一
巫女様が唄うと雲が割れた。まったく切り分けたようだった。憎ったらしい黒い雨雲のやつは真っ二つ。そこから久方ぶりにお日様が顔を出して、海のようになった丘の下を照らしたんだ。そのきらきらと眩しいことと言ったら!
――ガムイ州タヒの伝え話
細い手が早桃の蜜煮を楊枝で突き刺し、皿の上から持ち上げる。濃い黄色の果肉が溶けだすようにとろりと蜜の雫が滴り、象牙の卓に丸く艶を出した。
さく。歯をつき立て、桃のように蜜に覆われた唇を、ちらりと現れた血色のよい舌が拭う。桃は二口で消え、空いた手がもう一つ突いた。
纏いすぎた蜜が楊枝を持つ指先から肌を伝う。掌から手首へ。放っておけば肘まで伝って、今は緩く二の腕だけを覆っている白い袖を汚すだろう。
「ジャン、舐めますか」
悠長に二切れ目の桃を飲みこんでから、州候女アルニラットは犬でも呼ぶように言った。
その一声で草色の目が上がる。アルニラットが座るゆったりとした座ではなく、豪奢に金で飾られ窮屈な印象を齎す執務机に身を置いた男は、マウオンの堰堤維持について記録された折り書を畳んで、墨に浸したばかりの筆を置いた。
「またお戯れを仰る」
柔らかな声は小さく、溜息のように。
ジャンタームは顔を上げた先に、楽園の写しを見た。
少し前に飾り大工を呼んで取り付けさせたばかりの針茉莉紋様の飾り窓から、濃い午後の光が注いでいる。その中でアルニラットは天女のようだった。
蜜の伝う腕を放って、頬杖をつき、座椅子に身を委ね微笑する。緩く二つに分けて纏められた栗毛には瑞鳥の金飾りが舞っていた。女性らしさを満たした柔らかな肢体と、至上の美女と呼ばれるに相応しい、人間の顔から醜悪を取り去った美貌。アルニラットはどうしようもなく美しく在った。光を湛えた黄金色の大きな瞳がジャンタームを捉えて離さなかった。
抗えないと、彼は知っていた。抗うまいとも思っていた。椅子から立ち上がって歩み、アルニラットの傍らで跪いて舌を差し出す。柔らかく滑らかな肌に恭しく触れ、何かの這う跡のような白蜜を舐めとる。
淡い珊瑚色の肌。染みついた香の匂いと共に在る人の肉の匂い、薄い果実の匂い。ジャンタームは甘さと共に嚥下した。そうして指先までに口づけをした整った顔を、アルニラットは空いた手で撫で上げた。
指は官帽を小突いて落とし、この地では珍しい金の細い髪を伝う。ジャンタームはちらとアルニラットの顔を見遣り、何事もなかったかのように濡らされた手拭いを手にとった。アルニラットの腕を拭き、畳みなおして盆に戻す。
「ねえ、今度海のほうを視に行きましょう。この前願い出を聞いて舟を増やしたでしょう? 上手くいっているか見たいわ」
そんな彼の旋毛に降る、桃の香のする穏やかで軽やかな声は遊びの誘いに似ていた。というよりも、務めの薄皮を着た遊びの願い出であると、ジャンタームは勘付いていた。だが口には出さない。咎めることはない。
彼は跪いたまま考える間を置き、主に応じた。袖を合わせて頭を垂れる。アルニラットの目には髪と同じように稀少に映る、草葉の色をした目が伏せた。
「……承知致しました。三日後から余裕がありますので、供を決めましょう」
「そうして頂戴」
頷くアルニラット。ジャンタームはゆっくりと立ち上がり、床に落ちていた己の帽子を拾い上げた。濃い紫に花模様の金刺繍、後頭部を覆う白布と柔らかな手触りの房飾り。州の中で最上位の文官、政務官が戴く代物だった。
何より、と望んで手に入れた地位の象徴を、ジャンタームは静かに頭に置いた。




