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魔女語り  作者: 灰撒しずる
Ⅲ アルニは死んだ
21/29

 雨は絶えず、地や屋根を打ち鳴らしている。

 アルニラットは既に気圧され気味の男を見つめて微笑んだ。それだけで、何やら不満を言っていた彼は口を動かすのを止めてしまった。

 ゆっくりと椅子から立ち上がったアルニラットは、抜け殻のようになっている彼へと歩み寄る。衣擦れがさらさらと響いて外の雨音と合わさり、微かな香の匂いが振りまかれる。

「雨はきっと、そのうち止みますわ……」

 耳元で囁く声は、男の耳にこの上なく甘く響いた。頷く以外のことはできないどころか思いつきもしなかった。

「仰る通りでございます、州候様」

 男は尤もだと言う顔で深く頷き、促されるままに立ち上がった。はきはきとした言動で禿げた頭を下げて立ち去る。アルニラットが手を動かしたので、彼女の背後、護衛に立っていた武官が見送りについた。

 男は、すぐ近くの町の長だった。

 アルニラットは溜息を吐いて椅子に座り直し、冷めた茶を口に含んだ。染み皺のない美貌が軽く顰められる。彼女の機嫌は、実の所あまり良くはない。

 ――一度は止んだ雨が、二日経ってまた降り始めた。その日は一日で終わったが、三日後にまた降り始めた。次は一日だけ置いて……

 そのようにして、ガムイで雨の日が増えていた。それも例年に比べてという生温い話ではなく、誰もが分かるほどに急激に。近頃では晴れのほうが珍しい。雨季と呼ばれる季節は、とうに過ぎているというのに。

 この雨の降り方はどこから見てもよいことがなかった。田畑にも井戸にも水は十分に行き渡っており、既に過剰となっている。作物の種類によっては腐れてしまうという話も出始めていた。他にも、不安、不満の声は方々から聞こえてくる。

 それを宥め、雨を退けて見せることこそ巫女の務めなのだが――アルニラットにはそれができない。

「一体どうしたと言うの。今までは大丈夫だったというのに」

 アルニラットは苛立ちを隠さず、床に突き刺すように小さな声を発した。

 彼女が自身に晴れの巫女としての力が無いと気づいたのは、巫女を継いでから一月後の雨の日だった。試しに雨雲を操ってみようとした彼女は、アルニに倣って歌を口ずさんでみたが――結果は伴わなかったのだ。雨は降り続けて、夜が明けてから普通に止んだ。

 老いることなく永遠に美しく。その願いがあまりに強くあった、ありすぎた為か。彼女は巫女の力を変質させていたのだ。勿論アルニラットは焦ったが、時は既に遅く、それでどうにかなるようなものではない。彼女は確かに巫女の力を継いだように振る舞うしかなかった。力は継いだものである為に先代に劣る……と、己の無力を誤魔化しながら。

 幸いにも、二十年間、ガムイの天は騒ぐほどのこともなく平和にあった。天の動きが昔とは変わったのだろうとアルニラットは思った。それで巫女の力を使わずとも――使えずとも、彼女は巫女として振る舞うことができていた。今までは多少強い雨が降っても、日が経てばちゃんと止んで晴れていた。アルニラットが少し唄を唄ってみれば、遅れて止んだように見えていた。

 しかし今回は、誤魔化し言い訳をするにしても限界のようだった。何せ降る量と時間が今までと違いすぎる。

 とうとう州候の宮を訪れて物を申すようになった彼らに、アルニラットは迷わず門を開けさせた。そうして民が訪れる度に自らの部屋に招き入れ、言葉を交わして帰した。言い聞かせたのだ。先程のように、魔女の双眸で見つめて。

 それが彼女が、天に働きかける力の代わりに授かった魔女としての力だった。美貌と共にある魅了、洗脳に等しいその力から逃れられる者はない。顔さえ合わせればすべて思いのままになると彼女自身がよく知っていた。一度見つめてやれば暫くは離れても自分の不都合なことはされないこと、ただし効果がずっと続くわけではなく、それを望むならば定期的に相手と眼を合わせなければならないことも。力の使い方はとうに心得ているのだ。

 宮の者は皆そうして彼女の忠実な従者になっている。政務官ジャンタームも、武将官ロウムトも、下々の者に至るまで。敷地の中、彼女の敵は名実共に誰一人居ないのだ。

 外の者にしてもそれは変わらず、宮に入ってアルニラットに直接会ってしまえば、アルニラットの言葉に頷く人形が出来るだけだった。

 宮に晴れの交渉をしに来た者は、アルニラットが何を言おうとも誰もが納得した顔で去った。そしてその後束の間晴れるので、町村では巫女は確かに助けて下さったのだという話になっている。

 しかし近頃では、そうして晴れてもほとんど日を開けずに再び雨が降り始める。

 アルニラットは騒々しい外を見るのに、閉じきった窓を見つめた。一瞬、濁った空とそこから注ぐ多量の水が彼女の視界に映る。数日先も変わらないだろうことも知れ、アルニラットは溜息を吐いた。

 申し立ての後もなお雨が上がらないことも増え、巫女への不審は広がり続けている。アルニラットが晴れの巫女で居続けるにはそろそろ限界が来ようとしていた。

 今のガムイは終末の様相を呈していた。昼も夜も無いほど暗く、いつ何をするにも灯りが必要な有り様。雨音は煩わしく耳を打ち、湿気は何処にも満ち。幕を成すほどの豪雨は川幅を倍にも広げ、土を流し、木の根を洗っている。

 誰もが老爺や話屋たちの昔語りを、墨で描かれた古の風景を、史書に記される水難の時代を、思い起こさずには居られなかった。

「失礼致します、州候様」

 面会が終わったと見たジャンタームが何かの書状を持って現れると、アルニラットは悲痛な面持ちを彼へと向けた。ほうと溜息を吐き、眉を寄せる。

「私の力が足りぬばかりに、州民には苦労をさせて……情けないこと」

 黄金の瞳は憂いを帯び、呟きは嘆き深く。

 そうしてアルニラットが表情を曇らせて見せれば、ジャンタームも悲痛な顔をして首を振った。

「アルニラット様が気負うことはございません。仕方がないのです。貴女が務めを疎かにしているのではないのですから――どうか、そのようなことは仰らず」

 アルニラットの前に跪き、彼は言う。アルニラットと違って演技ではない暗い顔はそれでも秀麗だった。濡れた緑の瞳は雨滴に打たれ萎れる草葉のようだ。

 こんな顔をさせても美しい男だと、アルニラットは思う。昔から気に入りの容姿だった。魅了の力にどっぷりと浸っていて、まるで反抗しないところも気分がよい。手を伸ばし、アルニラットはジャンタームの額に触れた。温かさが指から伝う。

「貴方はいつでも私の味方ね」

「勿論でございます。私の身と魂は、すべてアルニラット様と、このガムイの為にあるのです」

 返される微笑み。傀儡の男の目は直向きにアルニラットに注がれていた。

 目を背けるようにアルニラットが卓上を見遣ると、ジャンタームが持ってきた書状が置かれている。極彩色の巨鳥が描かれるそれは、王宮から州候――巫女アルニラットに送られてきた物だ。

 最早限界かと、アルニラットは金の目を伏せた。この頃の雨について州を救うだけの力がないと見れば、王はアルニラットから巫女の位を剥奪するかもしれない。実情を見れば仕方がないことではあると、当のアルニラットがよく分かっていた。それでも、許容はし難い。

 彼女は位には執着していないが、巫女でなくなるということは、魔女だと宣告されるに等しい。そんなものに身を貶めるのは彼女にとって耐え難いことだった。

 アルニラットは亡き巫女の骸を思い出して身震いする。逃れる術を考えて、紙上を羽ばたく鳥をじっと睨みつけた。百の鳥が尾を食みあって身を成すと云う伝説の鳥、多くの州で国を成すシーマを表すものだ。

 その鮮やかな紋様を見つめるうちに、彼女は一つ、名案を閃いた。


「王宮に行こうと思うの」

 そしてその夜、雨音が埋める長い沈黙の末、意を決したアルニラットは口を開いた。思い付きを口にしたのではなく、よくよく考え実行可能であると見越してのことだ。それを、彼女は一人に打ち明けてやろうと思った。

 官服を脱ぎアルニラットと同じような薄着になっているジャンタームは、黙って言葉の続きを待っている。緩く結ばれたその口元が己の考えを否定することは(つい)まで無いだろうと考えたアルニラットは、これから王宮の者もそうなるのだと夢想して酷く愉快な気持ちになった。

 州候の寝所、揺れる灯りは昼と同じように座り、跪く二人を照らしている。卓の上には甘い酒で濡れた玻璃杯が二つ残されている。その残り香を漂わせる息を吐き、アルニラットは天女の如き笑みを携えた。

「私が后になって、あの老爺を動かすのです。どうですジャンターム、貴方は賛成してくれますね」

 次は王を、お前のように魅了してやろう。そんな企みを口にする。

 降る言葉に驚いたジャンタームの目が軽く見開かれる。アルニラットの金色を映して、緑色の目は美しい宝石か何かのような色合いを見せていた。

 ふふ、と薄紅の唇から堪えきれなかった笑声が漏れる。

「ガムイはもう駄目ですもの。私はもう州候には疲れてしまった。ですから、」

「アルニラット様」

 囁く言葉を呼び声で遮り、ジャンタームはアルニラットの手をとった。床についていていくらか冷えた指で肌理の細かい甲を撫で、握りしめて口づけを落とす。唇は軽く触れるだけしてすぐに離れた。

「私はいつ何時も、貴女のことを思っております。貴女の味方なのです。――貴女は一切の労苦から解き放たれるべきなのです。三日ほど時間をください。今宵はごゆっくり、おやすみくださいませ」

 雨に掻き消されそうなほど静かに、政務官の声が言い含める。無駄なく気分を良くさせる言葉選びにアルニラットは感心した。

 ガムイから王宮までは十日ほどかかる。それだけの期間州を空けることを考えれば――もっとも、アルニラットにはもう戻る気もないが――日付の選定に三日はむしろ短い期間だ。旅支度にも十日はかかるだろうが、あと半月ほどは王宮にも誤魔化しが効くだろうと、アルニラットは踏んだ。

「貴方は本当に、素晴らしい従者だわ」

 後はすべて、気に入りの優秀な男に任せればよいのだ。

 賛辞に微笑むジャンタームと常のように暫しじゃれ合い、アルニラットは寝台へと身を横たえた。天女の如き主を受け止める敷布は一切の解れなく、闇の中でも白かった。

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