二
マリヤは部屋の窓を開け、まだ暗い空を眺めて微笑んだ。
ウォードを絞ったように濃い藍色を見せながらも澄んだ天から降りてくる風は日々冷えていく。点々と居残る星は移り変わって熊や狼、盃の図を見せている。今年も冬が来ている、それだけのこともマリヤには喜ばしい。日々は確かに、穏やかにゆっくりと過ぎている。
空とは違う淡い青、美しく銀を透かす、至上の宝石のような目でたっぷり三度瞬いてから彼女は動き始めた。
マリヤの家は小さな家だ。渓谷の底に流れる川より一段上の所に建ててあって、人が一人で住むには十分な大きさで、外に竈と、大きな庭がある。柵を作って囲んだところをマリヤはそう呼んでいたが、実の所は此処から見渡せる山々のすべてが庭のようなものだった。むしろ彼女の土地と言うべきかもしれない。この地の鳥獣も草木もすべて、彼女に従わないものはない。彼女は此処の長で、主だった。
西の大陸の央国ルドイエ・ルーの人々がフェルエーイと呼ぶ渓谷に、マリヤはずっと昔から住んでいる。
寝台から数歩で至る暖炉に火を熾して、そこからまた数歩で水瓶に行きつく。冷たい水で顔を洗い口を漱ぎ、すっきりとした彼女はその場で櫛を手に取り、長い金の髪を梳いて慣れた手つきで編んでしまう。頭の後ろで纏める三十代半ばの見た目に合う髪型にして、そうして、日が地の果てに見える頃には予定通りに食事を始めた。昨日焼いたばかりのパンを一切れと、蜂蜜、温かなオルティの茶だけで彼女には十分だ。
時間をかけて片付けて、それから着替える。下着を多めに重ねた上に、白地に黒糸で刺繍した物を選んで袖を通す。紋様は柊だった。
すっかり身支度を整えた彼女は美しい。白粉も紅も無く質素な出で立ちだが、しゃんと立って、生命力を漲らせて輝いている。
さあ、と意気込んで、彼女は扉の無い隣の部屋へと移った。籠にたくさん積んだ、染めたばかりの鮮やかな色糸を纏めた糸巻を選んで、織機へと向き直る。
「はじめはどの模様にしようかしら――無地でも素敵ね」
六百年は共に居る織機を撫で、夫がそれを運んできた時のことを思い出して頬を緩める。
ふふふと幸福を零すように笑いながら、マリヤは結局、一番好きな青色に染めた糸を経糸に用意し始めた。この織機に初めて触れた、昔々など思い出しながら。
「私は、ニコとシュゾンの娘、マリヤでございます。神様への捧げものでございます」
跳ねる心臓と息を落ち着けて、十一の娘は小さな手を濡れた草葉の上に置いて、平伏した。彼女の頭上には銀の光が揺れていた。美しい銀色の、竜だ。
それは円弧の竜と呼ばれる、神代に時の流れから身を断ち生まれた竜の一頭だった。強大な力を持ち、世界と同じだけ生きてきた、原初の竜。その貴き身が深い森の只中にあった。竜はこの大地の主でもあった。
蛇と似て長い体は輝く銀の鱗で覆われ、青い鬣と翼は絹糸のような質感をしている。四つの足は水晶の鉤爪を備えて宙を踏みしめ、マリヤの前を歩く。空色の瞳の中には渦巻くように深い光がある。初めて現れたときには山より大きかった体は今、縮んで大蛇で済むような大きさになっている。それでもその凄まじい迫力は削がれることがない。森のすべて、大樹から土塊に至るまでが竜に従っていた。
晴れて木漏れ日の注ぐ森の中には、マリヤが居た川も、使っていた舟も見当たらない。マリヤはまったく見知らぬ場所で竜と向かい合っていた。しかし、緊張こそしてもまるで狼狽えずに、凛と。
「貴方様に嫁ぐために、舟に乗り川を下って参りました。どうか、お傍に置いてくださいませ」
竜を前に、マリヤのすることと言えば決まっていた。彼女は村から出された捧げ嫁で、神に嫁ぎに来たのだ。そして、神と思えるものは目の前に在る。
光輝を纏う竜の姿はマリヤの目に――人の目に、何よりも美しく、何よりも貴く映る。その威容は、娘に神を思わせるには十分だった。普通の人間であればこのように対面して話すことさえ畏れ多いと、萎縮して言葉を失うに違いない。
しかし、この時のマリヤは酷く冷静で、堂々としていた。それだけのものを彼女は既に得ていた。私はこの方の妻なのだ、と確信していた。
「己は星ではない。己はこの陸の竜なり。けれども其方は――もう分かっておるのではないか」
竜はマリヤの言葉にゆっくりと一度瞬きをし、神であることを否定した。その瞳の中にマリヤが居る。同じように瞬いたマリヤの瞳もまた、竜と同じ色をし、同じ力を満たしている。
マリヤは、既に嫁いでいた。神にではなく、神に等しく思えるこの竜に。それゆえに既に人では無くなっていた。ゆえに竜の前に落ち着いて居られた。
彼女は竜に魂を与えられ、生まれ変わったようにして此処に座しているのだ。娘の小さな体は力に満ち軽やか、息を吸ったときの心地も血の巡りも、世界の見え方も、舟に乗ったときとは何もかもが違った。
そして何よりも。彼女は、神ではないと言った目の前の竜にどうしようもなく心惹かれ、焦れていた。他のすべてが些末に思えるほど。それはいわば、初恋だった。
宝石のような、美しい恋だ。竜を一目見たときからマリヤの中にある。
――ああ、これが運命なのだわ。
幼いマリヤは舟に乗ったときのように、運命に従うことにした。どの道、既に契りは済んで、彼女に運命から逃れる術などなかったのだが――彼女は己で選んだ。たとえこの竜が自らが捧げられるべき神でなかろうと、と。その決心もまた、研がれた石のようなものだった。
竜も恋をしていた。娘の美しい様と魂、その願いに。だからこそ竜は彼女を娶ったのだ。もはや覆らない。時はけして巻き戻らないものであると、その権化である竜はよく知っていた。
同じ色をした双眸で、娘と竜は見つめ合った。すべての歴史から見れば束の間の、短い時のことだった。
「己と共に生きよ」
草木のざわめき、遠い水のせせらぎと共に、竜が言う。その呼びかけがマリヤにどれほど甘く優しく聞こえたことか。マリヤは震える息を吸った。
「はい」
答えた、瞬間。マリヤの周囲の景色が一変する。場所が変わったのではなく、日が傾いで暮れたのだ。瞬き一つの間に、だ。急に雲が出てきたなどということでもなく、辺りは薄く闇に染まっている。それでも、マリヤの目はよく見えた。今までならばけして見通せなかっただろう、影の落ちた葉の形もよく分かる。
何度も目を瞬いたマリヤは、夫である竜が少し離れ、何かの上に移動していることに気づく。木に立てかけられている、大きな織機。先程までは何処にも見られなかった、森ではなく、人里の代物だった。
マリヤは露濡れた婚礼衣装の裾を引きながら、置かれた立派な織機へと近づいた。丈夫な材木で作られたそれは、蔦模様の飾りまでついた素晴らしい逸品だ。
「どうであろう、気に入るか」
「私に?」
問いかけに、マリヤは控えめに織機へと手を伸ばした。その手を取るように竜の尾が動き、金属の色をした鱗が陽だまりと同じ温度で柔肌に触れる。
マリヤは胸が高鳴るのを感じながら、促されるままに織機に手をかけた。丁寧にやすりがけされた滑らかな木の表面。それだけで酷く懐かしい心地になる。もう二度と触れることはないだろうと思っていたのだから、当然だった。
「其方は何も持たされたなかったようだから」
神に嫁ぐ娘は着飾りこそすれ嫁入り道具を持たない。すべて行き先で素晴らしい物が与えられるとされているので、ただ花で祝って見送られる。それをなぞる竜の言葉に、マリヤの胸は少し締め付けられた。
竜はするりと宙を泳ぎ、己の体で弧を描き飛んだ。マリヤは顔を上げてその姿を追いかける。まるで森の中を星が駆け抜けているような、不思議な光景だった。
「人の女というものは、そういうものに触れて日を過ごすのだろう。糸を紡いで、編んだり織ったりする。見ていて面白い。己は好きだ」
そうして竜が行く先、木の根の上には織機に留まらず様々な物が置かれている。糸車と針籠、鍋や皿、衣服に靴、果ては女児を象った人形まで。娘たちがどこかの家に嫁ぐときに必ず持たされる道具の類から、ガラクタのような物までが点々と揃っていた。
「お好きなら、沢山やります。沢山糸をとりますわ」
拾い上げられる物は拾い上げてまとめながら、マリヤは言う。どれもこれもが懐かしい手触りで、彼女は拾う度に何かを思い出しそうになったが、すべて振り払って急いだ。そうするうちに、彼女は与えられた道具のどれにも使った痕跡があることに気づいていた。特に布で作られた人形には、千切れて接いだ痕も見られる。誰か、前に持ち主がいたのは明らかだった。
「これはどちらから、お持ちになられたのです?」
草の上に寝ていた人形をそっと持ち上げ訊ねるマリヤに、竜は止まって頭を擡げる。その目は物を一杯に抱えたマリヤを見て、何か思案気だった。
「何が欲しいのか分からなかったから人の家から貰ってきたのだ。足りぬ物があれば言うがよい」
再び見れば織機にも、幾度か使った痕跡がある。マリヤは困惑した。竜は確かにマリヤが欲するだろうものを持ってきたのだが、つまりはほとんどの物が、生活には欠かせないものだ。
持ち主が居るのなら。人の道理で生きていない夫と違い、人の子であるマリヤには懸念が生じた。
「持ち主が困るのではないかと思うのです」
「話をして代わりのものは置いてきた」
細い声で受け取れないと言うマリヤに、案ずるなと竜は応じる。神のようなものが相手では物を請われた側としても抗えるわけもないが、奪ってきたわけではないらしい。その言葉にいくらか安心したマリヤは、けれど、と手元に視線を落とす。睫毛が薄く影を作った。
「貴方様がそう仰るのなら……」
白い手が触れる人形は使いこんだ後があるが綺麗で、首には不器用に花が結ばれていた。まだ萎れていない、白い花だ。
マリヤは青く澄んだ目を細めてその花に触れた。途端、なんとなく見覚えのある子供の笑顔が過ぎって、目を丸くする。それは思い出や記憶ではなく――視えたのだ。彼女の目は色だけでなく力を得ていた。
もう一度、と確かめるように触れると、今度ははっきりと子供の姿が像を結んだ。人形と一緒に飯事遊びをする幼女の姿が、マリヤには見える。それはマリヤにとってもどこか懐かしい、誰もが見たことのある穏やかな光景だった。
「これだけ、返してあげたい……」
マリヤはふと声を漏らしていた。
「これは、子供の持つものなのです。大切に使っていた痕がある。寂しがって泣いているかも知れないわ」
玩具を抱き俯く娘にするりと竜が寄り添う。マリヤが何を視ているのかは竜にも察しがついた。それよりも気にしたのはマリヤの言う痕のことで、何が彼女に大切さを判じさせたのか、竜は知りたがり、じっくりと人形を見た。
結局、分からないままに終わる。竜は今まで人のことなど遠巻きにしか見てこなかったので、そうした知識が少なすぎた。
「優しいマリヤ。……其方は寂しくはないか?」
「貴方様がいらっしゃいますもの」
それでも、娶った娘の心の動きは分かる。竜が問いかけるとマリヤは微笑み応じた。顔に塗った白粉も紅も薄れていたが、とても艶やかな笑みだった。
「私が返して参りますから。いけませんか?」
そのまま言う言葉に、竜は一度身を翻して彼女の正面へと身を滑らせる。再び向かい合い、そこで口を開く。
「人里が恋しいか」
マリヤは一度口を噤んだ。いいえ、と言えば嘘になる。舟に揺られていたときの哀しみはまだ彼女の胸に残り、家族や仲の良かった人々の事はふとしたときに思い起こされる。今、抱えている品々に触れたときもそうだった。
神に嫁ぐと決められ、一年かけて納得し、全てを受け入れたと思っていたマリヤにとって、それは誤算だった。悲しく、寂しく、諦められない。誰もそんな彼女を責めることはできないだろう。そもそもが十一の娘には重すぎたのだ。
夫に嘘を吐くことを厭ったマリヤは、小さく頷いた。
「……ええ、少し」
「返さぬぞ」
すぐに言葉が返ってきて、マリヤは呆けて夫を見つめ返してしまった。表情の変わらぬ竜が発するマリヤの身と魂を縛る声は、突きつけるようであっても恐ろしい色を含んではいない。むしろ優しく穏やかな部類だ。
「だが行くのは構わぬ。其方は己と等しく自由であるべきだ。神ではなく己に娶られたこと、人にも知らせるべきであろう。共に行くか」
沈黙を何と思ったか、竜は尾で人形を持っていたマリヤの手を掬い上げた。マリヤはほうと熱っぽい息を吐いた。このように妻として扱われ村に行く日が来るなど、彼女はこの一年想像もしなかった。してはならなかったのだ。
じんわりとした幸福がマリヤの胸を満たす。指に触れる尾をはじめて控えめに握り返して、彼女は顔を上げた。既に長く連れ添って、幾度もこうしていたような気がした。
「貴方様の元に戻らないことなどありませんわ。私、嫁いで来たのですもの」
愛おしい夫の姿をそこに見て、マリヤは満面の笑みを浮かべた。淡い銀の光に照らされ、彼女もまた光を放っているようだった。
そうして娘と竜は、共に寄り添いながら村に向かって歩き出した。
娘の足が前に出るごとに吹いていた風は緩み、虫や鳥の声は間延びし静かになっていく。天に見え始める星の光の揺れも無く、草木は静まり、足元で弾けた夕露は宙で光の粒になって留まる。飛び立った蛾も羽を広げた形で浮いていた。マリヤはその中を進んだ。彼女の後ろで露が緩慢に地を打ち、また弾けた。
止まったのではない、止まるに近く遅れた時の中を、マリヤは進む。成程我が夫もこのようなことをして物を運んで来たのかと、聡明なマリヤは考えた。
体は軽く、まるで疲れを感じないままに。闇に染まって蒼い森の中、白い婚礼衣装のマリヤは竜と踊るようにして歩む。
マリヤは自分の頭に除けられた面紗が鬣になったような気がした。広がる肩掛けは翼、長い裾は尾だ。面紗と同じように刺繍をした靴は、水晶の爪に。その夢想と共に、彼女は流れを緩めた時を飛び越えた。気づけば見知らぬ森は、見慣れた道に変わっている。
人形を手にしたマリヤは、灯りを漏らす長の家の前に立った。村を離れてまだ少ししか経っていないというのに酷く懐かしく感じられ、上がった息を宥め、滲んだ涙を指先で押さえ、彼女は扉を叩いた。
はい、との返事は、高い子供の声だった。軽い足音と共に出てきた幼女の目は丸く見開かれる。かつてのマリヤと同じ灰色の瞳は、現れた婚礼衣装の娘を映して月のようだった。
「……これを、返しに来たの」
なんと言ったものか、迷いながらマリヤは口を開いた。長の孫はマリヤの記憶にあるよりも大きくなって、呆けた顔をして、マリヤが抱える人形へと目を移す。
小さな手が差し出された人形に伸び――途中で止まる。マリヤが首を傾げると、子供は居直って背を伸ばした。しっかりと教育を受けた者の振舞いだった。
「これ、かみさまがもっていったのよ」
姿勢を正して言う子供に、マリヤはきょとんとしてから柔らかく笑んだ。幼子は息を呑んだ。宵闇の中に立つ花嫁は背筋が冷えるほどに美しく、人ではないもののように見えた。解れた金の髪が頬の横で揺れるのさえ、厳かだった。
「そう。でもお返しくださるのですって」
幼子はどきどきとしながら静かな声を聞き、長の孫という矜持を抱いた胸を張る。マリヤが恐ろしく美しくとも見覚えのある姿をしていたことが彼女を大きく助けた。
声を出そうとして幾度か仕損じ、それでもしっかりとマリヤを見上げて訊ねる。
「……いいの?」
勿論、と頷きが返った。幼子は手を伸ばし、今度こそしっかりと人形を掴み、腕に抱いた。持ち主の元に戻った人形の首で、白い花が咲いている。マリヤはどこか安心しながら空いた手を組んだ。
長の孫はそんな彼女をじっと見つめていた。風が吹き、また金の髪と面紗が揺れる。
「あなた、かみさま?」
長の孫は、マリヤに見覚えがあった。一年前、兄に嫁ぐかもしれないと聞いていたのに結局は神に嫁いだ、同じ村に住む女だ。
気立てがよく、誰にも優しく、子供たちの間でも慕われた女だった。しかし戸口に立つ女の気配はそのように優しい娘のものではなく――優しいが、恐れるに値する大きな存在であるように、膨れ上がっている。
子供の緊張も知らず、マリヤはすっと手を持ち上げた。身を強張らせ縮める子供の頭を優しく撫でて、いいえ、と首を振る。
「神様は私にくださると言ったのだけれど、私はもう大人だからね」
子供が話しているのを聞いて出てきた大人たちは、皆一様に息を呑んだ。
神に嫁いだ娘の後ろには、夫が居る。輝く竜は翼を広げてその場に君臨していた。神ではないが――それに等しく。星の光輝を纏い、気高く。その夜、村は他のどの地よりも明るくあった。
誰もが平伏した。神が現れ、神の嫁御が戻ったと巫女は声高に叫んだ。ニコとシュゾン――マリヤの両親は涙を流して、もう二度と見えぬと思っていた娘を抱き締めた。他家に嫁いだ娘にしてやるように。それよりも余程きつく。
竜は騒ぎの中、なんてことはないように数度瞬いて辺りを見渡し、マリヤを見遣った。
「マリヤよ、其方が暮らすには家が必要だな? 其方は作れるか?」
マリヤは涙に濡れた目を丸くして、声に出して笑ってしまった。十一の娘に家造りなど、到底無理に決まっている。それを真面目に訊くのがおかしかった。
「いいえ、私では、とても」
「ならば人の手を借りよう。己にも難しい」
時の流れさえ操る竜が、家を建てることをとても困難なことだと言う。マリヤはまた笑った。その身に余る強大な力と魂とは裏腹に、ただの娘のように、小鳥のように笑い続けた。