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魔女語り  作者: 灰撒しずる
Ⅲ アルニは死んだ
22/29

 絶えない雨音の中。執務机に身を置いたジャンタームは、近づいてくる足音に顔を上げた。上げたままになっている簾の奥に、着崩さぬ正装のロウムトが立っている。

 ジャンタームは笑みを口元に、書きかけの折り書を横へと除けた。歩み寄るロウムトは机の正面に立ち、胸の前で袖を合わせて見せる。薄暗い部屋の中で、彼の装束の黄色が明るい。

「ローソウで盗賊が出たとの報せが入った。ジャエノンには海賊が。……ローソウには控えている二番衆が行った。俺はジャエノンに向かおうと思うが」

「――直々に行かれるので?」

 武将官の言葉に、ジャンタームは一度眉を寄せてから問うた。

 秀麗な顔に皺を作ったのは盗賊や海賊の存在であり、ロウムトの発言ではない。武将官直々の討伐も、ロウムトが行くと言うのならばジャンタームに留める気は起こらなかった。港も昨年からあまりよい状態ではないが、よい状態でない故に武将官のような存在が居れば心強いだろうと分かっていた。友人の身を案じはするが――州政の為に多少の危険に身を置くことを厭ってはならない、ガムイの為になることこそ、何よりも互いの為と、少し前に二人で言葉を交わした後だった。

 確認でしかない問いに、ロウムトははっきりと頷いた。

「久々の襲撃に皆窮して居ると言う。行って士気を上げ、ついでに首も上げてやらねばなるまい。……この雨の中でも宮人はしっかり働いていると、下の者に見せる機会にもなろう」

「左様ですか」

 豪気な言葉は笑顔と共に。ジャンタームもまた努めて口角を上げ、机に手をついて立ち上がる。布靴を履いた足が静かに床を踏んで、しっかりと底の厚い靴を履く男の足の横で止まった。

「……どうかご武運を」

 袖を合わせて頭を垂れる、その動作を見て、相変わらずだとロウムトは眉を下げた。淡い色の頭が瑞鳥紋の縫われた青い帽子を被るようになって暫く経つが、ジャンタームの態度は改まることがない。部下が揃う時や州民の前を除いては、相変わらず、平民と貴族の差を気にして遜っている。

「居ぬ間に、お前が宮と共に沈んでしまわぬか心配だ」

「そのようなこと。昔話のようにはなりませぬよ。天意がどうあろうと、ガムイを沈めたりは致しません」

 肩に触れるロウムトの手に、ジャンタームは己の手を重ねた。聞こえる雨の音に目を閉じ、ふ、と一つ息を吐く。笑ったようだった。

「我らが宮は高台にあるのです。案じることは何ひとつ。ロウムト殿こそ、港ではお気をつけを」

「……留守は任せた」

 まるで夫婦のような言葉の掛け合い、とおかしく思いながら、ジャンタームは仕事に赴く武将官を見送った。彼の姿がまったく見えなくなり、足音も聞こえなくなったところで、書きかけの書もそのまま部屋の奥を目指す。

 寝台の横の幕を取り払うと、簾ではなくしっかりとした真四角の扉が現れる。鍵を外して木と金属で作られた重い隠し扉を押し開け、すぐに鍵をかけなおす。そうして暗いままの階段を下りたジャンタームは、もう一枚の扉の前に立つと力一杯に閂を引き抜いた。

 執務室から厳重に隔てられるそこは、古くは州候が愛妾を囲った部屋だという。先々代の気に入りでなければ、ジャンタームなどが知ることもなかっただろう。

 扉を開けて、ジャンタームは微笑んだ。

「ご機嫌はいかがですか、アルニラット様」

 そこにかつての姫巫女は居た。


 目覚めると部屋は暗く、微睡むアルニラットは再び目を閉じたが、あまりに静かなことに気づいてまた目を開けることにした。

 雨の音が聞こえない。上がったのかとも思ったが、それにしても人や鳥の声も聞こえないのは不自然だった。

 起き上がり闇に目を慣らしたアルニラットは、身を置いているのが自分の寝所ではないことに気づいた。

 天蓋のついた柔らかな寝台。黒丹の漆、金銀の箔で飾られた壁。甘い香の匂い。恐々と確かめた部屋は彼女の寝所と同じだけの広さを持ち、贅沢な装いではあった。しかし見知らぬ部屋だ。窓はなく、外の様子は知れない。音もまるで聞こえないことを考えると、普通の部屋でないことは確かだった。空気は何処かから通っているようだが――アルニラットは王族の墓室を思い出してぞっとした。

 己の身の丈よりも小さな扉を見つけ、アルニラットは足早に歩み寄った。押しても引いても、開かないどころかびくともしない。ドンと、柔らかな手で叩いて、その重い感覚に扉が非常に厚いことを知る。

「なに……」

 何なの、とアルニラットは呟いた。理解のできないことに怖気がした。もう一つ扉を見つけて手をかけると今度は簡単に開いたが、先には便器と洗い桶があるだけだった。薄く鼻を突く饐えた臭いに、アルニラットは身震いして乱暴に扉を閉めた。

 よくよく部屋を見渡せば、そこには食事も、水も、着替えさえもあった。象牙の卓の上に置かれた蓋を開ければ乾した果物や、塩漬け、砂糖漬けの類――どれも日持ちのするものだという想像が、アルニラットの顔を蒼褪めさせた――がたっぷりと用意されている。脇に置かれた水瓶は澄んだ水で満ち、その横には清潔な布も積まれている。そして先程まで横たわっていた寝台には、丁寧に畳まれた着慣れた衣服が一式、今着ているものと同じ寝間着が一枚、置かれていた。

 そうして探せば、油と共に火を灯す魔石も見つかった。シーマでは採れない高価なものだ。このような場で灯りを点けるのに使うというのは、王族でも考えないことだった。火を扱えない貴族の女の為に用意したようだった。小さな緑色の宝石を摘まみ、油の中に落とし入れると途端、火が上がる。

 どうにか灯りを手に入れた州候女は、やっと明るくなった部屋を改めて見まわした。できる確認は全てしてしまったようだった。部屋は彼女の寝所と同じく広く豪奢で、食事も水も、数日暮らせるだけの設備は十分にある。そして扉は重く、開かない。

 アルニラットは見知らぬ部屋に軟禁されていた。

「誰か……誰かいないの。私をどうしようと言うの!」

 思わず震える声を上げたが、誰がこんなことを、とは思わなかった。思い当たる者が一人だけ居た。まさか、という懐疑と共にではあるが。

 王への反逆――というよりも王の支配を口にした、たった三日後の出来事だ。それを打ち明けた相手を疑うのが順当だった。誰かに聞き耳を立てられていたのでなければ、一人しか居ない。

 アルニラットは蒼白な顔で水瓶を覗いた。水面には確かに、並ならぬ金の輝きが二つ映っていた。彼女の力は失われてはいない。だというのに、現状は彼女にとってまったく納得のできないものだ。

 ガタンと硬い音を聞いて、アルニラットは身を竦めた。重い扉が開くのを息を呑んで見た。灯りで照らしたそこには、彼女のよく知る、月の如き美しい男が立っていた。


 そして今日も。誰か引き連れて来ることもなく、ジャンタームは必ず一人でその部屋へと訪れる。大抵は日に一度。時に何日か空くこともあるが、その時彼は必ず詫びを口にした。それが彼女が時の経過を知る術だった。もう数えるのも止めてしまったけれど。

 部屋に入るたびにアルニラットと目を合わせているにも関わらず、彼女の思い通りに動かない男は今、櫛を手にして美しい栗毛を梳いている。

 彼が初めて此処を訪れたときに言ったことを、アルニラットはぼうと思い出す。「誰の命でやっているのか、誰に突きだす気なのか」との問いに、ジャンタームは本当に不思議そうな顔をして彼女を見た。そうして毎朝、州候の一日の予定を確認していたときのように滞りのない口調で言ったのだ。

「すべて私の考えることでございます。アルニラット様、貴女は此処で穏やかに暮らしていてよいのですよ。此処に居てくだされば、誰も貴女を害したり、悪し様に言うことはできませんから」

 そのときのアルニラットの恐怖と言えば、筆舌に尽くしがたい。ジャンタームの表情は、とても偽りや、言い訳を口にしているようには見えなかった。それまでと変わらず、ジャンタームはじっとアルニラットを見ていた。

「貴女は行方不明になったと王宮に申し立てをしておきました。探されてはおりますが、此処までは手が伸びないでしょう。此処は歴々の州候だけが知る隠し部屋です。音も何も、外には漏れません」

「ご心配なさらないでください。貴女の愛しているガムイも、民も、きっと救ってみせます。貴女様の為なら、私はやり遂げられる。貴女もそれを望んでらっしゃるでしょう?」

「王は私めを州候に任じてくださいました。私はこれまで以上に、ガムイの為、シーマの為に働くことができるのです」

「貴女様はご不安なのです。ご自身の力が弱いから、だからお嘆きになる。でしたらそのような力、使わなくてもよいのです。貴女が悲しまれるぐらいなら。アルニ様がお生まれになる前からガムイはありましたし、州候様も居りました。巫女が居なくとも、人はこの地を治めていたのです。昔に出来て、今出来ぬことなどありましょうか」

「アルニラット様……姫巫女様、州候様、私はこの命ある限り、貴女にお仕え致します。貴女は此処で、心穏やかに暮らしてくださればいいのです。誰も近づけさせはしません。ロウムト殿も新しい政務官も、皆私の言うことをよく聞いてくださいます。ガムイは相変わらず素晴らしい場所なのです。安心してくださいませ」

 部屋に訪れる度にジャンタームがはきはきと語る様は、アルニラットには譬えようも無く空恐ろしく思えた。すべてアルニラットの為と結びつけ笑う男は異形のもののようにも感じられる。そして、笑顔であるのに、憤怒しているようにも悲嘆しているようにも見えるのだ。

「今日も王宮から使者がいらしておりました。王もガムイのことは気にかけてくださっていると……」

 また、ジャンタームは柔らかに優しい声を舌に載せた。アルニラットは黙ってそれを聞いた。長い睫毛は幾度か震えた。

 アルニラットがガムイを捨てると宣言した三日後。ジャンタームは、薬商の両親から教わっていた薬を使ってアルニラットを常よりも深い眠りに落とし込んだ。そうして彼女の身を暗い地下の部屋に閉じ込めた後、州候女失踪を訴え――それまでの振る舞いから誰にも疑われることなく、十四日後には王命により空いた州候の座に就いた。常なら問題視される血筋も、ガムイがこのような有り様とあっては不問とされた。

 それからというもの、彼は政務官であったとき以上によく働いた。州候の椅子を望んでいたわけではないが、州の繁栄は彼の望みの一部でもあった。そうして、もう二月が過ぎようとしている。

 ジャンタームはゆっくりと丁寧に髪を梳り、結い纏めて決まった位置に飾りを通す。金を散りばめた鮮やかな空色の紐飾りは年始の物だ。それでアルニラットは、もうすぐ年が明けるのだと知った。

 彼女は緩慢に顔を上げ、化粧を施す為に筆を取り顔を覗き込むジャンタームを見た。確かに見た。だが男は在りし日のように微笑むだけで、アルニラットの為に扉を開けたりはしない。部屋の閂を緩めることはない。

「お綺麗ですよ。本当に、貴女はあの日から変わらずお美しい」

 ジャンタームの目は、精神は、魂は。巫女が継がれた日、アルニラットを見たあの時に、とうに眩んでいるのだ。他のものなど見えはしないほどに。そう、限りある燃料で燃え続けた火のように徐々に弱まりつつ今のアルニラットの光は、ジャンタームには弱い。ジャンタームは過去のアルニラットに魅了され続けている。その上で動いている。

 ジャンタームは死ぬまでこうして仕えると何度も言うが、老いぬ魔女の身がどれほど長く生きるものか、アルニラットにはよく分からない。アルニと同じとするならば三百年。これから軽く二百年はある。その前にジャンタームが死ぬだろうが――央国(おうこく)の民は長寿で有名だ。不慮の事故でもなければ、今まで病の一つもしたことのないジャンタームは百歳を過ぎても生きていることだろう。

 この関係は長続きしてしまうと、アルニラットは予感していた。

「アルニは私を呪ったのかしら……?」

「何を仰います。アルニ様もアルニラット様と同じように、お優しい方でしたよ。呪いなどと、そんなことは」

 アルニラットが巫女アルニの力をそのままに受け継いでいたならば。彼女がこのような場所に身を置くことにはならかっただろう。ガムイの為に、と言葉のとおりに晴れの巫女になったのならば、魔女の身は不老を齎したし、雨雲は唄に応じて退いただろう。アルニラットの望みは叶い、ガムイも水難から守られ、全てが円満に済んだに違いない。しかし彼女は己の為にと強く望んでしまった。故に――

 故に、だからこそ、アルニはその望みを叶えた。

 力の受け渡しが行われた時、アルニもまた、アルニラット同様に自己を優先していた。自らの死を周囲に告げ、まだ巫女を要するならば、と継承を提案しておきながら――彼女は言ったすぐ後には惜しくなっていたのだ。

 雨を退ける神通力は、アルニにとっては夫から与えられた大切な至宝であり、愛された証でもあった。それを誰か他の女に譲り渡すということに、彼女は我慢ならなくなってしまった。有体に言うのであれば、独占欲、嫉妬だった。しかし長らく巫女で居た彼女は、周囲の期待に沿わず落胆されることも恐れた。魔女と巫女、二つの間で板挟みになっていた。

 そこにアルニラットが現れてしまった(、、、、)。同じ名を持つ娘たちは運命的に出会った。アルニはアルニラットが自分の宝物を欲しているのではないことを見抜き、そこに問題の解決策を見出した。彼女は夫からの贈り物を守りながら、人々に愛される巫女のまま死ぬ術を見つけたのだ。即ち、力の譲渡の誤魔化し。

 とはいえ、アルニもアルニラットを陥れたわけではない。アルニは共に一年を過ごした彼女に対し、たしかな友情を感じていた。だから友人として、友人の為を思って、望みを叶えてやろうとも考えていたのだ。幼気な好意、純粋な愛、呪いではなく祝福だった。

「……そうね。アルニはあんなに、私の幸せを願っていたわ……」

 魔女の力の鋳型は願望だ。魔女が望んだならば力はそのようになる。新たな女が望んだからこそ、雲に働きかける力は美しい呪いへと姿を変えた。アルニは、アルニラットの後押しをしたに過ぎない。

 アルニラットの望みがどこかで変わっていたならば、建前と本音が反転することがあったならば、結果は変わっていただろう。しかし、そうはならなかった。

 アルニラットは己の掌に視線を落とし、昔に見た少女の微笑みを思い出した。夫の愛を感じ、友に見送られて逝く、あまりにも幸福そうな死に顔を。

 ――アルニは死んだ。では、アルニラット(わたくし)は?

 未だ死より遠い姫巫女はゆるりと部屋を見渡した。ただ一筋の光も差し込んではいない、薄暗い部屋。明るいものと言えば彼女自身の双眸と、それを受ける一人の従者くらいのものだった。

 じっと、魔女の目を凝らして外を覗いたところで、見えるのは雨雲ばかり。アルニラットは唇を開いて、唄を紡ぎはじめた。

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