二
大陸の東部に位置するシーマ・エンナンの一州ガムイは、山を背に海に向かう広大な平野地帯だ。抱える町村は五十八。人口は多く三万を超え、シーマ南部の食卓を支える食糧生産地として栄えている。土地を治める州候は長く続く貴族家サムの嫡子、シーマ一の美女と名高い姫、ウーラ・アルニラットだった。
――四十歳を迎えようという年にありながら娘の如き容貌を保ち続ける彼女の負う役目は、州候だけではない。
高台に立てられた州宮の中でも上階にある、円卓を中央に据えた政務官の居室。武将官ロウムトは出された青茶と豆菓子に手を付けず、ジャンタームが差し出した板の折り書を開いた。一定の癖が見えはするが読みやすい、はっきりとした筆致が彼を迎える。彼はほんの僅かに持っていた期待を捨てざるを得なかった。
所狭しと並べられた隣州への連絡は、内容自体は特別問題がない――ということは、確かめなくてもロウムトには分かっていた。卓を挟んで向かい合う政務官が仕事について仕損じるところなど、彼は見たことがなかったからだ。
また、ロウムトとジャンタームの州政への意識は常に同じ方向を向いている。文と武の相違で口添えすることはあれど、財政、人事、儀式に関する諸々の事柄に至るまで――すべて衝突なく、お互い同じように見て決め、上へ下へと働きかけをする。不満を申し立てることは別段ないというのが常だった。だからロウムトには、文書の内容を検めて口出ししようという心算は端からなかった。
彼は別の部分で落胆したのだ。今日が初めてではなかった。彼は何度か、こうして州候の住む宮に戻るたびに、自分の開く書に読みやすくはないが美しい流麗な女文字があることを期待していたのだ。
「君の字だな」
「ええ、そうでござます。私が書きました」
ロウムトが分かりきったことを訊ねると、ジャンタームは空かさず返した。友と呼ばれる間柄でありながら彼がよくよく畏まっているのは、彼らが籍を見れば平民と貴族という格差の上に置かれているからだった。
きっぱりと竹を割るような政務官の返答に、武将官はその太く凛々しい眉を寄せる。
「このままでは、よくないのではないかな。州候はウーラ様なのだぞ」
彼は内容を読む必要のない書を閉じ、静かに卓上へと置いた。苦く、囁くような調子だった。武将官の固い手は迷いながら五色で彩られた杯を手に取る。
ジャンタームは微笑した。輪郭の柔らかい中性的な顔がそうして緩く傾げられると、女のようでもあった。しかも、美人の部類に入る。当然アルニラットとは比べるまでもないが。
「アルニラット様は巫女をも継いでらっしゃいます。ただ州候で在られるよりも、身への負担は大きいのです」
少し言葉を選ぶ間を置き、彼は言う。声はいつもよりも幾分高く響いた。ロウムトは好みの茶を含みながらそれを聞いた。黒い目は前に座る、異邦の淡い色味を持つ政務官を映していた。
ジャンタームが言うとおり、アルニラットはガムイ州候女でありながら、巫女でもある。元からそうであったわけではなく、二十一年前にその役目を引き継いだ二代目の巫女だ。
彼女を巫女として扱う時、〝晴れの巫女〟と人は呼ぶ。特定の神霊に仕えるのではなく、その名のとおり太陽に祈る祈祷巫女だった。その力は絶大にして唯一無二。彼女はガムイ、ひいてはシーマにとって代え難い存在であり、州候の仕事を幾分疎かにしていようともそれは揺るぎがない事実としてある。
しかしロウムトは現状に納得していない。彼は官吏としてガムイに派遣されてから十六年にもなるが、ここ数年、視察などの表舞台を除いてアルニラットが働いているところを見たことがなかった。
「巫女の仕事は?」
ジャンタームを見つめたまま、ロウムトは姿勢をやや楽にして尋ねた。
「四日に一度部屋に入って唄を召し上げております。――そもそも、巫女というものは、それだけで大変な物なのですよ」
誰よりも州候女――巫女アルニラットに近く、最初の巫女のことも見知っている政務官の唇から出る声はただただ穏やかで優しい。
甘やかしている、とロウムトは思った。アルニラットは重要な巫女であるが、武将官から見れば州候という姿のほうが大きい。それを疎かにされては正直堪ったものではなかった。優秀な政務官が居て仕事を肩代わりしていなければ、ガムイの州政はとうに傾いでいる頃だ。
「君は、州候ではなく巫女に仕えているというわけだな」
その政務官までが州候に甘いとあって、ロウムトの言葉は心情を映して刺々しくなった。途端、ロウムトを見つめ返したジャンタームは居直って口を開く。
「……私はアルニラット様に仕えているのです。州政を蔑ろにしたことなど、王と先候、聖星に誓ってございません」
静かに響く声。ジャンタームの視線が冷えたのを見てとり、ロウムトも慌てて――武官である彼がそれを相手に悟らせることはなかったが――背を伸ばした。
よく鍛えた頑強な体の持ち主である武将官は、脆弱ではないが線の細い男に気圧されたのだった。王と、先代の州候であるアルニラットの父シントゥトと、そして人のすべてを司る神の星までを持ちだしたジャンタームの言葉は、けっして軽々しいものではない。
わかったわかった、と幾度も頷き、彼は手振りまでつけてジャンタームを宥めた。鷹揚ではあったが、仲違いが続くことを恐れた慎重な動きだった。
「しかし、このままでは他の者にも示しがつかぬ――俺のような者から言ってもウーラ様も気分が悪かろう。君からどうか、上手く言っておいてくれ」
「承知いたしました。明日、海に行った折にでも」
ゆっくりと言えば、ジャンタームの顔にはすぐに笑みが戻る。声音も柔らかく、恭しく袖を重ね頭を下げて応じる様にロウムトは内心で安堵の息を吐いた。飴で固めた豆の菓子を口に入れ、飲みこんだ後を青茶で漱ぐ。
ロウムトはそうしてジャンタームの機嫌をとったのだが、実の所恐れてもいた。これほど州候女の振る舞いを問題視していながら、自分が諫言しに行ったところでアルニラットの美貌に負けることになるのではないか、と。
アルニラットの美貌は尋常ではない。色香で惑わす、という域でもない。あの黄金色に輝きを灯す瞳に見つめられると、人々はアルニラットに従いたくなってしまうのだ。元から美しい娘であったとロウムトは知っていたが、巫女の役目を継いでからはまったく、人の域とは思えなくなった。巫女の力がそうしているのだろうかと、彼は考えた。
魔性――魔女。そんな言葉がロウムトの頭に過ぎる。口に出せば、先程のようにジャンタームに冷たい表情をされるだけでは済まない。〝異形の女房〟など、紛れもなく、州候、巫女、国家への不敬となる言葉だった。
彼の目の前に座る、アルニラットの光輝を受けてか美しい男。一政務官の彼も、懐から剣を取り出すことを厭わないだろう。特に彼は、相手が武将官と知っていても怯まないに違いなかった。己で口にしたとおりアルニラットに仕えている彼が、主君への罵倒など許すわけもなかった。
妖女の傀儡。そうジャンタームを評しかけた自分を、ロウムトは罵った。誠実で真面目な政務官さえそう言ってしまってはおしまいだと思った。
「今日はお急ぎではないのでしたね。お茶のお代わりを淹れましょう」
「ああ……貰おうか」
ロウムトの思考を読み取ることなく、ジャンタームはロウムトが茶を乾したのを見てとれば音もなく立ち上がる。そうして茶を汲みに行く姿は手慣れていた。アルニラットに茶や菓子、時に酒を供すのもまた、彼の仕事であるからだ。
武将官に背を向けた彼は、人形のような無表情だった。
ジャンタームは、ロウムトが言ったことをアルニラットに伝えるつもりは微塵もなかった。アルニラットの気分を害すと知っていて、アルニラットの美しい顔を曇らせると知っていて口を開くのは、彼には何事よりも愚かしい行為のように思えた。
州政については己が努力をすれば良いだけのことで、今もそれで上手く行っているではないか。アルニラットとて怠けているわけではないのに、何を喧しく申し立てることがあると言うのか。――それが、ロウムトには告げないジャンタームの本心だ。彼から見れば、州候と自らの仕事には何の問題もない。
国も、州も平らか。このまま続けばよいと、ジャンタームは波打つ青茶の表面を眺めて聖星に願った。墨で描かれた陰惨な時代が繰り返されなければよいと。