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魔女語り  作者: 灰撒しずる
Ⅲ アルニは死んだ
20/29

 アルニラットは部屋に籠って、生前のアルニがそうしていたように神への歌を歌っている。四日に一度の決めごとだった。澄んだ声は微かながら隣室まで届き、ぱらぱらと鳴る雨滴の音を覆っている。

 雨が降り出したのは、港町へと視察に行っていたアルニラットたちが宮に戻ってきた矢先だった。

 二十七日ぶりの雨は、今のところ四日続いている。昼も夜も、弱まることはあれど絶えず。人々も、朝起きてはまだ雨かと考え始める頃だった。

 この時期の雨は珍しい。三日以上降り続けたのは、天文記録によれば実に五十四年ぶりだった。

「巫女様がいらっしゃるのですよ」

 長く州候に仕える天文士の老爺からそれを聞いた政務官は、表情を変えずにそう返した。巫女の立身から長い時が立ち、大半が水災を忘れ過去の話としているが――長雨を懸念する声が完全に消えたわけではない。雨が減っても、ガムイの土地は水に流されやすい性質を変えてはいない。徒らにその不安を煽ることは政務官として避けたかった。何より当の天文士が予想を外したこともあって暗い面持ちとなっていたので、あえて素っ気なく返した。

 仕事が一段落して肩から力を抜いたジャンタームは、静まり返った己の部屋で耳を澄ました。奥の間から、まだアルニラットの声が聞こえてくる。

 小一時間も続く清らな歌声に、彼は魂が透き通るような心地で居た。雨音はまだ続いているが、アルニラットの考えることは察しがついていたので深くは考えなかった。巫女は全ての雨を追い払うわけではないと、彼は昔から知っているのだ。

 風がないからと開けられた窓の外で花櫚の樹が濡れそぼっている。もうすぐ花の時期で、蕾も見て取れた。

 その下――前庭に、目覚めるように明るい色の布をかけられた牛牽きの車が見えて、ジャンタームは立ち上がった。廊下に出た彼の背に四人の文官が付き従う。

 車の周囲を進む、武具を携えた武官たちの装束は車の飾りと同じ花のような黄。急ぎ表に出たジャンタームの目は、その新米の武官たちの中からすぐに一人を見つけ出した。

 難はなかった。その一人だけが銀糸で刺繍された外衣を羽織り、揃いで作られた官帽を被っている。隣の山村へ獣狩りに赴いていた武将官ロウムトは宮から出てきた文官たちを見、一度立ち止まった。周囲の武官たちと車も止まる。

「無事のお帰りなによりです、武将官殿」

「出迎えご苦労、政務官殿。万事恙無く片付けて参った」

 袖を合わせ一礼するジャンタームに対し、ロウムトは手短に述べて、もうよい、さあ休め、と部下たちに声をかけた。そうして己も急ぎ屋内へと歩を進める。文官と武官の間で多くの言伝が行き交う中、彼は軽く濡れるだけのジャンタームの背を押した。脱いだ帽子の紅い房飾りは絞れるほど濡れて色を濃くしている。

「思ったよりも多くてな、いくらか労した。――山も見て回ってきたが、枯れた様子はなかったぞ。大方去年が豊か過ぎて、数が増えたのだろう」

「お疲れ様でした。これで民も安心でしょう」

 土産話に似た報告は後で墨で記されることになるため、特異なことがなければ世間話と同じように聞き流すことができるものだ。ジャンタームは頷き一言述べるだけして、淡い笑みを端正な顔に載せ、いくらか疲れた様子の見えるロウムトを見上げていれば良かった。霧のように細かく肌を湿らせる雨を感じながら。

 その雨から逃げて扉を潜ったところで、二人の鼻に香の匂いが触れる。伽羅(クリト)。移り香と呼ぶには些か濃い、存在感のある香りだった。ジャンタームはほとんど無意識のうちに、両の手、袖を胸の前で触れあわせていた。

「お帰りなさい。皆、無事なようでなによりです」

 玲瓏な声が一同を迎えた。全員が、雨が上がり雲が退いたのかと錯覚した。宮がぱっと眩くなった。

「州候様、」

 美しい黄金色の目を細め、アルニラットは広間に立っていた。金を飾った純白の服の上、浄化の香を衣の如く纏い、まったく光の化身のように。微笑は温もりに溢れていた。

 ジャンタームが平素のとおり恭しく礼の姿勢をとったことで、ロウムトははっとして帽子を頭に戻し、同じ姿勢をとった。その様を見、アルニラットは笑みを深める。

「獣退治、まことに大儀でした。いつも貴方の仕事は的確だと評判で、私も誇らしく思います」

「……勿体無いお言葉です、州候様」

 久々に直接州候女と相対したロウムトは、上手く声を出すことができなかった。

 以前抱いていた諸々の感情が嘘のようだった。少なからず不満を抱いていたはずが、いざ目の当りにするとこれほど清らかな娘――実際にはもう中年の域に居る女であるが――が他に居るだろうかと、そういう気持ちになる。巫女というよりも、聖女。無垢の乙女であるように感じられた。

 彼の後ろで、他の者たちも皆頭を垂れていた。普通州候にするよりも、ずっと深く、長く、その顔を見るのを畏れるように。

「皆、顔を上げなさい」

 請われるまま、ロウムトたちは顔を上げた。絶世の美女が彼らを見ていた。光を宿す瞳が武将官を映して輝いている。

「貴方たちのような優れた武官は、私にとっても誇りです。これからもどうかガムイの為に働いてください」

 柔らかい声での称賛に、ロウムトと武官たちの胸に込み上げるものがある。冷えていた肌は感激に熱くなり、口は声を漏らしそうになるのを必死に押し留めた。涙を堪えた者も居た。

 アルニラットの眼差し、言葉にはそれだけの力があった。武官たちはこの一瞬で遠出と戦いの疲労も忘れ、州候女の為に、と心を新たにした。もしも今すぐ近くで戦が始まったなら、彼らは何ひとつ迷うことなく盾と槍を手に駆け出すに違いない。

「勿論にございます、ウーラ様。この身も槍も、すべてシーマ・エンナンとガムイの為に」

 代表者としてロウムトが応答する。力強く響く声を聞いた黄金姫は満足気だった。ジャンタームはその様を静かに見守っていた。

「まず休まなくてはなりませんね。ロウムト、久しぶりにお茶でもしながら、話を聞かせて頂戴。あの辺りが今どのようなのか、私はとても興味があります」

 アルニラットが柔らかな声で言って踵を返したので、その場は解散の運びとなった。それぞれの長、政務官と武将官だけが州候に付き従うこととなる。ロウムトに着替えと、州候の部屋に熱い茶を、と途中で侍女に言いつけたのは、アルニラットだった。


 着替え、濡れた髪を解いて緩く結いなおしたロウムトがアルニラットの居室に向かうと、そこには茶と言うよりも食事と言った体の支度がなされていた。塩茹での米麺(ミー)と豚の揚げ物、菴羅(マモーン)の炒め物に加え、アルニラットの好む果実の類が多くある。確かに三人分だった。

 強くついていた匂いの為だろう。アルニラットもまた着替え、己の椅子に座っていた。花模様を散らされた淡い橙色の服は若い娘の装いだが、年齢不詳の容姿には実に似合っている。その横で、ジャンタームは言いつけどおりに熱く用意された青茶を杯に注いでいた。非常に手馴れていて、彼もまた若作りな為に官帽が無ければ姫の給仕役のようだった。

 アルニラットの勧めに従い彼女の向かいへと腰を下ろしたロウムトに、湯気の立つ茶杯を差し出す。そうして彼が腰を下ろした場所は本当に給仕の居るべき場所だったが、いつものことなので誰もとやかく口にはしない。

「……なかなか止みませぬな」

 目の前の食事にどうしたものかと考えあぐねたロウムトは、本題に入る前の軽い話題を探して窓の外へと眼を向けた。雨は少し強まったようで、しとしとと風景を煙らせるそれは今日も止まないだろうと、皆がどことなく予感している。

 アルニラットは口角の上がる口元を押さえた。晴れの巫女である彼女は、ロウムトの一つの心境を読み取ったのだった。

「この雨は此処より下流の村に多く降っているのです」

 華奢な指の下から、張りのある声が言う。

「あの辺りは例年より水が少ないと聞いています。――堰はまだ余裕がありますし、今は天にお任せしてもよいでしょう。そのほうがきっと、果樹や畑には好ましいと思います」

 口を押えていた手は最後に、悪戯っぽく皿に載った水瓜の皮に触れた。首を傾げると豊かな髪が艶を作って肩から零れる。

 その明瞭な受け答えに、ロウムトは感心して数日前の己の言葉を羞じた。何も、書状に記すだけが政ではない。久方ぶりに面会した姫はただ巫女として天を操るわけではなく、確かに州候の仕事もしているのだと感服した。

 ――ジャンタームも、けして甘やかしたわけではないのだ。

 彼はまた頭を垂れるように深く頷いた。この美しく優しく思慮ある姫の下で働く喜びを感じていた。

「ジャン、爺にもそう言っておいて頂戴ね。偶には見立てを外すこともあるわ。雨はね、帳尻が合えばよいのよ。まだ不安になるようなものではありません」

「承知致しました」

 そんな武将官を見たアルニラットはどこか満足そうにして、ジャンタームへと言葉を向けた。花の綻ぶような表情にジャンタームも淡く笑む。外の鬱屈とした曇天とは打って変わって華やぐ空気にロウムトの頬も緩んだ。

 アルニラットは静かに、程よく湯気が飛んだ茶杯を持ち上げる。

「どうでしょう、ロウムト、共に食事を? お茶だけでは物足りないでしょう?」

 此処まで支度をされて敬愛すべき州候に請われ、否の答えなど浮かぶはずもない。ロウムトは今度こそ胸元で手を合わせ、確かな礼の姿勢をとって金色の眼差しに応じた。

「お望みであれば」

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