シのないピアノ
私の右薬指は、神経が通っていません
十三歳の春にピアニストになる夢を諦めました
今は十五歳の秋
進路指導の先生の言葉がウザくて仕方ない
誰か私に生きることの喜びを下さい
誰かにそう望んでも返ってくる言葉はただの受け売りの言葉
私はそんな言葉なんかの必要じゃ無いのに
神様なんて居ないとそう半ばやけになって生きていた
……それが現実
秋の静けさの中、一段と寒くなってきた深夜の商店街を、運悪くパンクしてしまった自転車を一人の少女が押して歩いていた。
普段この場所を通ると、バカ騒ぎした学生や、酔っ払った中年サラリーマンを目にして嫌な気分になる。だから、自転車で何も見なかったことにしてスーッと走り去るのが最善の行為だと南花梨は知っていた。
しかし、この時たまたまこの状況が生涯かけがえの無い出会いに繋がるとは、夢にも思っていなかったのである。
響き渡る澄んだテノールの歌声が、ちょうどその前を通り過ぎる時耳に焼きつく。それが何故だか妙に心に落ち着くから不思議であった。オケの無いその歌声は、花梨の心を捉えるのには余りにも質素であったが、その隠された情熱を感じ取ったのである。
そっと立ち止まり五人ほどの取り巻きを横目に気になるその人物を見た。 そこには自分とさほど年齢が違わないであろう少年が、一人歌っている。
ちょうどライトアップされているその場所だから分かったが、金色に染め上げている軽やかな髪が印象的であった。
『不良?』
ちょっと敬遠したい類の人物かもしれないとは思ったが、何しろ、これだけ花梨を魅了する歌声に出会ったことは初めてだった為に、その場に釘付けにされていた。
どのぐらい時間が経ったのかも忘れる程に、その場を離れることが出来なかったが、その少年がその場を立ち去ろうとした時ハッと我に返り自宅に向かうこととなった。
帰り際、胸がドキドキしている自分に気がつき、その気持ちを抑えることが困難な自分と向き合うことが難しかった。
それからというもの、その場所に訪れては、少し離れた所で歌声を聴くことが日課になっていた。
ピアノに関係する物を排除し、全ての音楽番組、雑誌、CD類を遮断して生活するようになった花梨にとって、このことは一つの大事件でもあった。何がこんなに自分をときめかすのだろうか?そんな謎解きは、必要であろうか?
解らない。
だけど、何かが自分をせっつかせている事だけは間違いなかった。だから、夜あの場所を訪れるのは良い傾向であったと自覚するようになった。
何かが変わり始めているのかも知れないと。
うるさい進路指導の先生の言葉が耳から抜けていくだけ抜けて行った放課後。一人、自らの教室に向かった。
ピアノで推薦入学が決まっていたようなものの、結局はその話も無くなった今、普通に進学しなくては成らなくなった為、その進学すべき学校を選ばなければならなくなった。
成績、素行共に悪くない。中の上といった花梨は、一般的な先生が望むような学校を選ぶ事だって可能ではあった。
しかし、決まらない。何処に行きたいなんてそんな事今更言われても、考えることなんて出来はしない。ムシャクシャして仕方ないから、
「先生が決めてください!」
それだけ言い残し、その場を離れた。
元来、大人しく反抗もしたこともない花梨であったため、担当の先生の目は驚きのために見開かれていた。それを横目に、進路指導質のドアをピシャリと閉めてきた。
「清々した」
花梨は少し痛む心を落ち着かせながら廊下を歩いて帰宅する為に教室のドアを開けた。
「?」
開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、誰も居なくなっているはずであろう教室の或る一点。自らの席に、うつ伏して寝ている男子生徒が居ることに気がつき面食らってしまった。
「クラスの子じゃ無いよね……」
こんなド派手なナリをした人物は知らない。しかし、起こして良いものであろうか?難癖つけられて、後で痛い目にあうのは嫌だしなと、考えを巡らせてみる。
仕方なく、花梨は隣の席に座って目を覚ますのを待ってみることにした。
三十分経過……
一時間経過……
一時間経過……
「いい加減起きてよ!」
荷物をまとめることが出来なくて、苛立つ心を抑えることが出来無くなったため、隣の席の子が残していった机の中のノートをメガフォン状態にしてその学生の耳元で叫んでいた。しかし、一向に起きる気配が無い。
「火事だ〜!」
これでもかといわんばかりに大声で叫んでみた。
「あん?……火事〜?」
ちょっとだけ覚醒に近づいたのか?しかし、モゾッと動いただけでなにやらムニャムニャ言っているだけである。
「こいつ……絶対焼け死ぬタイプだわ」
呆れるしかすること無くて再び椅子に腰を下ろす。そんな時、
「ふぁ〜、よう寝た〜」
大欠伸をして上方に腕を伸ばしている。
「あ……」
驚いた。その学生が、毎夜聴きに行っている商店街の少年であることに気がついたからであった。
一言漏らしたその声で気が付いたのか?少年は花梨のほうを見て、
「勘弁。寝ちゃってたわ」
歌声と変わらない甘いテノールの声。驚きの余り花梨は言葉を失っていた。
「ここの席ええわな。ほらっ、隣の校舎のちょうどこの教室のまん前、音楽室なんね。風向きもええ具合やってん。ピアノの音が心地ようて思わず寝てしもうたわ」
照れ隠しのように笑う顔が余りに子供じみて思わず見入ってしまう。ピアノと言う単語を不愉快とも思うことなく。
一年生の名札のプレートが胸に付いているのに気が付き、
「高坂君……って言うんだ」
思わず呟く。
「そうやけど……あ〜こんな時間なんやん!」
教卓の上の時計を見て慌て始めた。
「お姉さん悪いわ〜こんな時間まで待たせたん?そうやこれ、お詫びなんだけど、ぜひ来たってな?」
ポケットから取り出す一枚の紙切れ。
「ライブハウスって訳やないんやけど、ここで俺歌ってんよ。サービスも何もないんやけどええ仕事してますよって!」
それだけ言い残すと、大慌てで去って行った。それはまるで嵐のようで、花梨は一言も言い返すことが出来なかったのである。
手元に残された紙切れを見る花梨。
『高坂英二コンサートチケット』
手書きで書かれた自作のチケット。地図もサインペンで書かれた定規も使ってない簡単なモノ。思わず噴き出してしまった。
「毎日通ってるわよ」
ひょんな所で出くわせてしまった、この高坂というキャラクターに、今日有った不愉快なことなんか全てすっ飛ばしてしまっていた。
「来てくれたん?」
高坂は、取り巻きの女の子達を潜り抜けて子犬のように駆け出してきた。
「チケットくれたから」
思い出して噴き出しそうになるのを、花梨は必死で堪えていた。
「嬉しいわ。ここ空けとるさけ、ここで聴いていってな」
取り巻きの女の子達が一瞬花梨に向けられる。何か言いたそうなのが手にとって分かった。この子達にしてみれば、高坂は一種のアイドルなのであろう。その人物と親しく話すとなると、敵として見られるのは当然だ。
アハハハハ……乾いた笑みがこみ上げてくる。
「歌を聴きに来ただけだから」
そう一言言えたらいいが、そんなことはいう気にならない。くだらなすぎて……
こんな近くで歌を聴くのは初めてであった。いつもは遠巻きに聴いていたから。
しかし、なんて楽しそうに歌うんだろう?
そう感じるだけの、表情に豊かさをこの高坂は持ち合わせている。
素直な気持ちをそのまま歌い上げることが出来るのは、天性の素質なのかもしれない?
花梨は目を閉じて聴いてみた。溢れる思いの篭った気持ちの良い声。その上に、決して間違えることの無い音程。絶対音感の耳を持っているとまで言われたことのある花梨の耳にその声は本当に心地よかった。
音楽は無限なんだと思えるほどに。
「どうやってん?俺の歌?」
終わった後、花梨を呼び止めて高坂は訊いて来た。
「うん。すごく良かったよ!」
いつも聴いているとは言えないから、素直な感想を言った。
「ほんま?嬉しいなぁ」
ニコッとあどけなく笑ってる辺りは、まだまだ一年生らしい表情で、花梨は安心した。
歌っているときは、少し大人びて見えるから。
「また来たってな。楽しみにしとるさけ」
そう言って別れた。
一人でも多くの人を集めるつもりなんだろうか?この時はそう思っていた花梨であった。
次の日も、次の日も。花梨はこの場所を訪れる。
いつの間にか、常連になって高坂と逢う機会は多くなっていった。それが、恋人同士のそれではないかと疑いの目を向けられ始めても、当の本人たちは関係なかった。
気の合う友人。その言葉が似合う。花梨はそう感じていたから。
「お姉さんの指、綺麗やな」
そんな会話まで交わす程に親しくなった頃には、学校の登下校まで一緒にするようになっていた。そして、近くのファーストフードに立ち寄ったのが話しのきっかけとなる。
「綺麗?そう……でもね、私のこの右薬指はもう動かないの」
自らの右手の指を撫でながら、花梨は別段憎しみも、苛立ちも込めることなくサラリと言ってのけたつもりだった。しかし、高坂は少し傷ついたかのような目で花梨を見詰めた。
「そうなんや……知らなんだ。もう……ピアノ弾けんのやね」
「え?」
何故知っているんだろう?花梨の頭は真っ白になった。
「私の事……知ってたの?」
高坂は少し考えるようにして、
「うん。知っとった。俺が歌始めよう思うたんお姉さんの影響やもん」
高坂は、全てのことを花梨に話す決心でも付いたかのように、口を開く。
「俺が十歳の時、従姉妹がピアノの発表会が有るとかで、たまたま東京に来ていた俺を連れてその会場に行ったまでは良かったんやけど、まさか、天才いわれる子が出るとまでは聞かされてなかったてんな」
一口、コーラーをストローで啜った。
「始めは、従姉妹が出たらそれで興味なかったんや。持ち物チェックを逃れて、ダビング用のテープ持ち込んで、『記念に録っておいてね』言われてたからそれさえ終われば後は興味なかったし。やから、終わった後ウトウトして居眠りしそうになった時やった。静かなざわめきが起こって、何ややろ思たわ。出てきたはずの女の子が躓いてこけたみたいなん」
花梨の中にある、そのときの記憶が蘇った。
「どんくさ……思たんやけど、その後、この俺でもほかの子とは全く違うと判る程綺麗で力強いピアノの音を聴いて痺れたんよ。俺もこんな風にピアノが弾ければなて」
思い出す。緊張感と躍動する気持ち。花梨にとったらただの発表会じゃなかった。一部の観覧席に居る人々のことを知っていたから。それは、ピアニストになる為の階段の一つだった。認められるかどうか?それがあのときの状況だったのである。
「俺、ピアノ始めたんよ。そのあと直ぐ。でも、俺には才能ないん分かってん。やけどソルフェージュだけは褒められて、歌に転向したんやね……歌手になろう思うて東京まで出てきたん……お姉さん追っかけて」
そういう経緯なのかと花梨は初めて知った。自分に近づいてきたのは全て、前段階があったから……でも何故そこまで?冷静に考えてみれば、歌手とピアノは関係ないではないか?
「で、私がピアノ弾けなかったら、もう必要ない?」
花梨は何故だか落胆に近い物を感じていた。結局ピアノが弾けない自分なんて必要とはされないであろう。
「そう言う事言うん?お姉さんは、ピアノだけが音楽やって思っとるん?俺はちゃう思うよ。楽器が何であろうと、音楽は出来るんちゃうかな?それともお姉さんの音楽ってそう簡単に割り切れる物なん?」
高坂は、ジッと花梨を見詰めていた。
花梨は考えていた。ピアノが好きだから、ピアノが弾けなくなったから、全てが終わった。ってそう考えてきた。でも、こういう言葉を返してきてくれた者は今まで居なかった。
私はピアノが好き。鍵盤を叩くのが好きだった。でもそれだけだったのか?音楽という広い世界を感じたことは無かったのか?考えると不思議と心が揺れた。
私は、音楽が好きだったからその中の一部。ピアノを選んだに過ぎないのではなかろうか?だから、音楽に関係する物から遠ざかった。そして全てを切り離した。
なのに、高坂の歌を聴いてから、再び音楽の世界を垣間見ていたのではなかろうか?
「分からない……私の出来る音楽って何?」
「方法ならいくらでもあるんとちゃう?」
高坂は上げ列ねた。ギターに、バイオリン、ドラムに、声……
その中に、自分が興味を引く物って何だろう?そう考えて行くと色々道が広がるように感じられる。
「俺は、声を楽器やと思っとる。これは、誰にも譲ることがでけへんもの。お姉さん?もし、ホンマに音楽やりたい思ってるんやったら、ピアノにこだわることないんちゃうやろか?俺そう思うわ」
高坂はニコッと笑った。
あんなに真面目に話していたのに、気が変わったんだろうか?それとも?
「俺は、お姉さんに音楽続けてもらいたいんよ。じゃないと、ここにおる意味が無いもん」
それはどういう意味なんだろうか?花梨には分からなかった。
「私が音楽続けることに何か意味でも有るの?」
その答えを、高坂は声を上げずに笑って誤魔化した。
「ちょっと〜何よその意味ありげな笑いは!」
変だな?何でこんなにムキになるんだろう?花梨がそう思った頃には、高坂は立ち上がっていた。
「お姉さん。この本あげるわ」
高坂は鞄から一冊の本を取り出した。
「ギター教本?」
「右手の指は関係ないから、ギター弾いてみいや……きっとはまると思うわ」
高坂は楽しそうに片付け始めた。
「ギター……ね」
それは全く未知の世界であった。
花梨は少し考えて、その本を鞄に仕舞い込むと、高坂を追う様にして、その場を立ち去った。
花梨は早速帰宅して、ギター教本片手に、父が昔使っていたフォークギターを引っ張り出しかき鳴らしてみた。
「ふーん。これが開放弦でミ」
凄く新鮮な感じだった。
ピアノの音とは全く異なっているが、確かに音が鳴っている。そして、
「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ……」
感動した。『シ』が弾ける……
右指でピアノを引こうとしても、運指法で弾けなかった音。
しかし、そのギターは暫く使っていなかった為か少しずつ音が狂っていることが分かった。花梨は、調音の仕方を教本を見ながらこなしていく。そのことさえもが、今の花梨にとって大事なことのように思われた。
こんなに楽しいと思うのは久しぶりのことに感じられる。瞬く間に、コードまで覚えて簡単な曲を弾くことが出来るようになった。
初めは、左指で押さえる弦の強さに慣れずに、痛い思いをしていたが、それはピアノが弾けなくなった時の事に比べれば困難なことではなかった。
それからは、本屋に通い詰めてバンドスコアの本を買い求めていた。
そして、いろんな曲を弾けるようになる頃には、そのギターを片手に、高坂のいる商店街に通い始めたのである。
「お姉さん?めちゃ早いんとちゃう?」
高坂は笑ってそう言った。
「そうなのかしら?でも面白いのよ」
花梨の心は潤っていた。ピアノが無くても私にはこれがある。そう思えることが出来たから。
「ねえ、いつも高坂が歌っている曲弾いてあげる」
伴奏する楽しみが出来た。曲に合わせて高坂が歌う。それが楽しかった。
今の自分にこんな気持ちをくれたのは、他の誰でもない、高坂だったから。
「目的は、これだけじゃないんよ、お姉さん?」
なぜかぶっきらぼうに高坂は答えている。
その理由が解らなくて、花梨は小首を傾げたが、何にせよ、道が見つかったと思えた。
二人が奏で出す音楽は瞬く間に近所の商店街を活気付けた。来る日も来る日も立ち寄る者達は後を絶たない。
いつしか地方記事にも軽く取り上げられていた。
「俺ら有名人?」
軽く微笑む高坂の顔はほころんでいた。
「これくらいで、有名になったなんて思うのは筋違いよ!もっとビッグに成らなきゃ!」
花梨は思っていた。もっと大きなところでコンサートをしたいと。
そして、いつしか時は流れ卒業式を迎える時期になった。
花梨は、T高校に入る決心を固めて入試に挑み、後は結果を待つだけだった。
結局学校は何処でも良かった。ただ、部活動としてバンド活動が出来る所を選んだ。進路相談の先生のうるさい攻撃にも耐えて決めた高校である。花梨にとって、満足がいく学校生活が送れれば何も文句を言う事など無かったからだ。
式後、担任の先生との別れを惜しむことなく学校を後にする。
音楽を通して仲良くなった友人くらいしか別れを惜しむことは無かった分、花梨にとって後腐れの無い学校だったといって良い。
そんな花梨が校門をくぐった時、
「お姉さん」
呼び止められて振り返る。直ぐにそれが高坂だと気が付いた。
「いつまで経っても、お姉さんだもんね」
私の名前知っているのかしら?と呆れる。
「花梨ちゃん呼ばれたい?」
花梨はブッと吹きだした。可笑しい。
「卒業ねんな……」
高坂はちょっと寂しそうに笑っていた。
「卒業しても、高坂とは嫌って言うほど会えるでしょ?何も今生の別れじゃ無いんだから」
花梨は、クスリと笑った。
「高坂のおかげで私の道が見つかった。凄く感謝してる」
『忘れないよ』
と一言言いたかったが、またいつでも会えるんだしと、言葉を切った。
「あんなぁ俺、大阪に帰るねん」
「え?」
どうして?と問いかけたかったが、先に高坂が切り出した。
「お姉さんと逢えて話でけて良かったわ。ええ思い出がでけたもん」
どう言う事?歌手になるんじゃ?
わけが解らなくて、頭が混乱してくる。
「俺、あっちの病院に用があるん。実は心臓に欠陥があってな、手術せなあかんのよ……確率は低くてな、三十%有ればええほうなん。でもせなあかんのやて……めんどいことやなぁ〜」
そんなこと聞いたことなかった。私は高坂の何を知っていたんだろう?今までのことが、全て色褪せていく。
「もう、こっちには帰って来れないの?」
高坂は、ニコッと笑って、
「帰ってきたいわ。でもそれは全て手術次第なんよ……祈っててや。ほなもう行かんと時間に間に合わんから」
去ろうとする高坂の腕を、花梨は思わず引っ張っていた。
「なん?」
「あ……連絡先くらい教えていきなさいよ!私、高坂の声に惚れてるんだから!」
訳が解んない事言っていると思った。だけど、それ以上言う言葉が見つからなくて……
「捜し出してぇな。俺がお姉さん捜し出したみたいに……」
高坂の腕がスルリと離れていく。そして駆け出していった。遠ざかっていく高坂の後姿。
心臓に欠陥?嘘でしょう?あんなに走っているのに……
花梨は心の中で呟くと同時に今くぐってきた校門の中に再び足を向けた。
高坂の実家は直ぐにわかった。学校の生徒名簿を調べるといとも簡単に。
「高坂君は、体育は全て欠席してたのよ」
高坂の担任から聞かされた。
高坂の言ったことは本当だったんだ。と、初めてここで知った自分を恥じた。
数少ない友人の一人の筈が、実はそうじゃなかった?そう呼ぶべきじゃなかったんだと知らしめられた時、自己嫌悪に陥りそうになった。
「手術……するそうですね?」
「ええ、三日後だそうよ」
先生は知っているのに私は知らない。
とにかく住所を書き留めて花梨は足早に学校を去った。このままにしておける訳が無い。
果たして迷惑なんだろうか?私は迷惑だった?
高坂が居てくれたから今の私が居る。居なかったら、いつまでも自分を見つけられずにいたのではなかろうか?
「決めた!」
花梨は試験の発表を待たずに、次の日、家族に書置きを残したまま家を飛び出していた。
「高坂君?気分はどう?」
看護婦が手術前の個室で声を掛ける。
「いたって気分ええねん。さっさと始めてや」
「もう少し待ってね。あと少しだけやから」
看護婦は近くの時計の針を気に掛けているようであった。
「なんや?落ち着かんみたいやけど?」
「ん?ちょっとね……あっ」
突然バタバタと駆け込んでくる足音が聞こえてきた。
「何や?ここ病院やろ?うるさしてええん?」
バン!と開け放たれる扉。そこに立っていたのは花梨であった。
「な?どないしたんや、お姉さん!?」
乱れる息を整えることを先決だとも思わずに、花梨は、ズカズカと部屋に入ってくる。
「捜せと言ったのは高坂でしょ!来たわよ!このままさよならなんて許さないからね!気合入れて帰ってきなさい!私は高坂が必要なんだから!以上!」
高坂は、目をパチクリとさせながら、花梨を暫くの間見ていた。しかし、そんな中いつもの笑顔で笑い返してくる。
「かなんな……お姉さんには……あん時とはまったく逆やん……帰ってきたらちゃんと名前で呼ぶから待っててや」
高坂は、右手を差し出した。
「バカ……」
花梨がその手を右手で受け止めると、
「やっぱ、お姉さんの指綺麗やわ」
とニコッと笑う。
「それでは、手術の時間になりますから、移動します」
時間を確認した一人の看護婦が、カラカラとベッドを移動し始める。
高坂は、見えなくなるまで花梨に手を振っていた。そしてその姿をいつまでも花梨は見送った。
高校卒業と同時に花梨は、高校時に知り合った気の合う仲間とロックバンドを組んで、一年前念願のデビューを果たしていた。そして、今ではそこそこ売れるようになっていた。
「花梨!今日このままご飯食べに行くけどどうよ?時間空いてる?」
ボーカルの有希が、花梨の身支度を待って控え室の扉の向こうから声を掛けてくる。
「あ、ごめん……今日は、これから大阪に行かなきゃいけないの」
身支度を終えた花梨は急いで時計を見る。
「あ、前言ってた高坂クンね……分かったよ。でも、明日の夕方にはちゃんと戻ってきてね。歌番組の収録があるんだから」
「うん。分かってる」
花梨はそう言い残すと、足早に控え室を後にした。
「久しぶりね」
あの後、十二時間もの手術を乗り越えることが適わなかった高坂はそのまま還らぬ人となった。
花梨は、高坂の実家の母親とは連絡を取り毎年命日のこの日この場所を訪れている。
「何とか私の方はやってるよ……どう?ここの見晴らしは……寂しくない?」
語り返さないただの墓標に向かって花梨は話しかける。毎年そうだった。欠かすことの無いこと。
「天国ってさ、どんなところなんだろう?っていつも思うよ。神様なんて居ないなんて思っていた私だけどさ、少しは信じてみる気持ちにもなってる……私達出逢え無かったら、今私はこうやって音楽続けられるなんて思ってないもの」
こみ上げてくる物を振り払いつつ、花梨は言葉を紡いだ。
「今度ね、全国を回るコンサートツアーやることになったの、凄いでしょ?その時に一曲だけ、高坂が好きだったあの曲、アンコール用にカバーで弾くことになったんだ……」
静かに流れ落ちてくる涙を拭いとることも忘れてしまって、化粧が剥がれ落ちてくる。
「そっちで歌ってよ……私に聴こえるように……」
花梨はそのまま蹲ったまま立ち上がれなかった。何も考えられない気持ちが心の奥で燻っている。しかし暫くそのままの格好で居ると、不思議な事に、何処かしらかあの曲が流れてきた。
「え?」
振り返る花梨。直ぐ後ろには、高坂の母親がコンパクトラジカセを持って立っていた。
「これな、花梨さんに差し上げるわ」
ラジカセから取り出した一本のテープ。
「英二が残して逝った、たった一本のテープですわ。最近になって出てきたんですけど、私が持っとるより、きっと英二嬉しいんとちゃうんや無かろうか思うてなぁ」
『歌手になりたいんよ』
と言った高坂の言葉が蘇る。凄く綺麗なテノールの声。思い出が鮮明すぎて泣けてくる。花梨の涙が流れきるまで何時間も掛かったが、高坂の母親はそれに付き合ってくれた。
「英二もええ友達に恵まれたもんですわ」
ただそう言って頭を撫でて笑ってくれた。
帰りの新幹線の中、花梨はそのカセットテープを帰り際に立ち寄ったデパートで買ったカセットウォークマンで聴きながら東京に向かった。
夕方からのスケジュールも間に合うかどうかと言う瀬戸際だと言うのに、思い出に浸っていた。
テープのラベルには、ボールペンで書かれた『十二歳』の文字。
きっと。高坂が十二歳の時に録音した自らのテープなんだろうと推測できた。
しかし、隠されていた言葉と曲。花梨がその事に気づいたのはB面の最後であった。
『この曲は俺の大好きなピアノ曲ですわ。そして初恋の人が弾いてくれた最後の曲なんよ』
それは紛れも無く、自ら弾いたあの最後のピアに曲。くぐもった音声の中流れ始める。
「知らなかった……てのは嘘だったんだ」
初めから全て知っていたんだ……花梨は高坂の言いたかった自分への最後の言葉だと言う事に気が付いた。そして止め処も無く涙が零れ落ちてきた。
『お姉さんの指綺麗やな』
花梨の心の中に蘇った言葉。
途切れる事無く流れ落ちてくる涙が止められない。全てが一生忘れられない思い出になっていく。
花梨は初めて神様の偉大さに気が付いた気がした。今自分の中に浸み込んで来るこの曲と、高坂の言葉は、自分への戒め。
「一生の願いここで使っても良い。高坂が、天国で歌っていてくれますように……生まれ変わっても、歌うことを忘れさせないで……」
高坂が救ってくれた私は今前を向いて歩いている。
花梨の耳に流れ込んでくるその曲は、東京の新幹線の中、何度も何度も繰り返されていた。
好きだったあの人の歌……