五
可愛い妹分を森にあげたくはない。そんな思いで、アガーヴェは迷子になった姪っ子を探して、暗い森の中を駆けまわった。いつも行くいい香りのする花の林も、面白い形の岩の所も、もう一度入念に探した。でも居なかった。近づいちゃならないと言われてた沼も、毒草のある藪も、思いつく限り全部見て回ったけれど見つかんなかった。どんなに呼んでも声一つ帰ってきやしない。他に探していた男衆もそんな感じで、夜はどんどん過ぎていく……
空の隅っこが明るくなってきて、アガーヴェは本当に困り果てて、大きな木の下に座り込んで泣き出した。可愛い姪っ子が精霊になってしまったらどうしよう、ってね。あんまり大声で泣くとロロゥが居たかと勘違いされるかも知れないって思いながらも涙は止まんなくて、声を押さえて泣いた。怖くて悔しくて、どうしてまだ見つからないのか憤って、もう滅茶苦茶になりそうだった。
そんなアガーヴェの前に、大っきな鳥が現れたのよ。木と同じぐらい大きな鳥よ。いつのまに現れたんだか知らないけど、気づいたら目の前に、鮮やかなサポーテみたいな色の嘴が突き出されてた。アガーヴェの驚いたことったらないわ。
その鳥は、暗い中できらきら翠に光る綺麗な羽を広げてた。その羽には目玉が沢山あった。そう、孔雀やね。それも火を喰ったり噴いたりするヤツで、近づくだけで汗が出るほど暑くなった。アガーヴェはすぐにそれが婆様が言ってた森の偉い奴やって分かった。つまり孔雀は、森の神みたいなもんだったの。シシウカトゥルーって呼んでたわ。
そのとんでもなく綺麗な鳥は、なんと人の言葉を喋る。そしてとても――長老なんかよりも頭がよさそうで、厳かな、かっこいい声でアガーヴェに言った。
「泣く娘、俺のものになるなら、お前の妹分を見つけられるようにしてやろう」ってね。
ものになるって言うのがどういうことかは正直よく分かっていなかったけど、守る家もなくってロロゥが大事だったアガーヴェは一も二も無く頷いた。だって、それしかなかったんやもの。それしか考えられなかった。
そう、それでアガーヴェは、シシウカトゥルーのものになった。昨日あなたが言ってたように、嫁になった。魔女になったのよ。
……アガーヴェはシシウカトゥルーと激しく踊った。体が火になってしまいそうなほど。一つになってしまうほどやって、そうするうちに翠色の、孔雀の羽と同じ綺麗な炎に包まれて生まれ変わってた。魔女にね。
そしたら、凄いのよ。森が全部、何処でも見えるようになった。サボテンの中で寝てる虫も、沼の底で泳いでる魚も、土の下深くにある水の流れも。――見つかってなかった可愛いロロゥも見えた。あの子は大木の洞を探検して毒蛇に噛まれて倒れてた。幸いにもまだ死んじゃいなくて、精霊にもなってなかったけど。アガーヴェはロロゥを抱えて泣きながら村に戻った。
村の皆も大喜びだったけど、次の日には皆気づいた。ロロゥは森にとられなかったけど、代わりにアガーヴェがとられたんだって。
アガーヴェはロロゥが無事と分かって落ち着いたとこで全部を父親に話した。森で孔雀と話したこと、踊ったこと、助けてもらったこと。父親はよしわかったと言って、アガーヴェに体を隅々まで洗うように言った。その後は一日がかり。大急ぎで用意した綺麗な服を着せて嫁入りの化粧をして、水を撒きながら自分の家から追い出した。……これもきっと知らないわね、別の家に嫁がせるために、家の者じゃなくしたってことよ。このときはアガーヴェが外に出ても追いかけて水を撒いた。村から追いだしてしまうように。
外に出たアガーヴェは、村人皆が見守る中、父親に言われたとおり森へと歩いた。そうして手前で這いつくばって頭を下げた。すると、待っていたかのように大きな大きな孔雀が現れた。辺りは一気に暑くなった。アガーヴェは汗で化粧が流れないか心配になった。ずっと俯いていたから、そうなっても誰にも見えないには違いなかったけど。
アガーヴェの父親が盃に満たした酒を捧げると、シシウカトゥルーはそれを軽く飲み干して、代わりに金の塊を吐き出した。そしてやっぱりかっこいい声で言ったのよ。
「お前の娘は俺の嫁。家を出て人里を出て森の者になったが、それでも繋がりは絶えるものではない。お前は俺の父となる。村の者は俺の仲間となる。お前たちが森に礼を忘れなければ、俺たちは夫婦でお前たちを守るだろう」
――こうしてアガーヴェは、シシウカトゥルーの嫁になって、末永く暮らしたってわけ。あの有名なイーズーナとの戦の、ほんの十数年前のことよ。
話が結ばれる。遅れて一心不乱に動かしていたあたしの手が追いついて、文を締める。
ほうと息を吐いて、ちょっと背を伸ばした。胸がいっぱいで、自然に前に出る。
「その孔雀が……シシウカトウ? が、アガーヴェの夫なんですね」
「そうよ。シシウカトゥルー」
繰り返される発音。書きなおす。綴りを確認すると女将さんが頷いた。
……これで揃った。アガーヴェは一つ特別な力を持ち、宝石のような目をして、土地を守る、不老長寿の魔物の妻。すごい、本当に揃った。
「アガーヴェはやっぱり、〝魔女〟だったのね……」
「そう、アガーヴェは魔女。神様か魔物を愛して、力を貰った女よ」
独り言の返事は、何だかとても重い言葉だった。
あたしは突如齎された情報の重要さにぼーっとしてしまって、アガーヴェの魔女になる前の姿に思いを馳せた。大事な女の子が居なくなって、どれほど不安で心細かったことだろう。それも一晩で、探すのをやめなきゃいけない。……どんなに不安だったかしら。そこに現れた魔物の姿は、どんなに優しいものだったかしら。どんなに、
「ねえ、どうして泣いてんの。何か悲しかった?」
女将さんが言う声に、あたしは驚いて頬と目に手を当てた。別に、濡れてない。あたしは泣いてなんかない。からかわれたのかと顔を上げると、女将さんは真面目な顔をしていた。何か違和感を感じるほど澄んできれいな黒目があたしを映している。
女将さんは置きっぱなしになっていたあたしの分のカップを押して、手の甲に押しつけてくる。ざらつく土のカップはまだうっすら温かかい。
「うちには涙が見える。――ほら、飲み。冷めちゃうよ」
言葉に詰まって、あたしは鉛筆を置いて、促されるまま冷めたショコラトルを混ぜて飲む。とろりと甘い。胸がすうっとして気持ちがいい。
今度こそ涙が出そうな気がして、ぐっと飲みこみ息を吸った。指先と鼻に土の気配が触れる。
「……おいしい」
女将さんはにこりと笑って、横に座りなおした。
「ちょっと思い出したんです。あたしが学者になったのは……アガーヴェと同じ理由なんです」
泣きそうな顔にでも見えたんだろうか。考えて、あたしは意識して笑顔を作って肩を竦めた。カップを両手で撫でまわしながら、話を聞いてもらうことにする。同情や慰めが欲しいわけじゃないけど――何故だろう。女将さんが思い出でも語るように魔女の話をしたからだろうか。すごく感情が込められた語りだった。あたしもはぐらかすのではなく応えるべきな気がした。
あたしは魔女じゃなくて学者になったけど、なった理由は、似たようなもの。
……最初は家の中で。途中から庭に出て、もう日が暮れかけていたっていうのに外に出て遊んでしまった。走り回って物陰に隠れて、気づいたらレイロは居なかった。それからずっと居ない。
「双子の兄が居て、七歳の時から行方不明で――アガーヴェの話を聞いたとき、アガーヴェなら見つけられるんじゃないかなって思ったのが、最初なの。それで憧れてた」
兄を見失ってしまった妹だったあたしが学校で女将アガーヴェの話を聞いた時、心に刻まれたのはその強さでも、苛烈さでもなく、恐ろしさでもなく――かつて国を窮地から救った力の、凄まじい魅力だった。あたしはアガーヴェに助けてほしかった。魔女に助けてほしかったのだ。アガーヴェはあたしにとっての金脈だった。暫く経ってからは、アガーヴェの伝説なんて作り話だって思った時期もあったけど。
でも師匠について学んで、アガーヴェが実在し、本当に力を持っていて、もしかしたらまだ生きているかもしれないという結論に辿りついた時、やっぱり期待をした。今更だけど。それでこんなとこまで来た節はある。それでこんな話を聞かされるなんて、なんだか運命とか、感じちゃう。
思わず、声を漏らして笑ってしまった。
「勿論、それだけじゃないですよ。途中で本当に興味が出てきて、調べ物とかはとても楽しかったし――」
ドンとテーブルが揺れた。俯いてカップの中のショコラトルを眺めていたあたしは顔を跳ね上げる。目の前を動いたのは何かと思えば、女将さんの前掛けだった。ドンとまた揺れる。女将さんがテーブルに手をついて飛び乗って、腰掛けたのだ。最初のは、手をついた時の揺れらしい。
体が大きい割には、揺れなかった、かも。びっくりして声も出ないうちに、女将さんはテーブルの上で胡坐なんか掻いて腕を組んでた。
「おかみさん?」
「まあ、聞き」
太い肢が見えてて、思わず見てしまう。正直ちょっとあれだ。貫禄はあるし肌はきれいだけど、おばさんになるとこうですと言わんばかりに太く弛んだ足が――引き締まっていくのは?
「うちは運命ってやつを信じてる。旦那様と会ってこんなことになったら信じるしかないからね。あなたと会ったのもそうやと思うわ。あなたがうちの話を聞いて、それで魔女じゃなくて学者さんなんかになってここに来て、ガルガルの奴らを追い返した日にその話をして、一緒に御馳走なんか食べて。全部、太陽と月と、星の意図に違いない」
あたしの視線が上がったのは、目のやり場に困ったからじゃない。女将さんの足が粘土を整えるみたいにすっと細くなって、服の上からでも分かった肉のついた丸い腹が引っ込んでいくのを見てしまったからだ。他の部分もぎゅうっと半分以下にしぼんで、引き締まって――
翠色の光が散り、火花になって昇った。じわっと汗が滲んだのはびっくりしたからだろうか。ショコラトルを飲んで暑くなったからかもしれない。心臓がドクドク言って、耳鳴りがする。
ガルガルってなんだっけ。……ああそうだ、イーズーナの兵のことだ。甲冑を打ち鳴らして進むのがそう聞こえるって、学校でやったっけ。
「久々に懐かしい話を聞いたもんやから気持ちが若返って。たしかに、魔女の話もちょっとは面白いかも知れん」
悪戯っぽく言う若々しい女の人の声。頭巾が放られて、しなやかな手があたしの手帳を摘み上げた。あたしの字を撫でて微笑むのは、短く切られた黒髪を晒して、焼けた赤い肌に二つ、輝く翡翠のような目を二つ嵌めた、美女。さっきのおばさんはどこにも居ない。いや、居るの?
夢だろうか。そうに違いない。こんなことあるわけがない。でも、ああ、
魔女だ。魔女が居る。子供の頃から願い続けていたものが。夢でだって見たことなんてなかったのに。来るのが遅い。見つけるのが遅すぎた。それともまだ間に合うんだろうか。アガーヴェと同じように。
アガーヴェがシシウカトゥルーに会ったとき、こんなだったんだろうか。体が固くなっちゃうほど、息もできなくなるほどの経験をしたんだろうか。苦しくて胸が痛い。
「おおい、女将さんよー、なんで鍵閉めちまうんだよぉ。閉じ込められちまってるじゃーないかい。開けとくれ、小便漏れちまうってえ!」
おじさんの声が小さく聞こえた。あたしを夢から覚ます為に叫んだみたいだった。でも覚めない。目の前の魔女は消えない。魔女はポケットに手を入れて、青い紐のついた鍵を出して、
「気のせいよ、開いてるわ!」
鍵穴じゃなくて目の前で捻って回し、あたしにウインクして笑ってみせた。そこに居たのは女将さんじゃなくて、伝説の女将アガーヴェだった。
「さあ、魔女が来たよ。泣く娘、うちのものには別にならんでもいいわ。兄ちゃんが何処に居るか、訊かなくてええの?」
窓から差し込んだ光が魔女を照らす。あたしは痺れた意識で泣きながら、おじさんが青い扉を開けて、階段を降りてくる物音を聞いていた。
Ⅳ 女将アガーヴェの伝説 了




