居酒屋5
「親父なんてのは所詮、踏み台だろ」
「え?」
意外な言葉に驚いて相手を見る。
「踏んづけて、親父より上に上がるのが結局は親孝行ってもんだ」
村山は息をついた。
「あの人は仁王立ちで立ってるんです。肩に足なんか届かない」
「馬鹿かお前は。自力でそこまで飛ぼうなんて思うから無理だと思っちまうんだ」
明石は肩をすくめる。
「脚立を用意するとか、トランポリンを使うとか、あるいは親父を殴ってKOするとか、いくらでも方法はあるだろうが」
「……はあ」
そう言われても、どれも現実味がなかった。
「ま、俺の場合は親父が自分からしゃがみこんでたんで、頭を踏んづけるのも簡単だったがな」
「え?」
明石は顔をしかめて首を振った。
「それはそうと、世評では、お前は院長の椅子のために父親に逆らえないということになっている」
「……は?」
酔いのせいかと耳を疑って村山は明石を見る。
「院長の椅子?」
「そう。それを譲ってもらうまではひたすらぺこぺこしなきゃならんとな」
「だって、そんなのはぺこぺこするまでもなく、俺が継がなきゃならないもので……」
「対抗馬の方が優位にある」
意味がわからない。
「対抗馬って?」
「そんなもの、志村部長以外に誰がいる?」
義兄の名を聞き、村山は持っていたコップを落としそうになった。
「まさか……」
「まさかもくそも、誰が見たってそうだろ?」
「そ、そんな馬鹿な!」
思わず村山は声を上げる。
「ここまできて演技をするメリットはないぞ」
「……何で演技?」
目眩がするのは酔いがかなり回ったせいか。
「本当に知らなかったのか?」
面白そうに明石は口の端を上げた。
「そんな間抜けな話はないと思うが、そうだとすれば、さぞかしショックなことだろうな」
村山は震える手でコップをテーブルに置きながら頷く。
「……そりゃそうです。もしそれが本当だったら」
彼は机に肘をついて、くらくらする額を手で支えた。
「だったら俺が医者になる必要なんてなかったのに!」
詩織が医師にならなかった場合、後継者は村山しかいない。
村山の親戚もそのつもりのようで彼に何度もはっぱをかけていた。
継いでくれる人が他にいると知っていたなら、自分はもっと違う道を歩んだろうに。
「もっと早く言ってくれたら、俺は……」
「俺は?」
「院長にならなくていいなら、こんな町に帰らなかった」
顔を上げて明石の瞳を見つめ、村山は唇を震わせた。
「医学部なんて行かなかったのに。飛行機とか自動車とか造りたかったのに。切っても血の出ない金属パイプを旋盤で思う存分削ったりとかしたかったのに」
心の隅に押し込めていた、医師という職業に対する嫌悪感があふれ出す。
「先生の言う通りです。俺には信念もやる気もない。あったのはただ義務感だけ。小さい時からならなきゃ駄目だと信じ込まされてたから、厭々こんな仕事を選んでしまった」
村山は手のひらで机を叩く。
「なのに今更いらないって言われたって、どうしていいのかわからない。世間にここまで潰しの利かない職業ってないってのに」
呆気にとられたような顔が、しばらくしてしかめ面に変わった。
「……いや、参ったな」
明石はしばらく手の中のコップを左右に動かしていたが、やがてふうと溜息をつく。
「さっきのさっきまで俺はお前を偽善者だと……そうであって欲しいと一縷の望みを繋いでいたが、正真正銘の馬鹿だったとは」
「馬鹿で悪かったです」
「悪い。本当に悪い。偽善者の方が余程ましだ」
相手は険しい顔を崩さない。
「……偽善者なら、やる気のない振りをしているだけかもしれないと勘ぐれた。どこかに野心が潜んでいるかもしれないと思うことができた。だけどほんとにやる気のないお坊ちゃまだったってことがわかってしまったら、もうどうしようもない」
村山は今度は両手を机についた。
「今すぐ医者、やめていいですか? 俺、ほんとに向いてないんです。嫌で嫌で仕方なくて、何で毎日こんな思いをしないといけないんだろって思って仕事してるんです」
「仕事なんてどれも一緒さ。大変じゃないものなんてない」
「それでも俺には他にもっと向いてる仕事があるはずだった。人間相手じゃない仕事、そう、ムンテラしなくていい仕事とか」
ムンテラというのはばっくりいうとインフォームドコンセントみたいなものである。
「ムンテラが大好きなどと言う外科医に会った試しはないぜ」
「それだけじゃない。血を見なくていい仕事がいいんです」
「……は?」
唖然とした表情に頷く。
「俺、実は血が大嫌いなんです。だから必死で血管くくるんです」
明石は酒を飲もうとしたがコップが空だったので、一升瓶を取り上げた。
「なら何で外科を選んだ?」
「成り行きです。親父がマイナーを許さなかったので、内科か外科かどっちかだったんですけど、煙草が吸いたかったから……」
いつものように言ってから、ふと、本当はそれが理由ではなかったのかもしれないと思う。
外科に比べて、内科は患者と向き合う時間が長い。
そんな風に当時、自分は考えていなかったろうか……
「……馬鹿もんが」
村山のコップにもなみなみと酒が入る。
「志村部長のことを知らなかったのも馬鹿だし、自分が医者に向いてないって思っているのも馬鹿だ。自動車造りたいなんて夢みたいなこと言ってるが、自動車メーカーに入るの、どれだけ大変か知ってるか? その中で何人が実際に車造りに携われるって思ってるんだ? それにお前に就活できるか? そもそも人間の相手しない仕事なんて世の中にあると思ってるのか?」
「メーカーに就職しなくったって、整備工なら車いじれます。少なくとも今より人との接触もなさそうだし」
「食っていくのは大変だぞ?」
村山は酒を飲む。
「これでも経験者です。大学の時、四回生までバイトさせてもらって、調子に乗って整備士も二級まで取りました。腕がいいって褒められもしたんです」
「腕がいいって、修理の腕か?」
「それもあるけど、ちょっとした部品を作るのが得意なんです。古い型の車だと、メーカーが部品製造中止してたりするんで、一部品が壊れたら即廃車だけど、エンジンやシャシーみたいな生死に関わったり、やたらでかかったりするところじゃないなら、取り合いの改造だけでなんとかなるし」
「コンプライアンス違反だな」
「だって、まだ生きられるのに廃車だなんて車が可哀想でしょう? それに部品製造は勝手にしたけど、ちゃんと品質にはこだわったんです」
村山はにっこり笑った。
「元々の部品がSUSの304のところを腐食防止にモリブデン多めの材料使ったりもしたし、同等以上の品質であることを証明するために、廃棄予定のオートグラフを簿価で買い取ってパソコンでシーケンス組んで信頼性試験もしたし、アルバイトの振りして材料加工してる工場に潜り込んでQCも確認したし、やることはそれなりにやったんです。ちゃんと車検も通るぐらい外観も精巧でしたよ」
再び相手は溜息をついた。
「子供か、お前は」
上から目線に腹が立つ。
「だし巻きを独り占めする人に言われたくはありません」
「食いたかったんなら言え、黙ってたらわからんだろうが」
むっとした顔で明石はこちらを睨む。
「思ってること、ちゃんと口にしないから周りに舐められるんだ。意味もなく親にぺこぺこしてるから、みんなから腹に一物あるって勘ぐられるんだ」
村山も負けじと相手を睨む。
「じゃあ欲しいと言えばだし巻き、俺に最後の一切れくれましたか?」
若干ろれつが回らない自分に気づく。
「……やらなかった」
「ほら」
明石はさらに嫌な顔をする。
「ほんと面倒くさい奴だな。二人前頼めばいいことだろ? だからお前と関わるのは嫌なんだ」
「関わるの嫌だったら、どうしてあのとき院長にあんな事を言ったんです?」
ふらふらする頭に、あの日の疑問がフィードバックした。
「どうして俺を庇ったんです?」
「……正直、最初は興味なかったんだが、あのときお前は外科医の面子をかけて院長と対峙した。だから仕方なく手伝った」
「嫌いな人間のために、嘘八百並べて……」
「嘘は言ってないし、それに」
明石は酒を飲んだ。
「俺は媚びへつらう男は嫌いだが、誇り高い男は好きだ」
どうしてか村山は泣きそうになった。
「先生、あと一年でうちをやめるんですよね?」
「半年」
「だったら俺も一緒にやめます」
意味のわからないことを口走った気もするが、それすらどうでもよくなってきた。
「……あのな」
明石の顔が遠く見える。
「俺とお前は立場が違うだろ」
「そりゃそうです、先生がいないと困るけど、俺がいなくても誰も困らない」
「所詮俺は雇われ医師だが、お前は違う。お前の意志一つでどんな病院にでもできる」
声もどうしてか遠い。
「だから、何もかも諦めて良い院長になれ」
村山は朦朧とした頭を振った。
「……みんな俺に期待なんかしてません。部長もそうだし、周りも、みんな」
「部長も医長もお前が院長になると困るから妨害している」
「え?」
一瞬、気を失っていたのか聞こえるはずの台詞が飛んだ気がした。
そうでなければ相手の台詞を理解できない理由がわからない……
「でも、医者は向いてないし……」
「諦めろ、お前は外科医以外の何者にもなれない」
机が当たったのか、頬に冷たい感触がある。
「それほどまでやりたくないのに外科医を選んでしまったところが既に、天分がお前を動かしている証拠みたいなもんだ」
「俺は……」
急速に世界が遠くなっていく。
「おい、どうした。意識障害か? 生年月日と名前を言って見ろ」
「……あの、差し支えなければ五%グルコース五百……いや、メタボリンを……」
目の前がフェードアウトした。