一
フェルエーイの魔女はもっとも偉大な女。どの竜も魔女も皆、彼女を知っている。
――魔女の書
……の地を繋ぎ止めるもの。幾人かの魔女、北の王、東の……、九人の魔法使い、ルドイエに眠る貴き骸……は猛火の如く、贄を絶やしては国では居れず……
――宮廷魔術師の手記
薄い霧の中、娘は耳打ちされた言葉にただ頷いて、着慣れぬ婚礼衣装の裾を引いて小舟へと身を移した。振り返ると父が抱きしめる。長は頭を撫でた。彼女は顔にかけられた面紗越しにそれを感じていた。銀盃花の刺繍が飾る美しい布は、娘自身の手によるものだった。
小さな舟は男たちの手で押し出され、谷の底を流れる広い川の上に滑り出た。櫂が無くとも、流れる水は舟を運んだ。娘は離れる岸辺を見つめていた。男たちが彼女を見ていた。彼女にはそれが見えなかった。花嫁の顔を隠す面紗がそれを邪魔していた。夫となる者しか払えないものだ。払う手などないことを、娘はよく知っていた。
水面を進むうちに父や長の視線も絶えて、娘のまだ小さな体は、平素けっして近づかない神域の空気に呑まれていった。
繁る木々の呼吸、生き物たちの気配、土と水の匂い。すべてを霧が取り纏めた、どこまでも清浄な谷の底。娘は水が導くままに進む。舟に敷き詰められた花が細い指に触れ、彼女は込み上げて来るものをぐっと堪えて胸に落とした。
舟は漕がずとも揺れながら進む。澄んだ水の上、花嫁を乗せて。行き先は神の元であると、娘は聞いていた。
彼女が八十年に一度の捧げ嫁に選ばれたのは、ほんの一年前のことだ。美しく賢い娘として方々から声掛けを貰って、父が嫁ぎ先を考えていた矢先の、十歳の頃。次の長の妻になるという話もあったのだが、巫女の婆が言うことに逆らう者は誰も居なかった。
「お前は神様に嫁ぐ運命にある」――皺だらけの手がぺたりと頬に触れて柔らかい声が告げるのを、当の彼女が聞いた。それが所謂生贄、捧げ物の類だと言うことは、誰もが、彼女もよく知っていたが。
娘は微笑んで一言「はい」と応じた。「神様のところに行くのならば、幸せですわ」と。
不思議なことに、彼女はそれほど動揺しなかったのだ。運命。老婆の囁くその言葉がすっと胸に降りた。それは諦めにも似ていて、心は穏やかだった。
運命とはこういうことなのだろうか。神様に嫁ぐということはこういうことなのだろうか。前の娘もその前の娘もこうだったのだろうか……思いながら、一年、彼女は身を清らかにして過ごした。人に嫁ぐことがなくなった為に必要のなくなった花嫁修行も続けられた。形になる縫い物や誰かの為になる煮炊きが、彼女は単純に好きだったのだ。神に嫁ぐならなおのこと失礼があってはいけないと笑う彼女を母が抱きしめた。この母を、父を悲しませることだけが嫌だと、彼女は思っていた。
ところがどうだろう。一晩静かに泣いた後、もう会うことのないだろう父母や村の人々に挨拶をして、そこまではとても穏やかな気持ちでいたというのに。一人で舟に乗って、することがなくなった途端に、なんだか恐ろしくなった。
戻ることはできず、身を任せるしかない。行きつく先に行くだけだ。川の先――果てがどうなっているのかなど、彼女は知らなかった。それでも死があるのだろうとは予想がついていた。神に捧げられるとは身を清くして死ぬことだと、賢い彼女は察していた。
死ねばその先で神が迎え入れてくれるものか。考えて、娘は面紗の下で目を閉じた。静けさが恐ろしかった。死とはやはり恐ろしく悲しいものなのだと、痛感していた。
華奢な体は柔らかな霧にさえ押しつぶされてしまいそうだった。小舟は霧を裂くように進んでいった。延々、永遠止まらないのではないかと思われるほどに、静かに粛々と。
唐突に吹いた風が、娘の顔を覆う薄布を乱暴に払いのけた。編んで飾りを挿した美しい金の髪が晒され、光を弾く水面が彼女の目を射た。否。
霧はまだ晴れてはいない。眩いものは他にあった。
唇が動いた。灰色の瞳から涙が流れた。風が吹き散らすその雫さえ、光を受けて銀に輝いていた。
澄んだ銀色は青を湛えて美しく。それが柔肌を包み、抱え込んだ。腹から湧きあがる血潮。訪れる大波。身は大地となり根を巡らせるように広がった。生じたのは――恐怖か歓喜か、叫びだしたくなる、生まれたときから知っている何か。
世界が凝縮する錯覚を得て、娘は目を閉じた。魂は毀れることなく丸く環となり球となり、満ち満ちる。
そして彼女は生まれ変わった。




