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夢の後に  作者: 中島 遼
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船上2

「あんたたちも馬鹿ね。せっかく堕ちかけてたのに天国に戻しちゃうなんて。それとももっと楽しみたいからわざと煽ったの?」

 英莉子が溜息を一つついた。

「でもまあ、たいしたものよ。貴方みたいに苦労知らずで従順なお坊ちゃまだったら、殴られる前にこっちの足でもなめるかと思ってたけど」

 女は微笑んだ。

「……じゃあ、あの子供の命、それからプライバシーと引き替えにっていうのはどう? 細川の話や今までの調査全般から見ると、あの子供はテレパスなんでしょ?」

 村山は笑った。

「耳の聞こえない子は、それ以外の感覚が鋭敏だ。大人の唇の動きを読むとか、合図を覚えて相手に伝えるとか。俺は妹を利用して、あたかも彼ら二人がテレパスであるように見せかけただけさ」

「ま、そんなとこだろうと思ってはいたけど、でも、何かそうやって欺かなきゃいけない理由はあるんでしょう? それを暴かない代わりに貴方が貴方のスキルを私に貸し出すの。どう?」

「断る」

 英莉子が微かに驚きを顔に浮かべた。

「……貴方らしくない返事ね」

「俺のことなど何も知らないくせに、偉そうに言うな」

「少なくとも、今までの貴方の行動を見ている限りでは、貴方の急所は子供たちだと思ってたから」

 英莉子は再び微笑む。

「もし、貴方があの子たちの命に興味のない振りをして、私たちの興味から逸らそうとしているのなら大きな間違いよ。私たちは平気で何でもやるわ」

 それは村山も身をもって体験していることでもあった。だが、

「完全主義のお前達が、強請のネタ以外に彼らを見ていないってことは、彼らに興味を持ってないってことだ。そして、さっきからやたら時間を気にしているお前が、今から計画を変更したり練り直したりするとは思えないし、それだけの忍耐力があるようにも見えない」

「……よくわかってるじゃないの」

 英莉子は冷ややかに彼を眺めた。

「どうせもうすぐ貴方は私の足下にひれ伏して、助けてください、何でもしますって泣くことになるんだから、そんな手間隙かけたりはしないわ」

 女が片手を挙げると、ゲオルグが頷いて村山の背後の方に歩いていった。

 かたかたという音が聞こえる。何かを用意しているのか。

「何をしようと無駄さ」

 ふてくされた顔のまま彼が言うと、英莉子は哀れな生き物をみるように彼を見た。

「廃人になるまでが早いから、本当は最後の手段なんだけど」

 ゲオルグが彼の視野に入った。そしてその彼が手に持った注射器を見て、村山の顔から血の気が引く。

「私も本当はやりたくないの。ずっと長く一緒に働きたかったから。でもね、今度の仕事は半端じゃないのよ」

「……なんの薬だ?」

「色々混ぜた特製の薬よ。値段はすこぶる高いと言うことだけ教えてあげる。それと、常習性がばっちりってことも。二回も打てば、貴方は私から離れられなくなるわ」

「よせ」

 村山の声は我知らず震えた。

 煙草ですらあれほど断つのが大変だった彼が、麻薬の誘惑に勝てるはずがない。

「いやよ、貴方が下手に抵抗なんかするから、泣いてすがるとこを見たくてしょうがなくなったんだもの」

「……俺を失業させる気か?」

「この期に及んでまだ医師免許のことを心配してるの? お医者様って因果な商売よね」

 村山は英莉子を睨んだ。

「言っておくが、そんなものを注射したところで俺は平気だ。逃れる方法だってある」

「それが死ぬつもりって言うことなら考え直した方がいいわよ。役に立たずに死んだ貴方の死体の始末については決まっているんだもの」

 英莉子は優しく彼を見つめる。

「知っての通り、自殺死体を他殺死体に見せかけたり、その逆にしたりするのは得意なの。ここで死んだら、貴方を殺した犯人には奥様になってもらうわよ」

 美しい口もとから、白い歯がちらりと覗いた。

「もちろん奥様には、自分が殺ったとしか思えない状況で目を覚ましてもらうわ。うーん、ちょっとやってみたい気もするわね。貴方をずっと独占してきた女だってだけで嫉妬しちゃうし」

 くくられた腕を動かそうともがいたが、それはびくともしなかった。

「舌を噛むことだってできる。そしたら誰が見たって何かおかしいって思うだろうさ」

「貴方も医者の端くれなら、時代劇でもない限りそんなことで即死できるなんて思ってないでしょう? でも、どうしてもっていうんなら、そんな場面を演出してあげてもいいわ。例えば舌を噛んで死にかけてる貴方を自宅に連れて行って、それからナイフですっぱりそれを根元から切り落とすの。そしたら証拠は残らないし、ナイフはそこに倒れている奥様の手に握らせてあげて……そうね、舌はまな板にでもおいてタン塩の仕込みでもしておこうかな。猟奇殺人としてはなかなかでしょ?」

「すぐにばれるさ、くだらない」

「でも、奥様はおかしくなっちゃうでしょうね。それにそんなスキャンダラスな話がメディアに出たら、貴方のお父様も病院を維持するのが大変になるわね」

「勝手に言ってろ。どうせそんな面倒なことなどせずに、海に沈めて終わりだろ?」

「残念だけど、貴方の死体に関してだけはそれなりのパフォーマンスをしなきゃだめなの。いい仕事を取れなかった腹いせって訳じゃないけど殺しの腕についてぐらいは宣伝しないと、今までの経費についてスポンサーに言い訳できないから」

「……鬼畜」

「ほめてもらって嬉しいわ」

 英莉子が頷くと、ゲオルグが彼の側に屈み込んだ。

「まさかと思うが、回し打ちした不潔な針を使っていないだろうな?」

「感染症を気にしてるの? そんなの今更だと思わない?」

 村山が相手を睨み付けると、女は微笑んだ。

「じゃ、安心させてあげる。……未開封のディスポよ」

 再び恐怖が彼を襲った。全身に鳥肌が立つ。

「どうしたの? まさか震えてるの?」

 目を細くした英莉子に村山は唾を吐きかけた。

 それは狙い通りに相手のスラックスに赤い染みを作る。

「俺を生かしておいたことを、絶対に後悔させてやる」

「素敵だわ。薬が切れたときにもう一度言って頂戴」

 ジャックが彼の両肩を強く床に押しつけた。

「やめろ!」

「今からでも遅くはないわ。貴方が私たちのために働くと言って靴をなめるならここでやめてあげる。……どう?」

 唇を噛み、相手を見据えた彼に女はにこりと笑った。

「ならしょうがないわね」

 強ばった彼の腕に注射針が突き刺さる。抑えつけられて身動きの取れない村山はなすすべもなく、それが体内に入るのを待つことしかできなかった。

「……へたくそ! 痛いじゃないか」

 男達が笑った。

「もっと力を抜け。緊張するから痛いんだろう」

「打つ場所が悪い。血管とか神経の走行とか、もう少し考えてやれっ!」

「注文の多い人ね。しばらくしたら気持ちよくなるわよ」

 彼の身体から男が離れる。

「くそ……」

 三人はゆったりと椅子に腰掛けた。

 そうして黙って村山を見つめる。それがますます腹立たしい。

 怒りで心臓の鼓動音が自分でわかるほどである。

(一体、何を注射したんだ……)

 アンフェタミン? それともヘロイン?

 彼は小さく首を振る。

 薬によって自分がどういう行動をするのかと思うと、居ても立ってもいられないような気持になった。

 かつて大学で講義中に見せられたり、聴かされたりしたドラッグについての内容が次々と頭を過ぎる。

 英莉子を見ると、彼女は腕時計から目を離し、こちらを見つめてにっこりと笑った。

 村山は自分でもわからないような呪いの言葉を呟き、そして女から目を逸らす。

(怖い……)

 ヘロインなら依存的な感覚だけでなく、切れた時の痛みも半端ではない。

 外科なので薬物中毒患者をそうしばしば診ることもないが、色んな話は至る所から聞く。

(畜生)

 下手に知識があると、こういうときに踏ん張りが効かなくなるのだろうか。

 村山は微かに身を震わせた。

 あのゲームソフトに入ったときと同じように、自己を喪失していくような恐怖が彼を襲う。

 脇や額から冷たい汗が流れ落ちた。

(……たかが薬のせいで)

 彼はやっと手に入れつつあった自分を再び失うのだろうか。

 そして彼の新しい主人の前に這いつくばり、これからも今まで同様、家畜のように生きていくのだろうか。

 どれくらいの時間が経ったのかすらわからなかった。

 腕を動かすと相変わらず縄が食い込んで痛い。だが、じっとしていることが辛くて、彼はそれでも執拗に身体の向きを変えようとした。

「……涼?」

 英莉子が眉をひそめて彼の顔を覗き込む。

「うるさい」

 ずっと、叫び声を上げさせられたためか、喉が酷く渇いていた。

「近寄るな……」

 水が欲しかった。

 なのに目の前には赤い血溜まりがあるだけだ。

 それは彼の血なのか、それとも彼の母の血なのか……

 ……お前など、生まれてこなければ良かったのに。

 あの日の呪詛が頭に響く。

 ……お前のせいだ。……

 だからこうなることは仕方ないと?

 ……お前のせいだ。お前が殺したのだ。……

 いつかどこかで聞いた言葉。

 何度も何度も反復し、彼を追いつめようとした言葉。

 ……死ね、死んで償え!

(だから、なのか?)

 村山は目を見開いて身震いした。

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