居酒屋3
「SPS、結局、あのDVD通りにやるらしい」
「え?」
村山は箸を止めた。
単孔式腹腔鏡下胆嚢摘出術についての明石の提出したレポートを彼も読んだが、他の手術への拡大も含めて非の打ち所のない内容であり、そのまま提案が通ると思っていたのだ。
「何故?」
「相見積もりを取ったところ、俺の提案の方が高かったらしい」
それは変だった。
「でも、あの提案には価格も入ってましたよね? いや、むしろあっちより安かったのでは?」
明石は肩をすくめた。
「どうせ指し値して下げさせたんだろう。でもその代わり、一つ意見をごり押しで通したから一勝一敗だ」
村山が相手の顔を見つめると、明石は怖い顔をして酒を飲んだ。
「全員でやる」
「え!」
どうせ上級医師だけでやるのだと諦めていただけに少し嬉しい。
「本当ですか?」
「嘘を言ってどうする」
村山は酒を飲んだ。
「新しい事ができるのは嬉しいです」
「ま、お前、この一年、明らかに干されてたからな」
それは言い過ぎだろう。
「部長は時期を見てらしたんじゃないですか。昨日も何か、そろそろ上の方もやってみないかって言われました」
消化器は大きく分けて十二指腸より上を上部消化管、それより下を下部消化管と言う。
村山はどちらかと言えば下部消化管が得意であり、上部は助手も含めてあまり経験がない。
しかし彼がそう言うと、明石は眉をしかめた。
「……やったことがない?」
「そりゃ、チーフレジデントの時に一通りはさせてもらいましたが、右開胸開腹とかはやっぱり件数的に充分じゃないです」
村山はキュウリの酢の物をつまんだ。
「可愛がってくれた准教授がそもそも肝胆碑だったし、俺もどっちかと言うと心臓から遠い方が落ち着くので自然と下の方が多くなって」
「なんだそれは」
説明しにくい内容を含んでいたので、彼は首を振った。
「と言うか、食道癌って見た目怖くないですか? 気管支とか大動脈とかに癌ががっちりくっついてるのを見たらぞっとします」
「下腹だって似たようなものだろ」
村山的にはかなり違う気がする。
「……だが、いずれにしてもお前、それで執刀できるのか?」
「は?」
意味がわからなかったので村山は聞き返した。
「執刀?」
「そうだ」
「助手からスタートじゃなくて?」
明石は黙って頷き、コップを空けた。
「いや、無理でしょ」
「しかし、そういう話になっている」
「ちょっと待ってください」
村山も酒を飲み干した。
そして明石と自分のコップに注ぐ。
「十二指腸あたりならともかく、それより上はもう少し修行しないと」
「なら、断れ」
村山は明石を見つめた。
「断っていいんですか?」
「できもしないものを受ける方が実害あるだろ」
「……だけど、断ったら、またずっとやらせてもらえないような気が何となくして」
「それは間違いなくそうなるだろうな。目的がそのためだから」
「は?」
聞き返したが明石が何も言わないので、仕方なく言葉を継ぐ。
「あの、部長とか明石先生が前立ちで、逐一教えてくださるというおつもりならとりあえず受けてみるのも方法かなと……」
「うちは育成重視の大学病院じゃないし、お前は研修医でもない。せいぜい助手をして、術者の技を盗むしかスキルを伸ばす手だてはない」
村山は少しだけ勇気を出した。
「なら、最初のうちは明石先生の助手をさせていただけませんか?」
「何故?」
「そりゃ、一番上手だからです」
明石はひどく不愉快そうな顔をして、だし巻きの最後の一切れに大根おろしを丁寧に載せてから口に入れた。
「シフトは俺には決められない」
「そうですか? 医長や部長に結構ずけずけおっしゃってるように思いますが」
相手はしばらく沈黙し、じっと南蛮漬けを見つめたまま酒を飲む。
しょうがないので村山は鯖を片づける。
そして数分。
「……話は変わるが、お前は見た手術をそのまま実践できるのか?」
「え?」
唐突な問いに返事できずに相手を見る。
「こないだのトリプルA、経験値等を考えても、そうとしか思えん。そもそもお前ぐらいの年齢であれだけの手術をするなんて血管専門ならともかく、こなした回数だけでは説明できないしな」
見た手術をそのまま実践、という訳ではなかったが、事実には近い。
明石は猪口に口を付けた。
「俺のやった手術だってそうだ。俺が相当時間をかけて考え抜き、練習した手技ですら、お前、見たその次の日にはやってるだろ」
言いようもないので彼は答える代わりに肩をすくめた。
「そう言う明石先生だってかなり経験値高いじゃないですか」
明石は黙って酒を飲んだ。
「……前から思ってたんですが、先生の経歴って謎ですよね」
誰に聞いても、大学卒業後、大学病院で三年、日赤で二年、その後は不明としか答えない。
篠田の紹介でこの病院に勤めてから一年半になるので、年齢から見ると何年かブランクがあった。
「日赤の後は遊んで暮らしてた」
「嘘でしょう」
「本当だ」
明石は脱いでいた背広を取り、ポケットから煙草を取りだして火をつけた。
村山も無意識に内ポケットに手を伸ばし、そして何もないのに気づいて頭を一つ振る。
すると何だかくらくらした。
(……いかん、ちょっと酔ってる)
当初黙っている時間が長かったので、相当ハイピッチだったようだ。
「……場数踏んでることは見ててわかります」
紫煙を羨ましげに見つめながら、村山は呟く。
「内科の知識も相当あるし、開けてびっくりな時も動じないし」
沈黙の後、明石は煙草をもみ消した。
そして再び酒に戻る。
「……何でこんな病院に来てくださってるんです?」
言ってはいけない台詞だったが、思わず発してしまった。
「給料がいいから」
志村が言っていたとおりの言葉が返ってくる。
だが、村山はそこに明らかな虚偽を感じた。
「言ったでしょう? 俺は嘘つきは嫌いです」
「嘘などついていない。金を貯めたらさっさとやめる。そうだな、あと数ヶ月か半年か」
「え!」
我知らず目を見開く。
「……やめる?」
「ああ」
思いの外、村山は動揺した。