四
赤い扉の部屋は狭すぎず広すぎず清潔で、ベッドはさらさらで気持ち良かった。疲れてぐっすり昼まで、と思ったけど、意外なことに日が昇る頃には目が覚めた。寝なおそうかと思ったけど、時間が勿体無いのと、なんとなく気分がよかったので起きだすことにした。
着替えて手拭いを持ち、寝癖で広がった頭を押さえながら廊下に出る。今は少し涼しいけど、すぐにまた暑くなってくるだろう。町まで距離があるから、歩いてくならさっさと出たほうが楽かも。昨日みたいに通りすがりの誰かが助けてくれるとは思えないし――
階段を下りて便所に行こうとしたら、何かを蹴ってしまった。鍵だ。青い紐だからあたしの部屋じゃない。おじさんの部屋かな。もう起きたんだろうか。まさかな、けっこう酔ってたし……昨日女将さんが落としたのかも。
とりあえず拾い上げてポケットに入れ、用を足して外に出て井戸の所に向かうと、女将さんが水を汲んでるのが見えた。早いなぁ。
「おはようございますー。女将さん、鍵、落ちてましたけど」
「ああ、あんがと。それにしても早いわね。寝づらかった?」
差し出した鍵を受け取り、女将さんは水を汲んだ桶を地面に置いた。首を傾げて訊かれたので、慌てて否定した。
「いえ、なんか目が覚めちゃっただけで。ここはとってもいい宿ですよ」
「それは嬉しいね」
女将さんは水が入った桶をどうぞとあたしのほうに押した。ありがたく使わせてもらうことにして、顔を洗う。水は冷たくてなんだかしっとりとしてた。なんかいい水なのかも。
そうだ、風呂焚いてもらわないと。
「目覚めの一杯にショコラトルはいかが?」
口も濯いでしゃがんだまま顔を拭いていると、声が降ってきた。顔を上げるとにっと歯を見せた笑顔がある。白い、歯並びの良い歯。欠けたとこなんて一つもない。焼けて赤い肌に眩しい。つられてあたしも笑った。
「……別料金なんでしょ?」
「うちが飲みたくて作るからついでよ。おまけにしたる。……一人分作るんじゃなんか味気ない」
「じゃあ、頂きます」
というのは都合がいい気がしたが。
「うちは昔から好きやねん、ショコラトル。甘くするとまた美味い。作るのも上手いよ。昨日作っておいたのはサポーテの種も入れたし、今頃美味くなってるはずよ」
女将さんがにっこりと笑ったのでよかった。
学者の癖にケチるなと言われるかと思ったけど、どうやら女将さんは料理とか、そういうの自体が好きそうだ。昨日の豪勢な夕飯と言い、ついでに金をとってるって感じ。宿の仕事は天職なのかもしれない。
「上手なのは分かりますよ」
料理もとてもおいしかったので、と言いながら、ショコラトル代の代わりに水桶を運ぶことにした。だって井戸の横には、どこからかとってきた野菜と果物が詰まった布袋が置いてあって、一人で持つのは大変そうに見えたし。
ま、おじさんを軽く引きずった女将さんだから、どうか知らないけど。
「ねえ、姉ちゃん」
朝陽と風が気持ちいい。並んで歩く女将さんが何やら改まった様子で口を開いた。あたしは右を向いて、彼女の顔を見た。背の高い小太りのおばさんは何かたくらむように笑っていた。
何か言おうとした口が、ちょっと間を作る。なんですか、と促そうとしたとこで、機を見ていたように声が発せられる。
「魔女が……アガーヴェが魔女になった理由、あたし知ってるんやけど」
膝が濡れた。手が緩んで、桶が落ちそうになったのだった。あたしはぽかんとして立ち止まってしまった。え、え? なに、それ。
「伝わってるの?」
聞き返した自分の言葉はやけに冷静で軽いものだった。当然だ。よく考えられないまま口に出したんだから。女将さんはくくと喉を鳴らした。
「うちの村にはあった。聞く?」
「勿論! 是非とも! ちょっと待ってて、手帳、持ってきます」
冗談ではないらしい。もうとっくに起きてたと思った頭が一気に活性化して、体が熱くなる。走ろうとしたが桶が邪魔で、急ぎ足が精々で変な歩き方になる。まさに浮き立ってる。
「慌てんでいいよ。ショコラトル作って、朝飯の支度もするから、食事場で話そか」
そんな女将さんの声を背に聞いて、あたしは桶を食事場に置くと急いで階段を駆け上がった。扉を開けようとしてバンと大きな音が鳴る。慌てて鍵を探して開けた。階段も、扉も、ちぎるように漁った鞄も壊しそうだった。おじさんは寝てても起きたかも知れない。それはどうでもいいや!
息を切らして戻ったあたしとは真逆に、女将さんは昨日とは違うゆったりと寛いだ様子で竈の前に椅子を置いていた。鍋に沸いたお湯に箱から取り出したショコラトルの玉を砕いて入れ、ヴァニラと赤辛子を一つまみ足してスプーンで掻き回し始める。既に甘い匂いが広がっている。
あたしは昨日たっぷりの食事をしたテーブルについて、手帳の新しい頁を開く。セタエンヤナの宿の主、女、年齢は――後で聞こう。鉛筆の字は力が入りすぎていつもより濃い。
「さあ、いい? 書くのね? ゆっくり言ったるから深呼吸して落ち着いて聞きなさい」
書く手が止まったのを見て、女将さんが言った。あたしは頷き、息を吸って、吐く。炒ってすり潰されたカカオ豆と香辛料が合わさった独特の匂いは意識をすっきりさせた。甘く刺激的。これからされる話も、きっとそうだろう。
胸が高鳴ってる。こんなにドキドキするの、久しぶり。
「アガーヴェは、探し物をしてたんやって」
女将さんが話し始める。記録に間違いがあっちゃいけない。あたしは今一度軽く息を吐きだしてから、声と共に鉛筆を動かした。
アガーヴェは十七の娘。綺麗で豊かな森に囲まれた村に住んでた。家事なんかはそこそこできたし顔は悪くなかったけど、男勝りで気が強くて、落ち着きがないものだから嫁の貰い手がつかないでいた。その頃はまだ、そんな普通の女だった。
ある暑い日、森に果物を取りに行ったアガーヴェが帰ってくると、子供たちが何やら騒いでた。何かと思って話を聞くと、森で遊んでいたら女の子が一人、居なくなったってことだった。アガーヴェの姪っ子、妹みたいな女の子やった。名前はロロゥ。アガーヴェに似てしまって、落ち着きがなくって悪戯好きのお転婆娘だった。
ほんとは子供だけで森の奥に入っちゃならないんやけど、まあ子供だからね。特にロロゥは向こう見ずだから、何か面白そうなものでも見つけて一人で奥に行ってしまったんだろう。そう思ったアガーヴェは説教もそこそこに森に入っていった。そんときはまだ、家族――ロロゥの父にあたる兄さんだとか、他の大人たちに声はかけなかった。自分に似てしまっただけに、こういうことには覚えがあるからね。怒られちゃかわいそうだって思った。だからまず一人で探し始めた。
――競争は途中でかくれんぼに変わって、庭の木の陰に、家の外壁に身を潜めた。回ってはしゃぎ、走り息を弾ませながら。二人で遊び続けた。姿が見えなくなっても遊んでるつもりで――
「……ミルクは要る?」
ミルクは、と書きかけて手が止まった。
「あ――はい」
ショコラトルの鍋に、壷からミルクが注がれる。蜂蜜もたっぷり落とされて温められ、なんだか食事にさえなりそうながっつりした飲み物が出来上がる。
開けられた窓から流れる林の匂いがするだろう風は、途中で全部ショコラトルに染まってしまう。
「ありがとう」
女将さんが先にあたしの分のカップを置いた。どうせ熱々のそれはすぐには飲めないので、お礼を言って引き寄せるだけで女将さんの話の続きを待つ。
「……さ、それでアガーヴェは姪っ子を探し始めたんだけど――」
味見のようにショコラトルを一口飲んだ女将さんは満足そうな顔で話を再開した。女将さんは楽しそうに、軽快に語る。
あたしは聞き入った。魔女の話だからというのは当然だけど、昔を思い出さずには居られなかったから。どうしてもこの話の続きが知りたかった。
大事だって気づいたのはその随分後さ。子供の足で行ける場所なんて限られてるはずだし、ロロゥの好きそうなものは大体分かってるっていうのに見つかんない。段々日も傾いて暗くなってきたっていうのに、辺りは鳥や虫の声しかしなくて――擦れ違ったんだろうかって思って一度村に帰ったけど、ロロゥは帰っていなかった。さすがのアガーヴェも慌てて、家族皆に知らせて周った。
とうとう村の大人たちが皆揃って探し始めた。女たちは家に居ろってことだったけど、アガーヴェは居てもたっても居られなくなって家を飛び出した。旦那様も居なくて自分で守る家は無いし、そういう性分だったわけ。
ところでね、アガーヴェはどうしても夜が明ける前にロロゥを見つけなならんかった。勿論、普通に心配だったからってのもあるんやけど、その頃集落には怖い決まりごとがあった。
誰かが森で居らんくなって、一晩探しても見つかんなかったら、森の偉いのが持ってったんだってこと。だからそうなったら、人はもう探してはならない。
「えっ……」
「聞いたことない? 昔は、森と一緒に生きる人たちの中じゃそういうことになってた。自分の足で帰ってこれたらいいけど、そうじゃなかったら精霊になったん言うてね。今はちょっと違うみたいやけど」
思わず手を止めてしまったあたしに、女将さんは話を中断して肩を竦める。
「……それは、すごく焦ったでしょうね」
「さあ、どうだろ。元々心配で焦ってるから、違いはなかったんじゃないかしら」
続きを話すよ、と女将さんが言ったのにあたしは頷いた。
「可愛い、可愛いロロゥ――」




