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魔女語り  作者: 灰撒しずる
Ⅲ アルニは死んだ
18/29

 暗く打ち寄せる塩水を眺めぼんやりと辿る事柄は、絵巻物のように長い。

 ジャンタームは幼い時分、よく町の老爺に伝承を聞かされていた。官吏を志すようになってからは、その伝え語りは年代もはっきりとした史書に変わった。その大半、彼の頭の中に複製がある。彼は極めて優秀な記憶力を持っていた。

 ――記録が残るのは、五八五年前、マンゴム王の御代から。

 かつて、国の名も違った頃。ガムイは洪水の多い土地だった。酷い時には毎年、湖か海原のように水に浸かっていたという。当然水が漬けば作物は育たず、民も家畜も多く死んだ。湿り気どころではない濃い水の気と食物の不足、死体の常置から病が絶えることはなく、人々の顔も曇天のように翳っているのが常だった。

 だが、三百年ほど前からは、ガムイは一度もそうした天災に見舞われたことはない。運がよかったのではない。ガムイに巫女が現れたのだ。

 ――三三七年前、サラヴィターム王の御代に立った巫女の名をアルニ。

 ガムイの東端にある小さな村に住んでいた娘だった。夏中続く長雨に人々が嘆いていたときに祈り、天に働きかける力を手に入れたと言われている。

 それは後世永劫に語り継がれるだろう、奇跡の出来事だった。アルニが祈れば雲は姿を消し、日が地上を照らした。ガムイは恐ろしい洪水や土砂崩れに晒されることがなくなった。一年、二年、三年と日光と雨の調節をされたガムイはやがて国内一の食糧生産地へと変貌した。安定した農耕、畜産は漁業の拡大も産み、ガムイの経済を存分に潤すこととなり、アルニの名と功績は王宮にまで知れるようになった。十年の後、国は彼女の存在を重く見、正当な巫女として位を与えることを決める。

 ジャンタームはその巫女を、伝え語りや史書だけでなく己が目で知っていた。力を手に入れると共に不老となっていた娘が身を置いたタヒという町は、彼の出身地でもあったのだ。

 晴れの巫女アルニの姿は、今でもジャンタームの記憶の端にあって、ふとした折に甦る。井戸に水を汲みに行った際、よく会った。偶に話をした。それほどに身近な存在だった。彼女はジャンタームとその家族の容姿――央国の血を濃く見せた金の髪を、光のようだと満面の笑みで褒めた。

 アルニは何の変哲もない娘だった。小柄で丸顔、小さな手足。子供だったジャンタームから見ても、子供のような女という印象があった。顔から胸元、肩にかけてまで雀斑を散らしていて、顎の横で切り揃えられた砂色の髪はまったく童女のようで、あどけないとさえ言えた。そして見た目どおりによく笑い、話し、唄う。祭の日を除いてはあまり着飾ることもなく、ただの町娘のように人目に映った。

 ただ一つ、輝く黄金の瞳を除いては。

 ジャンタームが――人々が巫女のことを思い出すのは、大抵がその双眸からだ。その目を見れば、アルニが、そのただの小娘の体の内に凄まじい力を秘めていることは誰の目にも明らかだった。星の輝き。人々を畏怖させる人外の通力。人の肉の中に隠された大いなる力が、瞳に透けて見せられていた。それが雨雲を退け、ガムイに繁栄を齎したのだ。

 思い出すたびにジャンタームは身震いした。同時に、別の女にその目が備わっていることを思いまた震える。唇を引き結んで、揺れた吐息を留めるのはよくあることだ。

 そんな、小さくとも強大な存在だったアルニが自分の死を宣言したのは、二十二年前だ。

「私はあと一年で死にます。……まだ巫女が欲しいのなら、誰かに継がせなくてはなりません」

「けれどこの力は、人には重いものだと思います。堅い意思がなくては、譲ることはできません」

 柔い娘の声がぽつぽつと告げたのは、朝の食事を届けに来た世話役の婦人に対してだったという。

 婦人が長らく言葉を喉に痞えさせたのは無理もない話だった。巫女アルニの宣言に国が困惑する中、多くの女たちが巫女を継ぐと名乗り出た。アルニが国から与えられる姫のような生活、金銭や特権を求める者が多かったのだ。その数百は下らないと、町の話屋たちは今でもよく語っている。

 誰か一人を選び力を継がせると共に与えてやればよいと役人たちは口々に言ったが、そうはならなかった。莫大な人員と費用のかかる巫女選別に向けての本格的な話し合いが始まる前に、一際声高く名乗りをあげた者がいたのだ。

 奇しくも、巫女と同じ名を持つガムイ州候の娘、アルニラット。今はその美貌と双眸から黄金姫(ウーラ)と称される、当時は黒い眼の娘だった。

 既に地位も財もある者の申し出に、国は驚いた。王も大臣も、その他の役人たちも、誰も彼女の意など解さなかった。だが、彼女を巫女にすれば管理も容易で国庫がそう痛むことはないと、結局後押しが決まった。アルニの宣言から一月後のことだった。

 そうしてアルニとアルニラットは引き合わせられ、何度も話をした。アルニが身を置く風通しのよい平屋の御簾の奥で。巫女の住む町で育った薬商の子――ジャンタームは、時折その声を聞いていた。その頃、巫女の寝所に香を届けるのは彼の母の役目で、彼はよくそれに同伴していたのだ。当時まだ十一だった少年が好奇心で耳を欹てたのは、至極自然なことだった。

「どうして巫女をお継ぎになろうと考えるのです……?」

(わたくし)は後の州候です。民が安心して暮らせるように尽くすことこそが、私の務め。巫女の務めというのも同じようなところにあるように思います。……それに、貴女は巫女の力を、重荷と仰ったそうですね。ならば民に負わせてはいけない。そう思ったのです」

「……姫さまは、心まできれいなんですね」

 アルニの問いにアルニラットが答える。その会話の美しさ、穢れなさ。彼は大人になった今でもよく覚えている。母が出てくるのを待ちながら、風に流れてくる香の匂いと会話で胸を一杯にしたことを。甘美な思い出だった。

 アルニラットの巫女継ぎへの反発の声――特に、他に名乗りをあげた者からの――が徐々に少なくなったのは、アルニラットがあまりにも堂々と直向きに振る舞ったからだった。彼女は根回しも何もなく、身一つで誰もに思わせたのだ。アルニラットこそ、二代目の巫女に相応しいと。

 アルニもまたそれに頷いた。真摯な言葉、澄んだ眼差し、温かな想いを交わし、人の一生にしても巫女の一生にしても短い一年を、二人の女は共に過ごした。その日がやってくるまで。

 二十一年前の良く晴れた寒い日を思い出すと、ジャンタームは泣きそうになる。心が破裂するのではないかと思えるほど満たされて、目の奥から涙を押し上げるのだ。

「心配いりませんわ。私が、貴女の代わりになります……」

 集まる民衆には見えない、幾重にもかけられた御簾の奥。横たわるアルニの横に腰掛けその手を握りしめる、美しい娘。彼女がアルニに語りかける声は風に乗って聞こえた。漂ってくる伽羅(クリト)の匂い、時折りんと鳴らされる邪払いの鈴の音。すべてが誂えたように美しかった。

 そうして、アルニラットは巫女を継いだのだ。御簾を払い現れたまたとない美女の双眸は、巫女の死に涙していた人々を一瞥した。

 黄金色の――巫女アルニのものと同じ、輝く人外の瞳。誰もがそれで、晴れの巫女は引き継がれたのだと知った。

「州候シントゥトの子、アルニラットでございます。たった今、アルニ殿から巫女を継ぎました」

 民衆に向かい宣言した州候の娘は町のどの娘よりも美しかったと、ジャンタームは記憶している。美女と言われて評判の良かった彼自身の母や、叔母よりも、ずっと美しく見えた。

 アルニが平屋ごと荼毘に付されるまで、ジャンタームは呆然とアルニラットを見つめていた。草色の瞳は巫女の目に眩く射られて眩んでいた。

 幼いジャンタームは信仰、崇拝しうるものを見つけたのだ。その年齢と対象を考慮するならば、恋と呼んでもよいかもしれない。少年は、朝露のように淀みなき女の姿に心を奪われた。

 潮の香を含む風が吹き、思い出から立ち返ったジャンタームははっとして欄干を握りしめた。丹が剥げてざらつく木の質感が指に明瞭だった。灯台の火が遠くに見える。

「ジャン、あまり長いこと風に当たっていると、調子を悪くしますよ」

 同時に、後ろで声。振り向けば火の照らす部屋の中央にアルニラットが佇んで、微笑んでいる。朱と金で彩った衣装が火の揺れに合わせて色を変えた。町長や漁師長との会食を済ませて戻ってきた州候女は軽やかに歩み、腕をジャンタームへと伸ばす。港の夜を背に立つ月の使いのような従者の姿を見つめ、冷たい頬に触れて笑みを深めた。

「申し訳ございません、お体に障りましたか」

「貴方の体の話よ。ほら、冷えている。お酒でも飲みましょう」

 人々を魅了する艶やかな笑顔のまま、彼女は唇をジャンタームの耳に寄せ、遠い波の音に合わせるように囁く。アルニラットはそうして彼に触れ、触れさせるのを好んでいた。それでも醜聞的な性交渉などに及んだことはない。彼女はそこに一線を引いている。

 ジャンタームはその間、身じろぎ一つしなかった。満足して顔を元の位置に引き戻したアルニラットが見るのは、いつも穏やかな微笑だけだ。

茘枝酒(スゥリーシ)を持ち出して来ております。用意させましょう」

 弁えた側近たる政務官は、そうして常に彼女の拵えた枠の中で大人しくしている。それがまた、彼女をよく満足させていた。

 これは人形遊びだった。州候女、巫女として重い責務を負う女の、気晴らしだ。

「ええ。お願い」

 静かに窓を閉ざし潮風を遠ざけたジャンタームは、酒を用意する為に勝手を知らぬ部屋を進んだ。ガムイの政を取り仕切る宮から離れて訪れた港町は平和なもので、部屋を出てもそこに見張りの人間は一人しか居ない。思案したジャンタームは結局少し歩くことにした。よく知る立ち番の武官に言葉を添え、宮から運んできた荷を置く部屋を目指す。小さな灯が照らす廊下を辿る最中も、彼が考えるのはアルニラットのことばかりだった。

 巫女の力を継いだ州候女――アルニラットに生涯を捧げたいと、そうジャンタームが考えたのは、巫女が代替わりしたあの日あの瞬間だった。彼は神に等しいものを見た心地で、熱に浮かされたように家に戻ったのだ。

 ――あの方の傍に。できることなら、誰よりも近い場所でお仕えしたい。

 それからというもの、それがジャンタームの一つの望み、夢となった。

 次男であり、真面目で勉学に秀でていたジャンタームは、それ以前から官職に就くことを周りに勧められていた。支援は十分にあった。ジャンタームは熱烈に、強烈に、役人として働く未来を渇望するようになり、それまで以上に勉学に励んだ。生活の安定、地位の為などではなく、単にアルニラットという存在の為に。幼く若い彼の日々は、勉強を重ね作法を知り、史書をあるだけ読み耽ることで過ぎていった。武官ではなく文官の地位を望んだのは、そのほうが州候の近くに居れるだろうという打算からだった。一つの問題が浮上してもその目標は変わらなかった。

 三代前の王の血が疑われ継承問題で揉めに揉めたシーマには平民出の役人は去勢せよとの風潮が強くあり、いずれアルニラットが州候を継ぐガムイの地では文官に就く一つの条件となるだろうとも言われていた。未だ若い姫の美貌に惑わされる者が多いだろうとは、誰もの予想に難くなかったが為に。当時の州候――アルニラットの父もそれを危惧している節があった。

 家族や周囲はそれで大いに気を揉んだが、当のジャンタームは一切迷わなかった。男という性、妻を持ち子を成すということへの執着はその頃既に彼から失われていた。兄が居て既に結婚も子作りも済ませていたことは大きな助けだった。

 多少の恐怖を捩じ伏せて施術してしまってからは、長引く苦痛も修行のようなものだと捉えて乗り越えた。こうすることで彼女に一層近づくのだと。自らの決意の固さが痕跡して残っていると思いこめば、痛み苦しみは悦びさえ生んだ。

 そうして、十二の歳に男の身を捨てた彼は三年後の役人募集に迷わず応じ、心身の健康と真面目さ、他に追随を許さない好成績で上文官に選ばれることとなる。他ならぬガムイ州の役人だ。すべての試験で素晴らしい成績を収めたことで、彼の最初の任地はガムイ州候の膝元となった。

 それだけでもジャンタームにとってはこの上ない幸運だったが。彼の運の良さはそれには留まらなかった。

 アルニラットの父シントゥトは、移民である祖父母の血を継いだジャンタームの珍しい容姿に興を抱いて、戯れに呼び寄せてはいくつも仕事を与えた。仕事が終わるとその優秀さと熱心さに驚き褒めた。僅か一年で、ジャンタームは州候の気に入りとして傍に置かれるようになる。

 あの頃はあの頃でそれなりに幸福であったと、ジャンタームは今思う。州候は真実、若い文官を可愛がり、仕事と適切な褒美を与えていた。ジャンタームの望みが単純な出世であったならば、その時既に満足し始めていたに違いない。実際は、宮で時折アルニラットを見ては、もっとあの人の近くにと願い続けていたのだが。

 平民、移民の子が。――と妬まれることも多かったが、元より素質のあったジャンタームはすぐに地位を上げられ、九年で正式な州候補佐役、政務官に任ぜられた。若干二十四歳、有能な政務官として都に上がるよう推挙されたこともあったが、彼は頑なにそれを辞した。私はガムイとその州候にお仕えしたいのです、と、本心を語りながら、隠しながら。

 やがて州候は、自分の立場を継ぐことになる娘の教育係という任をジャンタームに与えた。それが彼にとってどれほど嬉しかったかは言うまでもない。無論、州で最も上位の文官となった彼は多忙で、常にというわけではなかったが――他の教師役と共に、彼はアルニラットに政についてを教えた。アルニラットは年下である彼の話も熱心に聞いては様々なことを訊ねた。政治や経済の他、他愛のないことも時折口にした。晴れた日には庭などに誘い出して語らうことさえあった。

 回想はいつの時も甘く美しい。シントゥトが死に、アルニラットが州候女として就任した時――「誰よりも頼りにしています」と言って赤く目を腫らせた姫巫女が微笑んだ時、ジャンタームの夢は結実を見た。

 その夢は今も続いている。

 荷を置いた部屋の立ち番に短く挨拶して、ジャンタームは静々と奥へと進んだ。日傘や敷布が積まれる中、目的の物はすぐに見つかり、薄い布靴を履いた爪先はそちらへと向く。一抱えの白い酒瓶からは淡く果実の匂いが漂っていた。

 そうして足を前に出した、数歩目。ブツと何か踏み潰した感触に、ジャンタームは息を呑んだ。何か落とされてしまった細工の類でも踏んだのかと案じたのだ。

 懸念は一瞬で済んだ。慌てて足をどけて目を凝らした彼は、ほうと息を吐いて安堵する。

 床で潰れていたのは、小指の爪ほどの小さな虫だった。何の変哲もない甲虫の飴色をした丸い体は人の重みで裂けて平らになって、水気を滲ませている。

 ――アルニラットに酒を。思い直したジャンタームは小さな死骸を置き去りに素早く動いた。

 重い酒瓶を抱えて急ぎ来た道を引き返すジャンタームがこのことを思い出すことは、その後なかった。

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