二
「十人だ。申しつけのとおりにやった。持ち帰ってくれ」
「ご苦労」
木材、多くの柱と梁で覆われるように組まれた部屋は、息が詰まって重苦しい。耐久性が上がるなどと言って泥に似た薬を刷り込んで色を変えるからこうなる。これなら石造りのほうがまだ軽い印象がある。この部屋にいると頭痛がする。
閉められた窓と壁を隔て、風の鳴る音が聞こえた。すぐ傍で鳴っているような気がするが、実際はずっと下、谷の底で喚いているのだとよく知っていた。
――風は、処刑場から吹いている。亡者の呻きのように。
子供の頃に読み聞かされた絵本の、村々を打ち倒す大風を脳裏に描きながら。机に投げ出された獣皮紙を持ち上げる。その数、十枚――あるのだろう。この地で処された者たちの数だ。
机にかけられた、暖炉の代わりに赤色を見せる敷物が爪にひっかかる。朝に倉庫を見たときに欠けたところだ。腹が立つ。
「もうすぐ三百人だな」
視界の端で、室内で唯一白っぽい塊が動く。僅かな動きでも銀紡ぎを織り込んだ藤色の上掛けは色を変え優美に波打った。
「ヘルィーク、王様はまだ殺すのか?」
欠伸をしながら言う処刑場の主は、敷物とクッションを並べた床に直接座り込んで細身の煙管を咥えていた。
上掛けの下で、シャツは腹近くまで開いている。乱れた銀の髪は以前より艶が損なわれた。ような気がする。目も澱んでいる気がする。悪い物を体に貯め込み過ぎている。その上だらしない。
「知らん。どうだか」
火鉢で琺瑯の湯沸しが湯気を吐く。やはり目の端で、顎で示すのが見えた。溜息が出る。客人に手ずから茶を淹れさせるとは相変わらず無礼な奴だ。これだから表には出せない。
「俺が何て呼ばれているか知ってるか?」
仕方なく、書状を置いて茶を汲みに向かった背に笑った声で問いかけがある。持ち上げた袋がやけに軽い。茶の粉は隅に一塊、せいぜい一杯分しか残っていない。クソが。
誰も部屋に近づけず、だらだらと一人で勝手に飲んでは減らし、残りが僅かになっても何も言わず――無くなってから文句を言うのだろう。そうして気紛れに追い返した者が何人いるのだか。
「悪魔。魔物の類。呪われた、魔女の愚息」
袋の布地に入り込んだ分までかき集めて茶漉しに移しながら呟いた。不出来な童歌のようだ。
道中聞こえたかもしれない民衆の言葉は、なかなか酷いものだと聞き及んでいる。遠く、離れた場所からでも感じるあの憎しみの情、王の代理――王代候に向けるものではあるまいに。
まあ、それも仕方がない。俺たちは、王は、殺し過ぎている。
「そう。王命に従う忠臣にそう罵るのさ、民が」
イムイはひきつけのように笑う。ポットに垂らした茶漉し目掛けて注ぐ湯をかけてやっても、恐らく同じ反応を見せるのだろう。ああ面倒臭い。
部屋に不釣り合いの小さな火鉢しかない冷えた部屋で冷えた顔に湯気が触れ、炒麦の香ばしい匂いが立つ。ふと、うっかりと気が緩んだのは束の間のことだ。
「上手い具合に耳に入ったから、不敬の咎で何人か牢にぶちこんである。次があるならすぐ殺せるぞ。報せが来たらすぐに教えろ」
投げやりな声に気分は谷に落ちた。
王の気触れた命に厭いて問うたのだと思った、俺が痴れ者だった。
「お前は、嫌にならんのか」
「何がだ」
「――この務めが」
沈黙。静止。続けそうだった体を引くように動かし、色が滲み出た茶を杯に注ぐ。薄いが、味はするだろう。匂いはする。そして何より熱いのだ。
繰り返した問いにもイムイは笑い、そして大儀そうに立ち上がった。火種の残る煙管を放り、上掛けを広げて仰々しく歩み寄る。
エンドリカだな、と思う。嵐、吹雪の夜に空を飛び叫んで回る災いの魔女。こいつは男だが、こいつ以上に「エンドリカのよう」と形容してしっくりくる者を、俺は見たことがない。
伸ばしっぱなしの白の蓬髪、病人じみた肌と痩躯、喧しい振舞い。どれを、取っても。ああ、濁って淀んだ両目だけが違う。魔物のように煌々と光られても困るだけだが。
「ならん。せよと言われたことをやってこれほど憎まれ、恨まれる。面白いじゃあないか。戦になって殺すのと同じと思えば大したこともない。初王の王子だって百人殺したと云うしな。その後自刃したとも聞くが」
……加えて、王と同じく気の狂った言い回し。呆れたところで手にしていた杯が奪われ、茶がいくらか散った。
「お前、」
黒っぽい染みが高価な上掛けに点々と出来上がる。指に熱は触れたろう。冷まさない茶を流し入れられた口、喉にも。一度移したとはいえぐらぐらに沸いた煮え湯だった。
悲鳴こそ上げなかったが、噎せて幾度も咳をして、イムイは口元を拭う。
「お前、茶の支度が下手だな」
「お前は飲むのが下手だ」
声がしわがれて聞こえる。いよいよエンドリカ。爛れた舌で味など分かるはずもない。実際美味くはなかろうが、それは俺の責ではない。
半分ほど残った茶を突き返される。外側も濡れていて不快だ。目の前の野郎の飲みさしなど、飲む気にならん。
「……俺はとうに厭いている」
狂った暴君に従う狂った忠臣の、言葉は聞かなかったことにする。どちらかと言えば、王の側から見れば、俺のほうがまずい。この馬鹿者は今更告げ口などしないだろうが。
湯気の残る杯を紙から離れたところに置いて腕を組んだ。いっそのこと酒で温まりたいと思ったが、此処でそれを呟くのは愚策だと知っていた。
王は命を下す、刑吏は言われるままに殺す。最初は真っ当に罪人だったが、今は。麦を一握り袖に隠しただけで、毛皮の値を誤魔化しただけで、子が生まれたのを届け出なかっただけで、民が殺される。罪人と呼ぶには善良すぎる民が。四年前、十八で刑吏に就いたイムイが処した者の数は、他の処刑場で殺される者の数より十倍は多い。
異常だ、と分かりきっていた。しかし俺もただの臣でしかない以上、従うしかないのだ。イムイと同じように楽しむことはなくとも。――こんなものは政ではない。気晴らしにもならない。ただただ惨たらしいだけ。非道の行い。そう思いこそすれ。
「もうすぐ三百人だ。あと七人だ。何人殺せば、何になるんだろうな」
こちらの言葉を解した様子のないがらがらと荒れた声での呟きは、湯沸しから細く落ちた湯が火鉢を打ったので掻き消された。ジュウと焦げて跳ねる熱湯と共に灰が飛び散り、派手に床と、三百人も殺す刑吏の膝から下を汚した。巻きあがった灰がちらちらと雪のようだった。湯沸しを手にしたイムイはやはり笑っていた。こいつは笑うか、死んだような顔をしているか、それしかない。その為に俺の眉は寄り、消えない皺がついた。もっとも、こいつだけの為ではなかったが。
最南端イルール、俺が王の代わりに治めるコグフの処刑場でもうすぐ三百人の民が死ぬ。何の為かは知れん、王命だった。
処刑場から戻り馬を降りると、館の中から近侍が駆けだしてくるのが見えた。手には太い紐をかけられた紙の束がある。嫌な予感しかしなかった。馬を付き人に任せ、何も言わずに手を前に突き出す。
「お帰りなさいませ。今し方、国王陛下から書簡が」
やんわりと差し出されたところを捥ぎ取り、銀インクで紋章が描かれた木札を毟るようにして紐を解く。癖のある王の直筆が現れた。酒を飲んだわけでも、何を食ったわけでもないのに胸がむかむかとした。
――王代候ヘルィーク・ニズアタと刑吏イムイ・ロクシャンに命ず。エンレイ王ウクナトク・ランラドクの名を以て、コグフはイルールの地にて……
最早見慣れてしまった書きだし。案の定、処刑の希望だった。送って来るならば夜か、せめて朝に着くようにとも再三言ったはずだ。それが一度イルールへ行って戻ってきたところで。嫌がらせだ。
決まりきった文章を素通りして、数を示すところだけを探した。八日以内に四人とある。
誰を、とは書かれていない。誰でもいいのだ。処刑に関し、イルールが都に意見を仰ぐことはない。処刑の判断は常に都から一方的に送られてきて、後はイムイの裁量だ。俺がこれをイムイに届ければ、八日以内に四人が殺されるだろう。
こんな命令、気が狂っている。王は狂っている。それでも王だ。従わずには居れん。嗚呼!
「……確かに受け取った。が、明日にする。予定通りだ。もう今日は外には出ん」
「仰せのとおりに」
何か蹴り飛ばしたい気分になりながら、処刑の報告と処刑の催促を共に手にして部屋へと向かう。館の中では誰もが忙しそうに行き交っていて――刑吏の居住よりも明るく風通しの良い王代候の執務室には、手にした物より大事な書類はいくらでもあった。税の報告も戸籍の整理もまだ済んでいないのだ。
上着を脱いで椅子に腰かけると、すぐに近侍が茶と食事を持ってきた。二、三、言いつけをして下がらせ、ようやく熱い茶を口に含むことができる。胃がじんわりと膨らむ心地。
すぐに税や戸籍の仕事に移る気にもならず、ジャムの載ったチーズを口へ押し込みパンをちぎる。やすり掛けを後回しにした爪先がやはり不快だった。やすりは何処に置いただろう。
噛むだけ味はしたが、話し相手もなくそうしていると余計なことばかり考えた。噛むほど、疑問、憤りが胸に膨らむ。食い物で埋めようとしたところで無駄だった。肉体と精神は共に在るが、同一ではない。気を逸らしたつもりでも来たばかりの手紙が目に入った。
何年続けても、意味が分からん。王は一体何を考えている?
都から来る連絡は処刑に関することばかりだ。王ともあろう人が、土地と民の統治という何よりの仕事を疎かにし、軽んじているとしか思えない。王代候を何の為に置いているのか忘れているのではないか――我が、父は。
物を飲みこんでいた分か、溜息はたっぷりと出た。茶で押し戻す。
俺は子でありながら、王の真意が理解できたことなどただの一度もない。この生い立ちから。
何故、好色放蕩というわけでもない王は下女など孕ませ、その上、産むことを強要したのか。堕胎が罪とはいえ、方法はいくらでもあったはずだ。我が母はこの上ない難産だったとも聞かされている。放っておけば死んだに違いない。実際、母のほうは死んで、俺も生まれて暫く息をしなかったという。それでも産ませ生まれさせ生かしたのは王だが、そこに愛だの情だのがあったとは思えない。あるなら俺は王代候などではなかったかもしれない。
無理をして、是が非でもと生まれさせた子に、しかし王位やらをくれてやる気は微塵もなかった。一度もそんな素振りはなかった。王は俺たちから王家の名を剥ぎ取り臣下にした。最初からそう決めていた。武芸も学問も、教育は真っ当に受けたが、継承権だけは与えられなかった。王からも、神からも。王位は正后の子が継ぐことになっている。九も年下の義弟だ。
二十二年前の嵐の夜に生まれ落ちた俺たちは、正統な王子が生まれるより九年も前に作られたのだ。何の為に?
それが恐らく、今日の、三百人に至ろうとしているイルールでの処刑に結びつくのだと言うことは察しがついていた。俺とイムイとが揃いでコグフに置かれているのはその為だろう。結局、処刑が何なのか、何故王代候と刑吏に俺たちが据えられているのかは分からんが。
舌打ちして眉を寄せ、ポットから注いだ炒麦茶はまだ熱かった。啜って、飲み込んだ食事を胃へ落とす。
――「ヘルィーク、お前が王ならこんなことはしないんだろうな。お前は人格者だから」
珍しく見送りに立ったイムイが言った言葉を思い出す。隈の浮いた血色の悪い顔は無表情で、亡霊のようだった。熱い茶を流した喉から出る声は何か削るようだった。処刑の最中に刑吏のほうが死ぬのではないかとさえ思えた。あれは既に、処刑場に憑りついた亡霊になっているのかも知れない。
……せんとも。俺は正気だ。こんな意味の分からぬ振舞いをしたりはしない。
イムイは言うだけして、会話にせずさっさと屋内に戻った。返さなかった言葉を胸の内に呟く。俺ならば――俺が王だったならば、けっして、このようなことはすまい。俺ならもっと正しく国を治める。けれどそれは夢想に過ぎん。俺は王の子でありながら、王にはなり得んのだ。おお、妾腹のこの身が疎ましい。俺は持って生まれなかった!
それならばいっそ……否。考えてはならない。それは逆賊の謀だ。
乱暴に窓を開け放つと冷えた風が舞い込んだ。置いたままの書状の上に文鎮を載せ、努めて遠くを見遣る。彼方に薄く、白く翳る山の影が見えた。
古、創世の折に夜神が口づけたという神山は、隣国――央国の墓標だ。春が姿を消し雪に閉ざされた地は、今亡びに向かっている。民も王もただ祈り続けるだけの日々だという。
……エンレイはどうだろうか? 央国の趨勢は同じ陸にある他の国々にも影響を及ぼすと古い話にはあるが、我らが国も、あの白雪に呑まれるのだろうか。
なんでもいい。どうしようもない。
俺はただ見守ればいい。それが臣の役割だ。国を動かすのは、神に冠を授けられた王にのみ許される。
強い風が吹き、山より遥か手前、敷地の端にある見張り塔の上で濃緑の旗がバンと音を立てた。大樹を守って立つ剣の紋章が身を捩っているのが、国の呻きに思えてならない。
魔女が来るな、と思った。昔からそうだった。嵐の前は予感がする。すぐに察しが付く。嵐になるならば、王に書簡を返すのが遅れても仕方あるまい。後で纏めて届けてやればよい。