りますわ」
そんな夫の様に眉を下げ、彼女はゆるりと進む時の中へと踏み込んだ。地も宙も、水の上も、彼女には変わりがない。躓くこともなく踏みしめて、気に入りの服の裾を翻し、町へと向かう。長く平坦ではない道も、魔女の力をもってすれば一刻もかからない。町の門に着く前に周囲と自分の時の流れを合わせるのにももう慣れたものだ。
マリヤが貴婦人の如く楚々と歩いて、行き交う人々に挨拶しながら進むと誰もが振り返る。月に一度ほどの頻度で現れる彼女は、隣町から来た美女として人気があった。男からそうした意図で声をかけられることも少なくはない。
無論、愛する夫の居る彼女がそれに応じることなどなかったが。それでも彼女はいつも一人なので、声掛けはなかなか止まなかった。
物を売りに来た人や買い物をしに来た人で、市へと続く道は賑わっていた。その中には当然恋人や夫婦で並ぶ者たちも居て、マリヤは無意識に、目で追っていた。そうすると足取りはいくらか不確かになり、飛び出した小石にも爪先をひっかけてしまう。そんな自分に小さく溜息を吐いて、彼女は市へと急いだ。早くしなければ、場所が埋まってしまうだろう。
「マリヤ」
名を呼ばれてマリヤが顔を上げたのは、ちょうど市に続く曲がり角に差し掛かったときだった。
慌てて辺りを見回す彼女が見つけるのはすぐだ。道の先に見つけたのはまるで見知らぬ男の姿だったが――マリヤにはすぐに分かった。
黒い立派な服を纏った美しい偉丈夫は、他の者たちとはまるで違う鮮烈な存在感を放っていた。目はマリヤと同じように――マリヤが貰い受けた側なのだが――銀を含んだ淡い青色をしている。星の輝きのような稀有なその色を、マリヤが見紛うはずがない。
布を抱える腕をぎゅっと締めて、マリヤは驚きすぎて吐き損ねた息をゆっくりと吐き、男へと駆け寄った。
誰の姿を借りたものか、腰ほどまである髪は鱗と同じ銀色で、それはそれは人目を引いている。そこにマリヤが近づいたものだから、町の人々の目はすべてそこに引き寄せられた。
「人の姿になられたのですか!」
マリヤは声を押さえて男に訊ねた。男は驚いたマリヤの顔を見下ろし、表情を変えぬまま頷く。右の手がすっと持ちあがった。
「其方が共に行きたいと申すから。――ほれ、手を出さぬか」
実際は姿を変えたのではなく、幻を作っただけだったけれど。竜はそれを言わず、常は尾でそうしているようにマリヤの手をとった。質量のある上等の幻は確かにマリヤに触れ、体温さえ与えてみせる。
「人の夫婦がどのようにするのか、己も知っておるぞ」
そうして幻を笑わせてみたが、上手くいっているものかは遠くから見守る竜には判別できなかった。竜がよく知っている笑顔と言えばマリヤのものだけで、他の者の笑顔を模してみたところでよく分からない。こんなことなら一度試してみるべきだったと思ったのはほんの一瞬。マリヤがその、竜のよく知る笑顔で嬉しそうに手を握り返したので、竜は笑顔の出来などどうでもよくなってしまった。
男のしっかりとした手がマリヤの細い手を握り込む。掌は幻でも、触れようとした意識は竜のものだ。
マリヤはけっして竜に嫁いだことを後悔などしていなかったが――時折人の妻を羨ましそうに見ていることを、竜は知っていた。夫や暮らしを比べての事ではない、ただ純粋に、娘としての憧れを捨てきれないでいる羨望の眼差し。
人々よりも遥かに早くに生まれ神さえ見知っている竜は、そのことで初めて人々を羨んだ。竜が人間だったならば、マリヤにしてやれたことはもっと多かったに違いない。愛する妻を喜ばせてやることは、もっと簡単だったに違いない。今より、できることが少なくなろうと。
身に流れる強大な力と引き換えに人の身を手に入れることができたならば、竜は喜んでそうしたに違いない。叶わない、甘い夢想だった。
すべてを叶えることはできなくとも。真似事でも叶えてやろうと、竜は幻を紡いで娘の手をとった。愛する妻の横に並び手を引いて、竜は幻を歩かせる。マリヤは夢見心地で夫に従った。
話題の美女と見知らぬ美男とが楽しそうに歩いているところを、町の人々はあれこれと噂をしながら見た。女のほうが物をたっぷりと抱えているのに男が手を貸さないのがまた様々な憶測を呼んだが、当人たちはまるで気にしなかった。周りなど見ていなかったのだ。
よく出来た布を売り代価を手に入れた二人は、同じように物を売りに出てきた人の中を楽しげに歩いた。あれこれと物を見て話し、買い上げて、日が暮れるまでを町で過ごした。
それ以降、竜は偶にそうして、マリヤの小さな夢を叶えた。マリヤはその度に素晴らしい贈り物をもらったように――実際彼女にはそうに違いなかった――はしゃいで笑った。竜もそれを喜んだ。
マリヤと竜は、とても仲睦まじい夫婦だった。時には喧嘩のようなこともしたけれど、それだって夫婦らしい、些細で可愛げのあるものだった。
マリヤは後に、力ある竜も実際には人の形をとることはできないのだと知った。
ふと気づいたと言う方が正しい。夫と会い、契ったときに彼女の中に生じた竜の部分が知っていたこと、竜の理だった。竜の多くは幻を形作ることを得意とするが、自身が何かに化けるというのは難しいもので、神に与えられていない姿を得るのは不可能に等しい。それで竜は仕方なく、人形遊びに等しいかたちでマリヤの同伴という行為を繰り返した。
舞い上がって付き合わせてしまったというその気づきはマリヤを羞じさせもしたが、夫と買い物に行ったとき以上に彼女を幸せにもした。夫の優しさと気遣いが、泣いてしまうほどに嬉しかった。作った料理を共に囲むことがほとんどなくとも、仕立てた服を着てもらうことができなくとも、人の男でなくとも。竜は彼女の、なにより愛しい夫だった。
竜にとってもそうだった。互いに唯一無二の相手だった。
夫婦になった少し後、マリヤは竜に、今までの娘はどうしたのかと問うたことがある。村では八十年に一度、一世代に一度で娘を捧げ嫁にしていた。だから竜がすべてを娶ったのかと思って、僅かに嫉妬など抱いてのことだった。もしかすれば八十年もすれば自分も役目を失い竜の妻でなくなるのではとの危惧もあった。
そのときの竜の返答は素っ気なかった。知らない、とただ一言だけだ。嫁は神に捧げられたもので、竜は神ではないのだから、道理ではあった。竜はあの日、偶然マリヤを見つけたのだと言う。
それまでの娘は、川で死んだか、森で死んだか、海に出て死んでしまったか。どこかで一人で、もしくは誰かと暮らして死んだのか。真の神に嫁いだのか。――考えて、自分はとても幸福な一人だったのだと、マリヤは再認識した。偶然にも素晴らしい夫と出会うことができた。この運命が待っていたからこそ、自分は何も恐れず舟に乗ることができたのだと。
――舟に乗っていたのが他の娘でも、貴方様は娶っていたでしょうか?
唇から零れた独り言のようなその問いにも、竜は答えた。
織り続けていた青い布に花模様が現れたところで、彼女はようやく部屋が暗く翳っていることに気づいた。冬の日の日暮れは早い。見れば途中で薪を足していたはずの暖炉の火も小さくなっている。マリヤはあらと声を上げた。
「今日はこれぐらいにしておきましょう」
独り言を続けて、一日仕事の機織りで強張った体を解しながら灯りを点ける。机の上に置く小さな銀色のランプはいつの頃か、彼女が夫と町を歩いた日に買った物だ。小さな蝶の細工が気に入っている。錆び一つなくあるのは彼女の用いる魔法の為で、ランプの時間は実際流れている時間より、百年は遅れている。
布に出来上がった模様を撫でて満足そうに微笑んでから、彼女は食事の支度にとりかかった。ここ一月で作ってあった塩漬けや砂糖漬けの壺を手に、今日は何にしようかしらと思案する。
人の妻が夫の居ない家を守るように、竜の妻は夫の居ない土地を守り過ごしている。彼女の日々はこうして過ぎていく。何百年も続いて、千万の昼と夜を繋いで。