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魔女語り  作者: 灰撒しずる
Ⅲ アルニは死んだ
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 巫女様が唄うと雲が割れた。まったく切り分けたようだった。憎ったらしい黒い雨雲のやつは真っ二つ。そこから久方ぶりにお日様が顔を出して、海のようになった丘の下を照らしたんだ。そのきらきらと眩しいことと言ったら!

――ガムイ州タヒの伝え話




 細い手が早桃の蜜煮を楊枝で突き刺し、皿の上から持ち上げる。濃い黄色の果肉が溶けだすようにとろりと蜜の雫が滴り、象牙の卓に丸く艶を出した。

 さく。歯をつき立て、桃のように蜜に覆われた唇を、ちらりと現れた血色のよい舌が拭う。桃は二口で消え、空いた手がもう一つ突いた。

 纏いすぎた蜜が楊枝を持つ指先から肌を伝う。掌から手首へ。放っておけば肘まで伝って、今は緩く二の腕だけを覆っている白い袖を汚すだろう。

「ジャン、舐めますか」

 悠長に二切れ目の桃を飲みこんでから、州候女アルニラットは犬でも呼ぶように言った。

 その一声で草色の目が上がる。アルニラットが座るゆったりとした座ではなく、豪奢に金で飾られ窮屈な印象を齎す執務机に身を置いた男は、マウオンの堰堤維持について記録された折り書を畳んで、墨に浸したばかりの筆を置いた。

「またお戯れを仰る」

 柔らかな声は小さく、溜息のように。

 ジャンタームは顔を上げた先に、楽園の写しを見た。

 少し前に飾り大工を呼んで取り付けさせたばかりの針茉莉(ティアンヨ)紋様の飾り窓から、濃い午後の光が注いでいる。その中でアルニラットは天女のようだった。

 蜜の伝う腕を放って、頬杖をつき、座椅子に身を委ね微笑する。緩く二つに分けて纏められた栗毛には瑞鳥の金飾りが舞っていた。女性らしさを満たした柔らかな肢体と、至上の美女と呼ばれるに相応しい、人間の顔から醜悪を取り去った美貌。アルニラットはどうしようもなく美しく在った。光を湛えた黄金色の大きな瞳がジャンタームを捉えて離さなかった。

 抗えないと、彼は知っていた。抗うまいとも思っていた。椅子から立ち上がって歩み、アルニラットの傍らで跪いて舌を差し出す。柔らかく滑らかな肌に恭しく触れ、何かの這う跡のような白蜜を舐めとる。

 淡い珊瑚色の肌。染みついた香の匂いと共に在る人の肉の匂い、薄い果実の匂い。ジャンタームは甘さと共に嚥下した。そうして指先までに口づけをした整った顔を、アルニラットは空いた手で撫で上げた。

 指は官帽を小突いて落とし、この地では珍しい金の細い髪を伝う。ジャンタームはちらとアルニラットの顔を見遣り、何事もなかったかのように濡らされた手拭いを手にとった。アルニラットの腕を拭き、畳みなおして盆に戻す。

「ねえ、今度海のほうを視に行きましょう。この前願い出を聞いて舟を増やしたでしょう?  上手くいっているか見たいわ」

 そんな彼の旋毛に降る、桃の香のする穏やかで軽やかな声は遊びの誘いに似ていた。というよりも、務めの薄皮を着た遊びの願い出であると、ジャンタームは勘付いていた。だが口には出さない。咎めることはない。

 彼は跪いたまま考える間を置き、主に応じた。袖を合わせて頭を垂れる。アルニラットの目には髪と同じように稀少に映る、草葉の色をした目が伏せた。

「……承知致しました。三日後から余裕がありますので、供を決めましょう」

「そうして頂戴」

 頷くアルニラット。ジャンタームはゆっくりと立ち上がり、床に落ちていた己の帽子を拾い上げた。濃い紫に花模様の金刺繍、後頭部を覆う白布と柔らかな手触りの房飾り。州の中で最上位の文官、政務官が戴く代物だった。

 何より、と望んで手に入れた地位の象徴を、ジャンタームは静かに頭に置いた。

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